そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

人として軸が間違っている人は、人ではありません


 9月。9月である。色々なことが始まり、そして終わっていった。色めいた神々は錆びつき、神話となって物語へと埋没し、また新たな季節が来る。それっぽいようで当たり前なことを言ったところで、さっさと本題へ入ろう。
 
 倫理とはなにか、という問いがある。このブログでこういうかたっ苦しい言い方は好きじゃないので、こう言い換えよう。やるべきこと、やっていいこと、やらない方がいいこと、やるべきではないこと、とはなにかということだ。それは時代や場所によって異なる、と思うかもしれない。確かにその通りだが、時代や場所に左右されるのは倫理ではない。それはあくまで社会的にやっていいか悪いかという尺度での話だ。つまりは、普遍的でなければならない。例えば、意味もなく人を攻撃するのは否定されるべきだろう。また、攻撃の一種として差別もやってはならない。こういうある種「一般的に駄目なこと」は世の中に流通している。
 ひとまず、ここでは差別発言や暴力といった攻撃的な言動を「やってはいけないこと」とする。こういった価値観は賛成か反対かはあれど欧米的な思想で生きていれば存在していることは知っているし、小学生に配られる道徳の教科書を開いたら一発で出てくる(ただ、僕は道徳的な人間ではないので教科書に淫らな落書きをして倫理を冒涜していたが)。僕も反対しないし、広まるべき考えだと思う。問題は、「やってはいけないこと」を「やってしまう人」の取り扱い方だ。現代は近代以前と比べて倫理に対して非常に敏感だ。だから人権問題が白熱するし、少数派への理解が誰であっても求められるし、客観的に思考して「やってはいけないこと」を分別する能力が求められる。そして、「やることを間違えた人」は「人として間違っている人」として断罪される。特にインターネットにおいては容赦なく、リアルに対面してないが故に無責任に裁かれる。「間違えた人」を攻撃するのは「やっていい」からだ。人によっては「やるべきこと」と言うだろう。「人として軸がぶれている」という2000年代に流行した小粋なアニソンがあるが、令和においては「ぶれている」なんて価値基準は考えにくい。正しいか、間違っているか。「ぶれ」なんていう曖昧なニュアンスが許されていたのはかつての話だ。
 ここまでは現代おける倫理のあり方について話した。これから話すのは、倫理を実践出来る心理状態についてだ。人を非難することは「やってはいけない」。しかし、非難することを止められない人がいるとしたら? 演技性パーソナリティ障害を抱えていたら、目の前の相手を延々と茶化しながら罵倒することがあり得るだろう。境界性パーソナリティ障害であれば、昨日は誠実で優しかったのに今日は嫌味ばかり言うことも起こりうる。これらの行為は無論「やってはいけない」。だが、これらは「人として間違えた人」として断罪されるべきか? 精神疾患がある人は病気なのだ、だから間違えても仕方がない、と言う人もいるだろう。だがここまで深刻でなくとも、幼少期に虐待されると恐怖が刷り込まれて反射的な言動をとってしまい、意図しなくとも攻撃的なアクションに出る可能性はある。というよりもっと事態は複雑で、意識的な暴力すら「過去の残影」なのかもしれない。もっと言うと、人によってトラウマとなるポイントは千差万別なので、あなたにとって何でもないことが当事者にとっては凄まじい恐怖として刻まれていることも考えられる。「やってはいけない」ことを「やってしまう」人が「なぜやってしまうのか」を、あなたは想像できない。一般的に、社会では理性的であることが奨励されているが、人間というのは想像以上に「生理的」なのだ。あなたは目の前の相手が攻撃してきたら非理性的で感情的な人だと思うかもしれない。しかし、主な原因が「低気圧だと気分が悪くなる体質で、その日は台風だった」という可能性も否定できない(僕は預金残高によって理性が高くなったり低くなったりする。みんなもそうだろ?)。
