そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

誰にとってなにが美しかろうが、美しいことはうつくしいんじゃね

 仕事が始まってしまいました。作業自体はまだ楽だが、職場のルールもろくに分かっていないからえらい大変だ。

 事情があって一昨日から仕事が始まったのだが、仕事初日の夜はダニエル・ジョンストンの「イエップ・ジャンプ・ミュージック」を聴いた。ダニエル・ジョンストンは大学時代に片想いだったローリーのことを50過ぎても歌う本物の狂人だ(おまけに躁鬱)。そんな彼だから愛について歌ったラブソングが多い。実際彼を語るときに愛を主題にする人は多いが、僕からしたら訳がわからない。単純に、一人の女を30年歌い続ける人の気持ちを理解できるか?もちろん、狂気と純粋さに惹かれることはある。だが、愛からダニエルを好きになったりはやはりしない。僕たちがダニエルにはまってしまうのは、あの声とメロディ、そしてオルガンのリズムが叩き出す「美しさ」からだろう。そこに大体不能な「美、なるもの」を感じるからに決まっている。僕たちは表現を感じることしかできない。どれほど深い思想に満ち、精緻に世界を構築しようとも、結局は我々にどのような感覚がもたらされるか、が問題なのだ。だが、感覚を伝えることはできない。ゆえに、論理や分析を用いて他者に評価を「教え込む」のだ。思想で人は理解しあえない。社会的世界からは主体の生理的な要素が反映されない。「美しいもの」、「よき感覚」とは、もっと普遍的なのだ。思想は伝達しやすく、それっぽいだけだ。しかし、「美的感覚」、美しいものを美しいと(その価値観によってどんな姿を美しいと思うかは分からない。実体がないかもしれない)と思うと同時に、他者も「違った」ものから「違った」ように「美しいもの」を「美しい」と感じていることを「わかる」ことが、人と人が繋がりうる唯一の可能性なのではないだろうか。同じものを同じように美しいと感じる必要は一切ない。ただ、他人の「美的感覚」を認めること。それは容易であるはずだ。なぜなら、「よき感覚」が如何に素晴らしいかあなたは「知っている」のだから。もちろん、他者の感覚を知ることはできない。それでも、「美しさ」を基底にすえるのだ。表現はそれを教えてくれる。意味が何かを伝えたりはしない。意味から「良き感覚」が生まれるだけだ。音色や声は常に素晴らしい。まるで意味のない、何処かから立ち上がる響き。ダニエルジョンストンの愛や神は一切理解できない僕でも、その「美しさ」は心に染みる。精神性よりも、音色、色彩、文体の「感じ」の方がよほど本質的なのだ。

 そこから、僕たちは考える必要がある。事物の持つ「感じ」からなる「美」を「感じる」こと、「どれに美をどのように感じるか」は違っても、「美しさ」に対して切実になれることは「同じ」であること。それが分かれば、他人と自分は分かり合えなくても、美の元で一緒に生きることぐらいはできる。

 

終われ! ま、僕はくだらない本とか読んでる奴見ると内心「はん!」って思うけどね。

空気が読めると逆らうことができなくなるからさあ大変

ここ数年で自閉症スペクトラムについての議論は盛り上がりを見せている。僕も多動症だからなんか抱えてそうだが、特に問題ないためどうでもいい(自分に興味ないし)。最近調べてて面白いのは定型発達者(アスペとかadhdじゃない、社会的に「普通」の人)も問題があるということだ。定型発達者は非定型と比べて空気が読めるし、人の表情を読みることもできる。しかし、その分空気に逆らうことを苦手とする。定型発達者は順応「しすぎる」のだ。クラスの流行りにあわせて自分をセットアップすることを義務づけられている。流行に興味がない人からすればなぜ無理に合わせているか分からないのかも知れないが、それこそが定型発達者の「病性」なのだ。脅迫的な順応性。はみ出しものはミーハーを馬鹿にするが、それは却って自分の幼稚さを露呈する結果を招いているだけなのだ。はみ出しものは周りに合わせないのではなく、出来ないだけだ。「凡俗」な流れに乗る者は仮面の被り方を「知っている」から「やってしまう」。
「本当の自分」を探すのは馬鹿らしいと前の記事で僕は言ったが、案外そうでもないのかもしれない。仮面をつけられる以上どうしてもつけてしまうため、外面と内面が乖離し始める。自分が正しく「定型」であるような錯覚に陥ることになる。
昔は、定型であることになんの疑いも抱くことはなかった。なぜなら、抱けるだけの情報を持つことができなかったから。神や王に従うことを疑いうるような情報が与えられる機会がそもそもなかったから。しかし、今は妙な形で個性というものを請求される。絶対的価値によらない「個的な価値」を持つ必要が出てくる。そのとき、空気や流行に逆らうことができない「生まれ」を持っているのは悲惨である。adhdの性質の一つに衝動性があるが、彼らの従属もある意味では「衝動的」なのだ。
みな違った意味で衝動性に突き動かされている。二つのタイプを分けるのは、多数派か少数派かでしかない。だから、僕たちは自らの思うように「あれ」ない。違った形の自己であり続ける自己。しかしそれでも自己である事実が変わらない。そのため、人は自分を許さなければいけない。どんなに自分が望んだ形にならなくとも責めても意味がない。常に人は「意思」よりも「性」で生きるものだから。納得のいかない、こんなに使えない自分自身にできることは、寄り添うことだけだ。

