そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

行くべきだ。しかし待つことしか出来ない時もある

 このブログの更新頻度が上がってきているときは書くことがない時である。本当は作品に取り掛かりたいんだがなあ! とりあえず僕が立ち直るまではお付き合い頂きたい。
 しかし不思議なものだ。精神的な問題はないし、やる気がないという訳でもない。ただアイデアだけがぽっかりと失われている。そういう時は待つしかない。時間だ、時間が俺に解決をもたらす! とはいえ、待つとは焦れるものだ。かといって、起こすべきアクションもよく分からない。出来ることは、こうやって書く作業を鈍らせないようにダラダラ書き続けていくぐらいだ。太宰治の「待つ身と待たせる身、どちらが辛いか」はその通りで、動かないで解決できることよりも動いて解決できるほうが健全ではある。ある意味パニック障害的な原理だ。パニック障害の症状として、動悸が激しくなったときに「このまま動悸が収まらなかったらどうしよう」と思ってしまうことがあるらしいが、確かに似ている。パニック障害も基本的にはただ待つことしか出来ない。待つことしか出来ないと、人は「一生解決できないのでは」と思ってしまう癖があるのかもしれない。実際には時間が経てば大体の問題は解決するのだが、そこまで冷静にはなれないのだろう。ちなみに、医者から診断されたわけではないが僕もパニック障害的な症状が月一で来ていたときがある。別に病んではいなかったので原因は謎だが、なってみると厄介なものではあった。あれの本質体な問題は先述した「ただ待つしかできない事から来る不安」と、「いつ起きるか分からない恐怖」である。症状自体は生活に大きな支障はない。いつ終わり、いつ始まるのか見えないことに神経をすり減らすことが危険なのだ。症状自体が「潜在的」と言えるだろう。
 と、パニック障害はいいとしよう。もうこいつは暫く僕の元には来ていないし。しかし、やはり待つのは不安だ。頑張ることで救われる方がよっぽどいい。時間こそ何よりも人を癒す道具だが、例外の一つとして家庭環境がある。自分の生まれ育った家庭環境は、意識して改善しないと一生引っ張る。自分の受けた教育を「反省」しないといけないのだ。良かったか悪かったか判断して、自分への影響を調査して、適切な対処をしなければならない。人は意識していないと人から受けた行いをそのまま他の人にも行う。先輩からこっぴどくしごかれた後輩は、先輩になった時後輩をこっぴどくしごくのだ。幼いころの自分は、過去で僕たちを「待って」いる。その時は迎えに行かなければならない。そして、かつての自分に意味を見出してやり、必要なら「もう大丈夫」と言って抱きしめてあげるのだ。だから「反省」とは「帰郷の旅」でもある。自分の経験や体験を反芻し、自分の残像へ会いに行く。会いに行かない限り、過去が歩き出すことはない。それに現在のあなたも縛られ、同じことを無意識に繰り返す。時間は傷を治すが、傷ついた分だけ脆くなったことには気づけない。だから出かけよう。愛されていたのならもう一度噛みしめ、そうでないなら自分で不安がる幼子を愛してやろう。そうして、あなたは現在の自分自身を抱きしめられるようになるのだ。