そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

物語と私(前篇を読んでから見てね)後編

こうやって、机に座り文章を書く。書くこともないのに、書ける時間は(今現在)5分もないのに、体調も恐ろしく悪いのに、とりあえず書く。ここになんの意義があるだろうか。実益がそこにあるのだろうか。いや、逆なのだろう。書くことでしか、解決ができないということなのだ。原理も原因もわからないが、直感的にはそう思える。連続的に意味を連ね、論として構成するやり方が自分の性にあっているという、ただそれだけなのだろう。メダロットでは全てをロボトルで解決するように、ポケモンならポケモンバトルで、遊戯王ならデュエルで、僕ならばこうやって書くことで、という感じである。吐き出さなければ、感情は閉塞されたままで行き場を失い、毒として体を滞留する羽目になる。であるなら、ロボトルをしなければならない。全ての決着ガンダムファイトでつけるしかない。創作行為はアートセラピーとして臨床でも使われるが、確かにカウンセリングに似ている。セルフカウンセリングは本来なんの効果もないのだが、創作においては「表現理論に則り創作をするエンジニア(あえてアーティストとは言わない。ここでは創作行為を理論の体現と主観的感情の発露とで分ける必要があるからだ)としての自己」と「主観的な価値観や情動を伴った主体」が分離し、対話的な作用を発揮するのだ。分析することで原因を知り、ときには強引に全てを意味付ける。
我々は理由がない状態に耐えるのは困難であるから、妥協的に新たな価値を、希望を生み出すしかない。完全な実益の元に生み出される、人生の意味。前に進むために偽造される、前向きな思考。しかし、そうやってごまかすことは許されていないのであろうか? 僕たちは本物であるべきだろうか? 真実を追い求める求道者たるべきだろうか? 書くときに、僕は嘘をつく。思ってもないことを綴り、考えてもいないことを堂々と語り、断ずる。嘘に満ちた、真実を小馬鹿にした、見事に劇場化された、物語。なにが変わったろうか? 一雫でも得るものがあったろうか? 真実に固執すれば、もっといい未来があったろうか? 物語よ、一体お前は何を語るのか? 出会えたことに、慣れ親しんだことに、一欠片の後悔もなかったならば。ここにいる全ての原因を解き明かしてくれたら。僕の物語を、お前が語ってくれたら!
語ることでしか、伝えることはできない。言葉を用いなければ、思うことはできない。そろそろ終わりにしよう。洒落たとんちは懲りたろう。また、物語を書かなければならない。無感動なお話を始めよう。打ち明け話と、褪めきった思い出を情熱的に披露しよう。全ては昨日のつづき。移ろいゆくも、全てが模倣に見える毎日。だから、きっと書けるのだ。今日書けなくとも、いつかはやってくれる。苦痛の中で、苦痛が悪くないと思える瞬間が来る。狂おしい時の流れは故郷すら洗い流し、否が応でも僕たちを癒す。複製された日々でも、ここぞという刹那がある。物語は何も語らない。だから僕は嘘をつく。その嘘がまるで真実にしか見えないように、朗々と語る。生きる意味が幻想だと思えないよう、物語であることを演じる。





うむ、終わりだ。以前友達に「俺の人生は百戦して百勝する人生だ」と言ったことがあるが、こうして読み返すとそんな感じはするな