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そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

いつか来る卒業の悲しさについて

 風邪を引いてしまった。といっても20日くらいには直っていたのでただの怠慢に過ぎない。久しぶりに風邪を引いたが、なんか休んでるときのだらだらしてる感じを今回は引きずってしまった。いっつもこんな感じだったっけ。

 昨日でゼミが終わり、今日で最後の授業が終わった。単位は両方とももらえるのが確定しているため、晴れて卒業だ(就職については何も言うまい)。別に四年間を振り返って感慨に耽る気もないが、まあそれなりに楽しい4年間だったんじゃないかと思う。だが、楽しかったとはいえ寂しさはない。なぜか分からないが、昔から寂しさを感じた経験が乏しい。小、中学の卒業式では友達も人並みにいたのにそそくさと一人で帰った。今思うと、なんであんなにあっさり帰ったのかは疑問だ。進学するたびに縁が切りたいわけではない。僕は中学の友達とはいまだに良く遊ぶし、むしろ大学の友達よりいまだに付き合ってる奴の方が多い。

 卒業するときはなぜ感慨深いのか。別れはなぜつらいのか。そして、なぜ僕自身は寂しさを感じないのだろうか。別れのつらさは単純だ。「もっと一緒にいたいのにいられない」ことに尽きる。でも、卒業しても会うことは出来るはずだし、一緒に居ることはできるだろう。そうなると、一緒に居られる時間の削減が問題なのか? たしかに、僕からしたら学校生活はべったり人と居すぎだ。何であんなに頻繁に同じ人と会わなくちゃいけないのか理解に苦しむ(仕事はまだいい。あくまでビジネスパートナーであるためだ)。六番目の小夜子でも言及されていたが、学校、ひいては教室は異様な空間なのだ。校則によって統一され、全く同じ年の地理的に極端な近さを持った人間が三十人詰め込まれる。そこでは関係は煮詰まり、学生という暇だらけの存在は互いの領域を意識しあう。学校は社会にでる練習というが、見ようによっては学校の方がよっぽど特異で異様だ。同学年である基準を設定してひたすら能力を計量し、学期末毎にそれが数値化されて自分は競争にとりこまれる、規律訓練の場。そんな場に一緒にいる仲のいいクラスメイトとは、ある意味ではかけがえなく「ならざる」をえないのかも知れない。学生ののときの友達の特別感とは、長年の友というよりも、一緒にあの空間にいたこと自体の特別感なのかもしれない。(カズオ・イシグロ「私を離さないで」はこのことをよく書いている)卒業の別れは、だからどんな別れよりも悲しいのだろう。

 で、僕はなんで悲しくないのかだが、書いているうちに興味を失ってしまった。多分だが、僕にとって人生は過ぎ去るものでしかないからだろう。今文章を書いている間にも時間は過ぎていく。どんなに卒業がいやだとしても、日めくりカレンダーは一枚一枚破られていく。そして、一枚破られること自体が一つの「変遷」なのだ。一枚破られていくごとに同じような毎日でも徐々に僕たちは老化する。それは誰しもの「成り行き」であるし、とめることはできない。いつかは肉体を失い、煙か土か食い物だ。だから、余命宣告をされた人が死を実感して受け入れるように、僕にとって学生生活が終わること自体が実感されている。だが、記憶は沈殿し続け、後の人生に痕跡を残し続けるのだ。

最後に、パール・ジャム 「ナッシング・マン」から歌詞を抜粋しよう。

 

忘れ去るものは

常に

思い出すことを

宿命づけられて……

 

 

終わり。