オワリ。こうして読むと女より男の方がアスペルガーが多い理由がわかるな。その分女の方がなっちゃうと大変なんだろうけど。

クズな人はいるが、自分自身はクズになることができない

 「僕はクズだ」と自称している友達がいる。それに対してなんとも思っていなかったが、ちょっと疑問になってきた。

 「〇〇は□□だ」という物言いは基本的に同語反復だ。isがイコール関係なのは中学生で学んだろう。「りんごは赤い」といってもりんごは元々赤いわけで、そこに新しい意味合いが含まれていない。では、「俺はクズ」は同語反復だろうか? 違う。自己は、そもそももっと複雑だ。主体とは常に対象化できない。自らの混沌は解き明かせない。「あいつはクズだ」は成り立つ。自分ではないからだ。なぜか? 自分ではないものの感覚や情動、衝動や思考は分からないからだ。他者はどう思っているか、なにを感じているかは分からない以上、言葉や身振り手振りから解釈するしかない。つまり、社会のルールに準じた「分析」が可能なのだ。「分析」には必ず自己流の「見解」が入る。だから、他者は相手を移す鏡足りえるのだ。他方、自分は自分で「あるから」感覚や情動を感じることが出来る。(他者の情動は分析できるが感じることは出来ないのに対し、自己は情動そのものに「直面」できるがカオティックすぎて分析できない)僕たちは、こちらを釘付けにする美しい表現を「豊か」と称したりする。だが、そもそも表現に感動することが出来るわれわれの感覚こそが最も「豊か」なのではないだろうか? 優れた表現はこちらに強い情動を与えるが、揺さぶ「られる」こと自体が、揺さぶって「くる」表現と比べて劣ると断言できようか? 衝動的な表現や情念に満ちた表現は僕たちに狂おしいほどのえもしれぬ感覚をもたらす。しかし僕たちは生きてきて何度、自分の訳の分からなさに絶望してきただろう? 理由も分からぬまま変てこなことをする自身にあきれただろう? それと比べれば、表現の持つ衝動性も情念も大したものではない。僕らはいつだって「自分」が一番「自分自身」に驚き、呆れてきた。人間にとって、自分こそが人生史上最高の「名作」なのだ。当然だ。インクや空気の振動が生み出す擬似的な心のあり様ではなく、生の感覚「そのもの」に触れているのだから。

 だから君はクズじゃないよ…… と言う気ではない。「名作」とはあくまで比喩であり、われわれはその「名作性」ゆえに苦しんだりもする(狂気は素晴らしく魅力的だが、本人からすれば苦しみでしかない)。しかし、それだけ意味不明な自己を「クズ」で片付けられるわけがない。それは自分の持つ混沌を打ち捨て、対象化することで極限まで矮小化、卑小化することになる。「僕は〇〇なんだ」と考えた瞬間、あなたにとってあなた自身は「他人」でしかない。そういった自覚を持って生きてしまうと、感覚や情動によって顕在化する現在の「きらめき」は失われる。何かを感じるには、解釈など不必要だ。

