そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

回るメリーゴーラウンド、ラウンドゴーメリー回って

 最近、原因はわからんが停滞感が半端ない。別につまらない感じはしないし、ひどく悲しいわけでもないし、文章や音楽を鑑賞することを極端に怠ってはいないのだが…… 作品へのアイデアが出てこないのだ。今も「文章を書く気はあるが書くことがない」状態に陥っていて、しょうがなくエッセイ的に書くことで何とかネタをひねり出している状況だ。こういうのは原因がよくわからないから困る。原因がないから対策も朧で、特効薬は処方できない。本当はもっといい感じに、ウキウキしながら文章を書いていたいのだが…… キーボードを打つ感覚が妙に乾燥的だ。こいつはまずい! 警鐘が鳴り響いておる。問題は「もしかしたら今後ずっとしばら続くんじゃね(続いたらどうしよう)」的な悲観主義が頭をよぎっているところだ。明らかに無駄で非生産的だ。唾棄すねば。
 しかし辛い。今は感覚や思考をいつも以上にリアルタイムに描いているような状況だが、なぜそうなるかというと「先読みできないほど書くことが枯渇しているからに他ならない」からだ。うう、苦しいようママン。パパン。じじい。とはいえ、結局このような現況を打破するのは「ひとまず何でもいいから書いてみること」であるのは知っている。書きたいなら書くしかないのだろう。脳の言語野をダイレクトに刺激するのには書くことが一番なのだし。で、やってはいるが本当に苦痛だ。書くこともないのに書くのは、胃が空っぽなのに強い嘔吐感があるのと比喩的には近い。つまり俺の書いている文章は内容物ではなく胃液!
 で、まあこうして粘ってはいるのだが。こうしているとふと思う。「なぜここまでしないといけないのか」と。確かにそうだ、こんなにする意味どこにもない。僕がかつて持っていたニヒリズムがまたここで顔を出す。やや呼吸が荒く、不規則な貧乏ゆすりをしながらいつもより強く打鍵しているこの現在の、どこに喜びがあるのか。帰って寝るか、やりかけのキングダムハーツでもしている方がずっと楽しいだろうが。でもここにいるのはなぜかよく分からない苦悩と向き合っている自分だ。なぜだ。意外と書くことが好きなんだろうか。マゾヒストなんだろうか。判断力が鈍ってるんだろうか。どれもしっくり来ない。そもそも、文章も音楽も基本的に作るのも鑑賞するのも苦痛なところはある。自分でもなんでやっているのか未だに分からん。いや、楽しくないと言ったらうそになるのだが、かといって苦痛なのも事実だ。よう分からんわ…… 人生、不思議が多すぎるねん…… なんなんだ、一体。そういわれると、僕はなに突き動かされて「行為」するんだ。逆か。だらだら生きているだけか。ひょっとして自我も欲もない、無なのか。神経科学的には人間に意識はない。そうだ、僕の意識はどこだったろうか? 全てがミステリーかつミステリアスなこの状況では、自己を分析する材料は何もない。なんだ、今の「行為」は。誰もわからないぞ。書いても書いても、なぜ書くかはわからない。「行為」しても「行為」しても、なぜ「行為」するかは分からない。そんなものなのかもしれないし、それこそが本質なのかもしれないし、僕が狂っているだけなのかもしれない。そこには後悔もなければ充足もなく、辛酸もなければ栄光もない。ぼっかりと「行為」が浮かび上がり、その主体は僕。眺めるだけの僕。踊らされる僕。そして、ここまで書いて僕は今までの文章の意味を理解することができ、「執筆行為」が完結する。