そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

天気の話でもしようか、それとも政治の話でもしようか?

久しぶりだ……

ブログというものには全く手を着けなくなってしまった。復活する気はないが、気まぐれに書くのも悪くない。
 みなさま! どうしているだろうか。敵なき戦いに明け暮れているのか、何もないところで埋没しているのか、屹立した砂城をただ眺めているのか。まあ、こんな暗いことは考えてないといいが。僕はというと、自分の小説を書いていたのでブログが停滞していた。両立することは可能だろうが、そこまで努力家ではない。なぜか作品を書けるようになり、その結果ブログはストップしてしまった。書けるようになった理由はわからない。突然書くようになり、以降量は多くないが一週間以上書かないことはなくなった。
 ブログを書いていた時と比べて自分がどうなったのかというと、まず思想性がほぼなくなった。昔は「人生とは…… 表現とは……」と歩きながらぶつぶつ呟くような妄人だったのだが、今は「いい天気だねえ」とか思いながら適当に、能天気に歩いている。もう考えることはなくなった。かつて「考えない人は思い悩むこともないから最強」と書いたことがあるが、おおよそなれた気がする。思考とは偉大なのだが、僕には偉大過ぎたようだ。身に余る得物であったし、使いこなせる気がしなかったからやめた。僕より才能も能力もある人が存分にやってくれ。そうなると、残されたものはなにか。二つある。「俯瞰的虚無」と「身体性」だ。
 結局、未だに虚無である(残念ながら……)。ただ、もう虚無であることは何も悲しくない。「こいつ虚無だなー」と眺めているだけだ。そういう意味では、虚無であることが悲しいうちはそんな虚無ってるわけではないのかもしれない。なぜなら、自らの虚無を感じ取る豊かな心があるから。思考放棄の結果、なにも思うことがないので虚無性は増したが、逆に観測することにも執着がないから単に事実としてしか捉えられなくなった。ただこれは強みにもなって、多分これのおかげで行動力は増した。虚無感の邪魔立てが入らない分スピード感はアップした。もう「ぐぐぐ……」と歯を食いしばりながら神経質なピアノを聴くライフスタイルからは卒業だ。かといって、感傷性は今も大好きだ。僕にとって感傷とは、フェティシズムでもなければ極度に主観的なものでもない。単に「優れた情緒」なのだ。感傷性にはフェチも主観も不可欠だ。だが、同程度に「客観的に良い感覚」でもある。クラシックピアニストのヴァレリー・アシェナシェフは「メランコリーは最も優れた感情である」と言った。その通りだ! メランコリることの(凄い動詞だ)、何が悪いのか。存分に浸ればよい。「もっと感傷性を!」これがスローガンだ。俯瞰性から来る、行動優先と感傷性への躊躇いない賛美。これらは明確に収穫だ。
 あとは、妙に肉体性を重視するようになった。ロックを聞かなくなり、黒人音楽に傾倒している。前述したとおり、散歩は考えるツールではなく身体を躍動させる行為と化した。思索がなくなったこの身に残るは、この身のみ。それは単純に愉快だ。外気の与える皮膚感覚は気持ちよく、リズムに合わせて体を動かしていれば満足。身体的な躍動とは、純粋な喜びを提供する、一方的にプラスな性質を持つ。そのせいで本当に適当な人間になってしまった。「明日の予定は?」と聞かれて「じゃんけん大会」と答えたり、「好きな楽器は」と言われ「マラカス」と返すなど、これでは何が真実かわからない。頭のねじが数本外れてしまった。ひたすらな愉快と、恐るべき適当さ。身体性は素晴らしい。
 こうしてみると、全体的には良くなった…… とは言えない。なぜなら、そもそも良い悪いの基準が分からないから。適当になりすぎて、もうなにが良いことなのかも忘れてしまった。昔は「文学こそ使命」と心に刻んでいたが、かつてより習慣づけて書いてる今のほうが書いている意義が見出せない。皮肉なものだ。一般的には「努力」を定量的に行っている生活と言っていいのかもしれないが、その「努力」が「良いこと」とはちっとも思えない。なりたい自分に近づくにつれ、なりたいものがなくなっていく。アキレスと亀さながら。だから今の僕を、文学的に言い表すなら「空っぽの肉体に突き抜ける一陣の感傷性」なのだろう。あるのは、我が身と愛すべき感傷性だけ。良いのか悪いのかは、やはり分からない。分かることは、ためらってはいけないということだ。ここまで書いて気付かされるのは、僕がいかに感傷性を愛しているかだ。前にも書いたが、「しょうもない感傷性」とは、「ためらいのある感傷性」だ。気取ってはいけない。全ての傷を詳らかにしなくては。やりすぎ結構、青臭さ万歳。「素晴らしい感傷性」とは、「やりすぎた感傷性」なのだから。ビートルズ「レット・イット・ビー」は冷静に聴く分にはポールの歌い方はやりすぎだしダサすぎるのだが、それでいいのだ。それくらいで丁度いいし、ゆえに名曲だ。
 サイゼリヤで書いていたが、もう帰るとしよう。店員の目が痛い。それにしても、たまにはブログもいいもんである。なかなか書いていて気づかされることが多い。自分語り最高。どこまでも、なにがしたいかは分からない。文章を書くこと読むことも、楽器を弾くことも聴くことも、良いことかはわからない。ただ、文章や音楽は感傷性を表現するのに最適である(というより、現実の感傷性は基本つまらない)。そういう意味では、案外悪くないのかもしれない。僕はしょうもない人間だから、もっとましな人生があったのかと思う時はある。こんなよく分からない人生は歩みたくなかったと思う時もある。でも、だからこそ「良い」。高尚なセンチメンタルなど、センチメンタルへの冒涜だ。稚拙に、陳腐に、嫌がっていたい。なぜなら、ちんけでないセンチメンタリズムは存在しないのだから。幼稚な悲しみこそ、僕が真に愛する感情なのだから。


終わり……次回は未定だ! いつか書くと思う!