 クズと称するのは楽だ。そう称すればクズであることに悩んでいるように見えるが、実際は違う。かといって、クズを自覚することで免罪符にしてるとか、自覚してる分マシだと思ってるとか、そんなどうでもいいことを言いたいのではない。クズを自覚することで、あなたはクズに「なれる」のだ。恥ずべき行いを、「クズだから」と解釈することに甘んじてしまう。今まで述べたとおり、解釈は他者にしかできない。だから、自分のしたことを「俺はクズだから」と解釈することで、「クズな行い」は「クズな俺」がやったことであり、自分自身ではなくなる。自己否定とはそのような論理で成り立つ。否定すれば、自分のやることは自分でなくなる。「駄目な自分(というある意味での他人)」がやったこととなってしまうから。そうではないだろう。人間はなにをしても「他ならぬ自分が自分を総動員させて取り掛かった」に決まっている。そして行ったこともまた「人生」の一部になっていく。だからこそ、僕たちは自分がなんであるか分からない、恐ろしい存在であることを「自覚」しなければならない。

 

終わった! なぜか楽しく書けた。  

人生は常に一人だが、一人の力では生きていないぞ

 最近、お別れラッシュである。この十日間で十人は超えている。友達が多い人からすれば十人越えといってもなんだそんな程度、という感じかもしれないが僕からすれば凄い数だ。毎回特別な別れ方をしている訳でも別にないのだが、変にエネルギーを使う。もう二十人以上と別れの言葉を交わしてきたが、ふと自分にこんなに別れを告げ「られる」人がいることに驚いた。こんなにいたのか。僕に対して「また会おう」「長期休みになったら戻って来い」「お前とはしばらくあえなくなるな」みたいなことを言ってくれる人がこんなにいたということに本当に驚いた。僕はそのとき幸せであるとか感謝の言葉よりも真っ先に「良かった」、と思えた。僕にとって最も楽しいことは友達といるときではない。友達も読んでる中で言うのもなんだが、断言する。歩いて考えること、音楽を聴くこと、文章を読み、書くこと。これが最上の楽しみであり、これ以外は何であろうとワンランク以上落ちる。やっぱり僕が救われるときは、常に自分自身によってだ。自らの問題を解決するのは自分でありたい。そうすることが、自分の人生に対して「責任」をもつことなのだから。そのための行為が、聴いたり読んだり歩いたり書いたりということだ。でも、いろんな人から別れの言葉をもらえたのは「良かった」。それは自分の人生に価値があったとか、そんなどうでもいいことではない(そういうのは老いぼれがすることなのだ)。こいつがいることが「良い」からだ。僕は友達には恵まれたと思う。適度に人間味がなく、狂ってて、面白い奴が全員の特徴だ。いっぱいおごってもらったし。そいつが友達で良かったかどうかはなんだっていい。ただ、こいつがこの世にいたことは「良かった」と思う。そいつの存在はこの世界にある。離れてても一緒だよ☆的な論調ではなく、いやむしろ離れても論理的にはそれはそれで良く(いいのかよ)、そいつが、人間味がなく、狂っててるからこそ面白い奴がいること自体が、「良い」ことなのだ。惰性に従属せず、苦悩し、間違えまくる奴を発見できたことが嬉しく、僕の存在の糧となり続ける。

 人間は常にそうだ。これだけ孤独でありながら、どこかで「存在」に支えられる。誰かと一緒にいること以前に、気に入った奴が「生きていること」が喜ばしいことなのだ。思い出とは大事にする意味がない。なぜなら、勝手に思い出に支えられ、「救われる」から。別れは辛いものだが、そうであっても「存在」を「発見」できたことが一つの収穫だ。だから「別れは人を強くする」は間違いである。出会ったときに手に入れ、別れるときに残ったものが「強くする」のであって、別れという行為自体が人を強くしたりしない。僕たちは出会って別れる。それがループするのではなく、別れても「存在」はあり続け、あなたの生を変えていく。そう、別れを惜しむ場合ではないのだ。「見つけられた」ことを喜ぶべきだ。そしてその喜びを再認識したくて、僕たちはもう一度会う。

 

