そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

今年の抱負は、自分の中で一番素晴らしい「他人の抱負」です!

次回は未定と言ったな? それは今だ!

最近小説が一本書けて、次のアイデアがないためブログをせっせと更新することにしよう。

 

明けましておめでとうございます、新年ですね。今年の抱負は「特にない」です! 以上! いや思うんだが抱負っているのか? 「今年の抱負は『乾坤一擲』です!」って言った奴は師走まで覚えているのか? 絶対適当だろ。

 とはいえ、目標とは難しい。確かに、今ここで「今年は長編小説を三本書いて、作曲者としてのスキルをつけて、本を100冊、アルバムを100枚聴いて……」と言うことは出来るし有意義なのだが、違う気もする。というか、上の目標は単なる物量なので、「1日1000字書いて、作曲の勉強を一時間して、読書も一時間、週二枚アルバム聴けば目標達成だな」って逆算することになるが、そしたら一年スパンではなく1日のペース設定の話になるので、本末転倒感が漂う。ペースを維持できているかの判断基準として一年の目標が作られることになるからだ。

 そもそも目標とは「納期先決」と「行為先決」がある。「今年の目標」は典型的な納期先決である。期間を決めて、その期間内になにする? ということだ。一方行為先決は、例えば「あいつを殺したい」から始まり、そこから調査一週間、方法決定一週間、事前準備一週間、実行、という風にやりたいことを前提に期間を決める。で、僕が言いたいのは納期先決は基本的に意味が分からないということだ。

 計画とは最終的なゴールがある。ゴールにも二種類あって「納期的ゴール」と「行為的ゴール」がある。「月末の締切まで原稿を書き上げる」だと「月末」が「納期的ゴール」に該当し、「原稿を書き上げる」のが「行為的ゴール」に値する。このケースだと「納期的ゴール」の達成には「行為的ゴール」が不可欠(締切を守った=原稿を書き上げた)だが、逆に「行為的ゴール」の達成に「納期的ゴール」は不要であるため(締切は延ばせない訳ではない)、「行為的ゴール」は「納期的ゴール」より優位に位置する。よって、「納期先決」は合理性に欠ける。「行為」なしの「納期」は原則ありえないからだ。ただ、無意味ではない。具体的にビジョンが打ち立てられないときに、ひとまず区切りをつけるのはかなり効果的なのは確かだ。「素晴らしい次善策」という形容がしっくりくる。「計画的に行動するための手段」として「納期先決」は役に立たないが、「自分のやる気にメリハリをつける」という視点では有意義である(こういう考え方はすごい重要で、論理的に役に立たなくても違った形で効果的なことは数多い。例えば、精神の健康のためにスピリチュアリティは重要であることが分かっている。神のために生きるのは全く内容のないスタイルだが、強力な原動力となり強靭さを養う。人間は論理で生きてはいない。脳の生理的な作用に従って生きている)。

 ここまで考えてみると、やっぱり「今年の抱負は『乾坤一擲』です!」って凄いな! 頭が空っぽな感じがする(先述した通り、悪い意味ではない) 。という訳で、「そもそものそもそも」の今年の抱負はやっぱり「特になし」です! ちなみに、僕個人には目標ではないが昨日からやろうとしていることがある。日記を毎日つけることだ。 前にも書いたが、僕の母親は小学5年から今まで毎日日記をつけている狂人で、それを真似てみようと思った。今僕は26だが、還暦になっても今の母親には継続年数で及ばない。還暦の自分など、全く想像がつかない。そこまで書き続けることも出来るか出来ないかというより、やはり想像も付かない。そして、そういう事実を母親は何も感じていない。あの人は自分の皺が増えたことと芸能人が整形したことはめちゃくちゃ興奮して話すが、僕が日記付けてること誉めても「え、そう?」位のことしか言わない(やはり狂っている)。多分あの人にとっては、日常の一部となりすぎてご飯を食べることと全く変わらないんだろう。「毎日ご飯食べてて凄いね!」って僕が言ってきた位にしか捕らえていないんだろう。昨日そのことの凄まじさを痛感していたら、僕もああなりたいと思ったのだ。かっこよくない? 30年以上書き続けていることに対して、はったりなしで「え、そう」って返せるの。ルールは母親を真似することにした。「1日1行でも全く問題ない」「その日書かなくても、後日その日の分を書いたらオーケーとする」緩いといえば緩いルールだが、逆に考えた方がいいと思う。「0行0文字ではない」のだ。僕も多少は文章を書くから分かるが、やる気がないのに机に向かって書くのは本当にきつい。やりたくない。個人的には、「0文字ではなく10文字書く」のは「1000字書く予定だったが頑張って5000字書いた」より遥かに凄い。何より、僕の母親はそのルールが緩いかどうかなんて全く考えていない。5年くらい前に「5日分くらい1日1行まとめて書くときもあるよ」と何気なく言っていたときがあった。それが駄目とも、いいとも思ってないようだった。一方僕は「そんなもんなんだ」と感じていたが、そんなもんではない。その時点でもう差が出ているのだ。怠け続けることを許しながら30年続ける人と意識を高く持ってなにもしない人が合わせて二人いた。僕は凡庸だが、あのときは凡庸ですらなかった、凡愚だった。

 母親は小学五年生で日記をつけ始めたとき何年続けようとは全く思ってなかったらしい。何気なく続けて、何気なく今に至るだけだ。本当に悔しいが、僕にそんな才能は一切ない。毎日書くことを決意しなければやらないし、やる気がない日は死ぬほど奮起しなければ書けないだろう。弱気な話だが、自分は才能がないとよく思う。客観的に見て才能なんて分からないことは分かっているが、それでも主観的には感じざるをえないことがある。友達や家族の、全く意識しないで凄まじい努力している話を本人から「何気なく」聞くのは、身内として誇らしいが耐え難い。到底及ばない。頑張らなければ頑張れないし、魔が差したらなにもしなくなる。かといって諦めもつかない。あそこまで行けないのは分かってるが、全部放り投げて自由に遊ぶことも敵わない。だから真似をする。模倣に終始する。僕は小説でも批評でもなんでも、模倣しか出来ない。素晴らしい作品を切り貼りした、寄せ集めしたものしか作れない。作家性もくそもない。そうだ、毎日日記をつけよう! それはそれで意味があるとは理論として分かってはいるが、凡才であることはひしひしと感じる。ただ、少しでもましにはなりたい。「より良い寄せ集め」を作りたい。そして、僕の思いを掬い上げるのはいつだってピカソだ。この発言を引用して終わろう。『他人を模写するのは必要なことである。しかし、自分を模写するのは哀れなものだ。』

 

 

 

 

終わり! 僕が還暦まで書き続けて、「よく毎日書いたね!」って言われたら絶対「凄くね!?」って返す自信があるけどな……