 高貴な理性を用いて本能を制御し、倫理的な言動を徹底する。実に隙のない行動指針だ。パーフェクト! しかし、ヒューマンはパーフェクトではない。ビス一つまともにはめ込まれていない欠陥製品だ。理性が重要であっても、人間から感情と生理的欲求を抜くことは出来ない。怒りがないなら人を悪しざまに傷つけたりしないだろう。食欲がないなら飢えのあまりパンを盗んだりしないだろう。不機嫌になることがなければ、理不尽な態度を見せつけてしまうこともないのだろう。だがそうはならないのだ。人間は完ぺきではないから。誰にだって、怒りや欲望や体調に突き動かされる時があるから。人類全体が理性的であることを諦めろとは言わない。だとしても、理性を邪魔だてするような衝動は無くすことが出来ないから、否定しても意味がない。そうなると取るべき行動は二つだ。寛容な精神で受け止めてやるか、気の済むまで喧嘩するか。僕は争いってのをそこまで悪く思っていない。命の奪い合いや過度の肉体的暴力ってなると話は別だが、口喧嘩やちょっとした取っ組み合い程度は後の人生に尾を引くほどの影響を残さないし、人間関係にとっていい結果をもたらすこともありえるはずだ。怒りが湧き上がることを止められない以上、「怒りのぶつけ合い」が起きるのもおかしいことではない。右の頬をぶたれたら、ぶった相手はクソ野郎。左の頬もぶたれた日にはさあ大変。生産性がない行為のように見えるかもしれないが、少し考えてみてほしい。一方的に感情をぶつけられている状況で抵抗が許されていないのもフェアではないだろう。理不尽な罵言を喰らったら、「なんだ、そのむかつく言葉は?」と言い返すことは間違いではない。正しくはなくとも、人として許されがたい行為ではないだろう。むしろ、自分がやられてもないのに間違っている人を攻撃する方が遥かに問題だ。そいつの間違いを正すのはあなたではない。間違いをどう取り扱うかは、被害者と裁判所が決めることだ。
 我々は、女神になれるだろうか? 一部の欠落もない、慈悲に満ちた救世神に。「間違えなければ」、それは出来るのかもしれない。だが、この世を見渡してみれば、女神は数多くないことが分かる。あるのは、女神によく似せた白磁の彫像だ。我々は間違える。右も左も取り違えたまま交差点を曲がりくねり、幾多の他人と無様な衝突を繰り返し、瘤と痣まみれの裸体を哀れむ。その時、我々はおよそ完全とは言えない。「間違えた人」は、その時点で「間違えたことがない人」には一生なれない。そして、間違えたことが一度でもあったら、最早それは完全ではない。こんなにも出来の悪い存在なのに、我々は完全になろうとする。時の中に過ちが刻まれていることも忘れて、傷一つない女神になりたくて生きている。あらゆる怒りや悲しみを乗り越えて、幸せに満ちた世界へ辿り着こうとする。
 ただ、やはり無理なのだろう。僕たちは古傷まみれだし、積み上げた債務はとっくに超過している。どれだけ自分を制御しても、なんとなく嬉しかったり、次の日には寂しくなったりする。色んな条件、様々な環境に左右されて、僕たちはこの瞬間を生きている。目まぐるしい感覚と感情の洪水に流されながら、なんとかやっている。全ては無常。常しえであることは許されず、日替わりの気分を味わう毎日。そうであるなら、今日の気分を楽しもう。昨日と違う、その日の気分のままに生きよう。日によって優しくて、日によっては怒られて、ただただ一日一日と過ぎていく。うまくやろうとはしているが、満ち足りた人生とは程遠い。常に改善策を考えても、最後の最後まで道半ば。人生は完成しない。いつまでもいつまでも、不完全な気まぐれに足元をすくわれる。だから今日の間違いは忘れよう。明日は明日の風が吹くから、その風に乗ってどこまでも行こう。成果が確実だったためしはないし、幸せは約束されない。明日が今日より良くなるか、明日にならければ分からない。だけど明日になって吹く風を、感じることは出来る。心が荒れ野原となっても、一陣の風は吹き抜ける。その風が草木を切り裂いているように見えるか、爽やかな風当たりを体全体で心地よく感じるか。生きていく中で僕たちが選べることといったら、それくらいなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

終わり。今回は言い残すことはない。