終わりー。別れることをいちいち悲しむのが理解できないのでこういうのを書いてみた。最後の一行かっこつけてるけどいわば只の同窓会だよね。

まだ生きてるってことは救われてるってことだよ

「救い」はよく小説などでテーマにされるが、つまるところ救いとはなんだろう? よくわからないからどこか神秘的な響きを帯びるのだと思うが、今回は救いの内実について考えるときだ。
友達に救われたいと願ってるやつは何人かいる。(前回の記事と合わせるとヤバイ友達しかいないみたいだな。外れてもないけど)救われたいと願っているから、彼らは「救われていない」ことになる。なぜ「救われていない」のか?なにをもってそう言うのか? それは本人も明瞭には分からないのだろう。
僕が思うに、人は既に救われている。仏陀みたいな言い分だが。そもそも、人はどれほど絶望的でも「救われうる」のだ。なぜなら、未来のことは分からないのだから。どれほど堕落しても、救われる可能性は存続する。なにをもって救いとするかは未だよくわからないが、常に「救われうる」こと以上に具体的な「救い」があるだろうか? 生は常に不確定だ。だから生きることと救われることは等しい。人生の中を生き続けるとき、あなたは救われ続けている。どこまで転落しても上昇する可能性が原理的に残り続ける。人生はなにが起こるか分からないから不安にもなるし、それが楽しみでもある。だがそれ以上に、分からないから僕たちは救われている。そう、駄目でも「まだ生きられる」のだ。
しかし、僕が本当に言いたいのは救われているから楽なわけではないことだ。「まだ生きられる」ということはどれほど堕落していても「生かされる」ということだ。「人生なにが起きるかわからないんだから生きてみたら」的な説教は正しいが(その代わり果てしなくうざい)、この論理は生きること自体が強制させられる。救われているから、生きねばならない。人間は終わることが許されない存在なのだ。それは、どこまで追い詰められても獣は戦うことを諦めないかのような、悲壮な姿だ。
「救い」とは、瞬間的な多幸感ではなありえない。膨大な幸せを手にしたところで、そのあとも人生は続くのだからすぐに消えてしまう。われわれは出来事を重ね続ける。どんなショッキングな出来事のあとも、違う出来事がすぐ到来する。だから、哲学者は考える。論理によって恒久的な幸福を掴もうとする。それは自らの状況や環境が全てである現実の前ではあまりに無意味で、儚い。論理がいかに厳密で感動的でも、朝の満員電車が快適になったりはしない。僕も生きることについて考えるが、なぜ考えるのか。恐らくいや間違いなく、生きているだけで救われているような、嫌気のさす現実の中にある「美しさ」に気づきたいからなのだ。

終了。最近変に感動的だ。けものフレンズの影響だろうか。

こんな人間じゃなかったら、どんな人間になればいいんだ

昔から僕の友達は変な奴が多い。最近わかったことは、やたら幸せについて考えている奴もまた多いことだ。別にその二点を結びつけようという気はない。思うのは、幸せを求める理由だ。
当然ながら、幸せというのはあまりに漠然とした状態であり、具体性が見られない。だから、彼ら幸せを求める人は自らのうちに不足を感じている。なんというか、ここが面白い。友人を見るとそれなりに問題設定はできている。今自分を苦しめる壁はなにか理解している。だが苦しみをなくしても自分が幸せになるとは思っていないのだ。あまりに不確かな空漠。不満をかたずけるだけでは決して収まらない空虚。それは僕には理解しがたい。僕が考えるのはより良く生きるための姿勢だ。より良いとは簡単だ。「さらに良い感覚」がもたらされることに他ならない。喜びや楽しさに満ちることだ。だが、「幸せになる」とはそれでは満ち足りないのだろう。ただ理解できない僕にはなんなのか判断しかねる。ある種の強烈な依存や信仰による「救い」なのか、内省を繰り返した先の「気づき」か、最も純粋な「死」か。このどれでもないのかもしれない。ただわかるのは、苦しみを取り除いた先に幸せがないのは確かだろう。彼らの話を聞いていると、もっと存在の根本に根差した「心性」が藪の中で獲物を探す獣のように、幸せには息づいている。ある人は家族の問題と人間の矛盾を語り、異性との平和な家庭を求めた。ある人は依存と孤独に耽溺し、執拗に嫉妬されることを求めた。ある人は打算で生きてしまう自分に虚しさを感じていたが、女がそれを救い幸せになった。ある人は、偉大なものの振る舞いについて語ると同時に素朴な恋愛の素晴らしさを説いた。ある人は自分にルールを課し続け、自分自身に丁寧に鎖を巻き、「救われたい」と願った。ある人は己の不運を呪い、来世を待ち焦がれた。ある人は家族にがんじがらめにされ、ひとりで生きるのも許されず、達観とも諦観ともつかぬことになった。ある人は…… またある人は…… ある人は……
もしかしたら、幸せになりたい人を一括りに出来ないのかもしれない。仮になにか共通することを抜き出すならやはり「他者」だ。自分以外を求め、求められ、拒絶し、拒絶され、後にはなにも残らない。他者との干渉によって害されるが、それでも他者を切り捨てられない。他者が喜びをもたらしても、結局はあまりに違いすぎる「他人」である。なんでこうも上手くいかないのかと思いながら、被害と加害の区別もつかずに延々と閉口する。悪いことをするつもりがなくても悪いことに「なり」、最善を尽くしても「不快」と捕られる。しかし、それでもやはり、一人は寂しい。それだけは消すことが出来ない。切羽詰まると誰でもいいから誰かを探す。
僕たちは、悩む。よりよくなるために悩む。だが悩みは皆違い、自分の悩みは違うように解釈される。でも悩まなければならないし、疑わなければならない。寂しさの中で、ずっと悩まなければならない。今悩み続けることで、そのときだけ僕たちは救われているのだから。

