そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

人並みな幸せから繰り出される健康な人生

 久しぶりだな! 作品が終わったので戻ってきたぞ!

  プロットのストックがないので、1作品書き終わると手持ち無沙汰 になってここに舞い戻ってくる羽目になる。 次の作品はプロットを綿密に書いてみようと思ってるからブログは 結構書くかも。ここは作品がすぐ書けないときの逃避先なので。

  愚痴になるが、今回書き上げた作品は出来が良くない気がする。 前回も微妙だったし、なんだかなあ!  流石にしんどいといえばしんどい。能力の低さに嫌気がするし、 作り上げられた作品達にも申し訳ない。こんな親でごめんよ。 音楽方面も中々上手くいかんし、 流石に俺でも打ちひしがれるものがある。とはいえ、 どうせまた書くのだろう。今も書いてるし。 昔はやるべきこととか、 頑張ることに意味はあるのか悶々としていたが、もう違うぞ。 別に過去疑問に思っていたことが解決したわけではない。 やるべきことは特段ないし、頑張ることに意味もない。 それでも俺はまた書くのだろう。最近わかったことはそこなのだ。 色々うじうじ考えても、また机には向かっていくのだろう。 なぜなら、結局どこまで言っても俺はオタクなのだ。 それ以外にやることもない、暇で悲しき生き物なのだ。 根っからのオタクがいくら自問しても意味がない。最終的には「 オタク活動」に終始する宿命を背負っているから。それ以上にも、 それ以下にもなることはできない。だから、 最近の人生目標は「気ままに(文字通り気のままに)生きる」 にしている。考えていてもしょうがないので、 気のむく方へ生き抜けばいいんじゃない? と。でも俺の気とはやはり「オタク活動」なのだ。自分の強烈な「 オタク性」がそうさせてしまうから。そこに選択権は一切ない。 俺自身が、「オタク性向」の奴隷なのだ。

  もし、誰かに「オタクでよかった?」 と聞かれればどう答えるだろう。多趣味な人を羨むことはある。 コミュニティで楽しく振る舞い、 連夜のどんちゃん騒ぎに憧れてもいる。 俺はそれを洞窟から見ることしかできない。 口を開けば表現論か人生哲学か臨床心理。 そんな奴がパーティに加入できる可能性はあるわけないので当たり 前だが。そこにあるのは虚しさでない。俗な快楽に対する、 非常に通俗的な羨望である。洞窟は洞窟でいいもんだが、 やっぱりひなたが気にかかる。凡人くさい発想もいいとこだ。 ただ、俗な快楽を切り捨てるのもどうなんだろう?  と頭をよぎるときもある。外の世界をシャットアウトすると、 今度は洞窟内で人も文化も循環させるしか無くなる。 それはそれでグズグズになりやすいのも確かだ。 サブカルチャーの不健全さとは、 そういうところに由来しているのも否定はできないだろう( 社会全体が不健全化したのか、 サブカルチャーがメジャーシーンに出てしまったが)。 ひなたの馬鹿騒ぎだけだと冷静さを失うが、 洞窟にこもりすぎると行き詰まる。バランスだよ、バランス! というなんともつまらない結論へ到達する。

  とはいえ、詰まるところそういうことじゃなかろうか?  人間関係だって、 社会的な存在として私的な自分を隠蔽しつつ最初は接して、 仲良くなるにつれて不足なく自己表現できるようになる。 個性を隠しすぎると個人性が消滅し、 曝け出しあって密着すると極度の依存関係に発展する。 依存症について書いた「愛着障害アディクション」には、 社会的なやりとりと自己表現を状況や関係性によって押し引きする のを「健全な人間関係」だと定義している(俺はこれを「 仮面のずらし方を変えていく」と呼んでいる)。健全さとは、 健康であるとはバランスの上に成り立つのだ。 極端に走ることなく、 二極の間をどう押し引きしていくか見極めていく。 そういうデリケートな作業をして初めて実現するものであって、 めんどくさいといえば滅茶苦茶めんどくさい。 それになんとなくつまらない感じもする。 苦労をして得られるのは、 安定してはいるが慎ましくささやかな喜びである。

  だが、それこそが「続けていく」ということなのだ。 今日が終わって明日が、明日が終わってその明日が…… 一定のスケールを持って繰り返される日々というものを、 あまりに途方も無い人生というスケールを我々は過ごしていく。 例え強い快楽を捨ててでも、健全に生きて「続けていく」 ことが重要なのだと自分は判断する。極端な生き方を選び、 刹那的な強い快楽と人生を通底する本質的虚無を共にするよりも、 永続するゆるい満足感を得ることに価値があるのだと。 そう生きることで、あまりに長い一生に相対した上で「 気ままに生きよう」と俺は選び、ひた走ることを決めたのだった。

 

 

 

 


エンド。終わりを英語にするとこんなにカッコよくなる。