そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

コロナについて


おはよう。2021年初投稿と行こう。

 と、いう訳で長期間の休眠を経てブログを書いている。この一年は脆くも失われてしまった。尖った刃物は面白さを失い、奇人変人は生活に苦しむ弱者へと堕し、空っ風は来るものを歓待するーー そんな一年であった。(本当か?)なにはともあれ、久しぶりである。皆はあほらしいことをしていただろうか? それとも、世知辛さに迫られシリアスになることしか出来なかっただろうか? 僕は後者であった。
 僕の一年を振り返るのは前段落でお終いにして、違う話をしよう。色々と考えることが多かった日々を送っていたのだが(こういうとどんな日々でも馬鹿っぽく聞こえるな)、2021年になってしまった。勿体ぶった言い方をしているが、大きな変化があったかと言われるとそこまででもないかもしれない。人と接触する機会が減って、電車に乗らなくなって、外食があまり出来なくなる。事実だけで言えば、こんな感じで合っているだろう。ただ、これは一年が過ぎ去ったのを「振り返って」いるだけだ。もう少し苦しんでいただろうし、悩んでいることも多かっただろうし、体力も落ちていた。ただ、いくら大変でも過去になってしまえば「そんなもん」って感覚もある。喉元過ぎれば熱さを忘れるというのは、そう思うと言い得て妙だ。ひりつくような熱気はその瞬間にしか存在しない。出来事を羅列することは出来ても、体験の生々しさは置き去りにされたのだ。
 全ては過去に消えた。当たり前だ。過去に消えない現在などありえないのだから。しかし、僕は現在を持て余してるような気がする。あまりに超大で、どうしていいか分からない感じがする。それも当たり前だ。現在に根付かない過去もまたありえないのだから。いつもより密度のない日々を送ったのであれば、目の前の濃密さと対峙できる度量など持てやしない。だからまあ、こうやって取り留めのないことを書き続けて時間や自己を繋ぎとめておこうともがいてみるのだが、思ったより悪くない。キーボードへのリズミカルな打鍵は心地いいし、作業用BGMは日常を思い出すのには格好の逸材だ。好き勝手に書くというのもたまには良いもので、遠慮がいらない。結果がどうなると今行っている作業は良い。それが全てなのだろう。結果はまだいい。今はつまらないことをしよう。思いついた言葉を書き殴り、目についた物と戯れよう。自分自身のエモーショナルを捨ててまで他人に奉仕する意味もないのだから。人生は全て休息なのだろうか? それはまだ分からない。いつ立ち上がるのかは予測がつかないから。だったら、好きなだけ休憩しよう。なんなら、死ぬまで心地よく休み続けてしまおう。
 うん、そういうことだ。良くなるかどうかは、いつだって闇の中。だから、やれることは眠ること。中々合理的だ。「ゆっくり」するか、「焦って」いるかは、結局のところ己次第でしかない。問題は、ゆっくりすることに納得出来るかということに尽きるのだ。いつ覚めるか分からない眠りの、長い夢。このまどろみは行動を阻害するものではなく、安眠を促進するためにある。疲労とは悲嘆に暮れるためにあるのではなく、存分に寝転がるきっかけなのだ。そうじゃないなら、なんなのだろう? 疲れたら寝るのが人間だろう? 気概だけが空回りして、絶望に陥る意味はないだろう? 疲れた。久しぶりに思考した。しかし、悪くはない。疲れを利用するのは自分だ。こいつは最上級の行動材料だ。あとはベットに行くだけ。暖かい毛布にくるまり、回復していくだけ。死ぬまで続くなら、それもいい。だが、そこまで人生は出来のいいものではないだろう。


終わり。勘がつかめないのか私小説とも長い詩とも思索的なエッセイともつかない謎文が出来てしまった。が、いいんじゃあなかろうか。