終わり。すげえ詩的だ。たまにはありかなあ。「ある人は」のところは友達のことです。協力感謝。

君の名は対象a

去年の五、六月にとある女性に告白したことがあった(しかも彼氏が既にいた)。なんか、恐ろしく今までらしくない出だしになってしまったが、今回は恋愛のはなしのためこう書いてみた(恥ずかしからずに書く少女漫画はつまらないという至言もあるしね)。
恋愛についてラカンは「女は対象aである」と述べている。ラカンは嫌いだが、この意見は正しい。理由が極めて主観的で、他から見たらその女を好きな理由が意味わからないという意味では、まさしくそうだ。しかし、それ以上に女が(男が)対象aである理由は「本当は代替が効く」からじゃないか。結局、好きな奴というのは「代替不能に見える」のであって本当に代わりがないわけじゃない。住んでる場所が違ったら違う人が気になったりするだろうし、むしろもっといい人がいる可能性も多分にある(世界は広いのだから)。ただ、これは論理でしかない。人生の只中ではやはり代りがいない。「こいつよりもいい奴がいそう」と思って流浪の旅に出る奴は見たことがない。人生は常にそうだ。代替が出来ないもの、補填が効かないものは一切ない。愛情か友情か実益かに関わらず、「こいつがいなければ絶対に無理」は結局そいつがいる世界に生きてるからで、元々「ない」世界だとしたら問題がない。
君の名は。」の面白さはここにあるのかもしれない。「ないことになった」世界で、二人が再び出会う。互いに記憶を失ったのだから、もう瀧にとっても三葉にとっても相手はなんの興味のないカスに成り下がる。だが、それでもなぜか彼らは「こいつがいなければ絶対に無理」だと確信して、名前(という本来的には無意味な記号)を尋ねる。東浩紀はこの作品を「相手をかけがえのないものだと思い込む過程」だと評したが、それはある意味では正しい。だが、やはりそれは論理だ。実際に彼らが会った日々はなくなったが、「君の名は。」は映画なのだ。視聴者は、瀧と三葉のストーリーを「目撃」している。だから我々自体が瀧と三葉の記憶媒体なのだ。そうでなくては、ラストの台詞が説得力を持たない。瀧と三葉は、時間と空間を越えて出会う。そして時間と空間の差を埋めるには、互いを忘れることが代償となる。対象aではなくなるのだ。だが、ラストで初対面のはずの彼らは相手が対象aだとしか思えなくなっている。それは運命といえるものだ。その運命は前の世界での彼らの想いが作り上げたものだが、この運命は所詮次の世界で消える。だが、それを我々は「目撃」し、「受託」している。そして、ラストシーンで「目撃した運命」を二人に「返却」するのだ。だからあの作品には奇妙な共感性がある。瀧と三葉は運命性だけで名前を聞く。そのとき、運命の女神は我々なのだ。

以上。「君の名は。」のレビューをするとは全く思わなかった。恋愛感情と対象aについて語ったらこうなってしまった。