そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

思いつくままに思いつきを書く思考実験第一回

文章を書きたいが何も書くことがないので、「とりあえず思いつきで文章を書くか」とやってみた結果、意外とまとまりを得たので記録として残します。どうぞ。

 

 

 

思いついた文章を思いつくままに書き留めるということは法外な困難を伴うが、不可能というほどでもない。実際、言葉にすれば簡単だ。今書いている瞬間に思っていることをそのまま書けばいいのだから。むしろ、そうやってリアルタイムにタイピングしていれば理論上無限に執筆することすら出来てしまうような気がする。しかし、それらは全て錯覚でありどこかで「有限」に到達してしまう。自らの寿命であるとか、ご飯を買いに行く時間とか肉体的な限界を除外するとしても、「思いつくまま無限執筆作戦」はいとも簡単に崩壊する。ただ思いついたことを書くなんて何の困難もないように思えるのだが、なぜだろう? 別になんだっていい。「目の前にモニターがある」とか、「スピーカーから音楽が鳴ってる」とか、「書きながら海鮮丼を食べている」とか、身の回りの事実を羅列していくだけでも十万字はくだらないはずだ。自分の部屋一つとっても、そこには膨大な「記述可能情報」が含まれているのだから。しかし、それは出来ない。「部屋を描写するだけなのに何故できないのか?」とあなたは思っただろう。工夫なく事実を記述することに苦悩する余地はない。なんなら、液晶モニター一つとってもベゼルの厚みや解像度や入出力端子の数とかもっとディティールの細かい情報は一杯あるし、それらに対して僕個人の感想を延々述べることだってそれほどの頭を使う作業じゃない。しかし、僕は今やってないのだ。こいつのHDMI端子とDisplayport端子の数を知っているし、数の大小について自分なりの意見を持ってもいる。しかしやることはないのだ。やってみてもいいのに、試そうともしないのだ。なぜなら、僕がそのことを思っていないからだ。書くことが出来ても、それらを記述することに意識を向けていないし、向けようとする気概もない。であれば意識を向ければいいように思うかもしれないが、そうしたら「思いつくまま」ではなくなってしまう。「思いつくまま」書くことで無限に執筆を続けられる目論見だったはずが、なんらかの意図を持つことで無限ではなくなってしまう。そして、それを言ってしまえば今書いていることもお「思いつくまま」と断言できるかは一抹の不安が生じる。今までの文章を客観的に考えた場合、テーマは「思いつくまま書くということについて思いつくまま書いてみる、ある種メタ的な記述」と言えよう。これは「思いつくまま」なのか? 僕の記述には「指向性」がないと言い切れるのか? そう問われると、ひどく不安になっていく。「思いつくまま書く」ということについて書いていた時、僕は自由闊達の極みにいた。「思いつくまま書く」ということはどういうことか、好き放題で無責任に、キーボードの上で10本の指が乱舞していた(タイピングがへたくそだから実質三本くらいなのだが、それについては目を瞑ろう)。だが、僕の「自由な思考」が自由ではないのではないかと、今正に論じられている。自分では気づいていないだけで、メタ的な手法を「意図」していなかったと言い切ることが残念ながら出来ない。もちろん、「意図していない」と断言することは簡単だ。テキストの上では、人間はいくらでもでたらめを書ける。だとしても、書けない事情が屹立している。この場合の嘘は、特定の「目的」があるからだ。目的があるならば、そこには意図があり、意識はそこに向いている。この嘘に「思いつき」は欠片も存在しない。よくよく見ると、上等なペテン師の腹の中と同じだ。結果的に、僕は苦悶の井戸に体を沈める。まるでそこが定位置であったかのようにしっくりくる。自らの自由を疑い、疑うことがそもそも自由ではないんじゃないかと疑う、猜疑と葛藤の無限反復が発生する。その時点で、「思いつくまま」ではなくなり、無限は両翼をもがれ有限へと叩き落される。だが、このように言うことも出来る。だから文章は完結することが許されているのだと。思い付きが出来ない目的や打算の末に書かれているからこそ文脈が生まれ、展開や構成を練り、起伏のある流れを作っていくのだと。無限とは、言ってしまえば何も起きていないのと同じだ。思いつきを垂れ流しただけのテキストに価値がある訳ないだろう。そうだ、ちゃんと考えて書けということだ! おお、結論に到達した。であるならば、最早書くべきことは一つだろう。終わり。