そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

私はあなたと友達です。全く同時に、あなたは私と友達です。

 人は一人では生きていけないと、このブログでは度々書いてきた。それは孤独という面でもそうだし、人は自分で決められることの方が少ないという意味でもそうだし、どうしても周りの影響を受けてしまうというしがらみとしてもそうだ。今回は「影響」について考えてみたい。

 われわれの周囲にいる人たちは「教師」か「反面教師」のどちらかだ。たまになんの影響も受けないケースもあるのかもしれないが、個人的な能力よりも相性や接する環境の方がでかいだろう。あまりにレアケースだ。周囲の人にとっても、僕は「教師」か「反面教師」のどちらかなわけで、互いに心の領域を侵犯しつつ、痕跡を残していく。果たして、影響を「受けるだけ」もしくは「与えるだけ」とはありえるのだろうか? 影響を与えるということは、そのとき相手に干渉している。自分から触れることは、相手から触れられていることと等しいのだ。触れ続けている状況では、どっちが「触れにきたか」など判別できなくなる。大学の講義ほど一方的になれば与える影響はかなり偏るのだろうが、友人関係くらい双方向なものとなればどちらが痕跡を「残しにきたか」はわかるはずもない。僕の友達に「俺はいろんな奴からいい影響をもらった」と言ってきた奴がいたが、そいつ自身はそんなに影響を与えていないから、やはり大したものではないのだ。根本的に、深い影響とは逆に気づけないのだ。互いに緊密な関係を築き、一段落したときに自分の変容に驚く。悪くとも良くとも、深い影響を残し合うときは気づけないほど両者は一体化する。相手との関係を「前提」に生きるから自分の変化も「前提」に組み込まれてしまい、気づくことができない。友達の話で言うなら、人からいい影響を貰ってばかりだと思っていてもそれは根付くようなものではない。深い影響は離れてから気づくが、浅い影響は離れてから失うのだ。結局、その人と実際に接していなければ維持できないレベルのものでしかないのだから。与えずに受け取っても、見よう見まねの域を出ない。混ざりあうことで、別れても相手の痕跡は自分と混じりあっているから消えたりはしない(これは長編小説の面白さの一原理でもある)。

 いつだって関係のなかに生きている。なにかを学ぶとき、なにかを学ばせなければいけない。相手を罵るとき、罵られる彼を見ざるをえない。いずれにせよ、一方向ではありえない。もしそうだとしたら、なにも生み出してはいないし、変わってもいない。誰かといることはジャムセッションだ。スタイルは違えど、共有されるグルーヴとエモーションのの中で意識は混淆される。そこから優れた音楽は生まれ、また関係の中では「なんとなく」であっても「そうとしかおもえない」ほど強く人の気持ちがわかったと「思いこむ」。しかし思いこみであっても、かけがえはない。代替不能なものは言語の支配を免れ光景となり、原風景として登録される。だから人は「いつかみた景色」をまた見たくて、かげがえのないものを求め続ける。決して手に入れられないと分かっていても、探すことをやめられない。幸せになりたいのも、許されたいのも、それは「いつかみた景色」への郷愁なのかもしれない。理由なき欠如とは、最も純粋な体験へのノスタルジーを意味するのだろうか? だとしたら、人は宿命的に不幸で救われない。欠如の形をぴったりとはめるピースはどこにもない。だから、代替品をいくらでも作り出す。対象は常に関数であり、少しでも欠如を埋めてくれるなら救済関数Xにはどんなものをいれてもいい。友人、家族、恋人、表現、風景、アクセサリー…… 僕たちが日頃仲良くする相手とは「代替品」である。断言する。でも僕たちにはそう思えない。だったらそれでいいじゃないか。互いに思いこみ続け、幻想のなかで、信じきって、「代替品」として使い物にならなくなるまで、視線を交わしながら、全力で、限界までセッションを、「ばか騒ぎ」をやろう。

 

終えた。朝マックを食いながら書いてました。僕マフィン大好きなんだよね。頼むから昼と夜もマフィンを売ってくれませんか?