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そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

何者になるか、どの場所にいるか

「AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜」というライトノベルがある(僕が観たのは劇場アニメのため少し齟齬があるかもしれない)。中二病を患わせて中学生のとき全校生徒の前で大見得を切った主人公はいじめられて不登校になる。その後高校デビューして普通の学生になるが、魔法使いの格好をした女の子に出会う。その少女は異界からの調査をしている設定をガチで演じており、主人公は過去の自分と重ね合わせて複雑な感情を抱く。

設定と序盤のあらすじをまとめたものだ。ヒロインはラストシーンでこう嘆く。「世界は、狭量だ」それは自分の好きな設定を「痛い」と断じて許容せず、排除してくる世界への嘆きだ。だが、これは間違いなのだ。主人公がその後反論する通り、誰もが社会に折り合いをつけて生きている。エゴや欲望と体面をみなすり合わせて生きているのだ。
ただ、欲望の質による生きにくさの程度があるのは無視できない。少年ジャンプが好きな人は学校だったらそんなに気にしなくてもいいかもしれないが、女子のリコーダーを舐めるのが好きな男子学生は何かの対処を強いられる。変態辛みあるな。
サブカル女子といわれるマイノリティにこだわる人たちはなぜいるのだろう。マイノリティが個性的だということだろうか? しかし、マイノリティは結果的な状態を表すに過ぎず、性質ではない。例えば同性愛者という性質を持つものが性的マイノリティの状態になるだけで、マイノリティであることなんの個性も表明しない。で、僕はサブカル女子が個性的ではないと看破したいわけではないと言っておく。
注目すべきはなぜマイノリティに憧れるのか、空虚な個性になぜそこまで惹かれるのか、である。ネットでは度々カテゴライズが行われる。「ウェイ系」「サブカル系」「意識高い系」などのカテゴリは、社会とすりあわせるためのフォルムである。そして欲望に最も似合うフォルムを採択することこそが社会と主体における一つの妥協案なのだ。フォルムは所属と欲望を同時に表現する。しかし、カテゴリーとはマイノリティと同じく所属や状態を表す言葉にすぎない。カテゴリーに属することは欲望の表明と同時に没個性になる。「AURA」において主人公とヒロインは「ただの中二病患者」である。しかし、大衆の前でその姿を晒すのは相当な異端者でもある。そういう異端な欲望に社会が拒否反応をしめし、どう合わせればいいかわからず辛いのがマイノリティの生き様だ。対してカテゴリーに所属すると既に社会の中で居場所が担保される。しかし、それは同時に欲望の本来の形をねじ曲げることが要求されてしまう。すり合わせる「事実自体」に苦悩する。だからこそ、彼らは「本当の自分」というものを気にする。マイノリティは本当の自分がわかっても社会的に認可されないのに比べ、彼らはねじ曲げてしまった欲望の本来の姿が分からず苦悩する。彼らの自己嫌悪とは、そのために鏡を見てしまうがゆえに生まれてしまう。サブカル女子という熟語は、カテゴリーの所属と本当の自分を見つけているマイノリティへの羨望を同時に言明する。マイノリティに目をつける彼女らは察しがいいともいえる。だが、社会からの拒絶を恐れてもいるからなりきることができない。ジレンマに溢れた彼女らの感傷。このことを魅力的に感じるかどうかはあなた次第だ。

終わり!
本当の自分などない、と僕は思うよ。人の前でつけてる仮面も自分が作ってるものだからね。