そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

第二部のテーマが分からねえ

 最近月2更新になってしまい、俺のやる気のなさが伺える。しっかりしよう。

 第一部完! なんて言ってしまったせいで、今まで違うことを言おうと画策しすぎてしまい更新が遅れた感はある。一時期今までの理論を活かしつつ、自分自身のことを主観的に書こうとも思ったのだが、想像以上に病的でかつ理解が一切得られそうにない上、面白くもないという史上最悪の結果になってしまった。新しい方向を募集中ですので、コメント待ってます。

 次の方向性を考えることは確かに難しい。永野護の名作「ファイブスター物語」では「天才は名作のその先を見る!」みたいな(うろ覚え)台詞があったがその通りで、名作とはその方向性を極めつくしたから名作なのであり、天才は、名作の次を名作を作る時点で見ているのだ(名作を作った時点で天才というツッコミは置いといて。)僕の場合名作を作ったわけでは勿論ないが、一旦この方向性を取りやめにするのは確定してしまったので「その先」を見る段階に入ってしまった。しかしこれが難しい。思いつきはする。一つの作品をとりあげてレビューするとか、ちょいエッセイ風味なモノをだらだら書くとか、いくつか考え付くのだがなにかしっくり来ない。元々のスタイルとして抽象的なスタイルが好みなのだ。一般と抽象を考えるほうが性にあっているため、具体論、個別論が手になじまない。かといって抽象論は具体論を書くよりどうしても思考の量が必要になる。具体論とは一般性より特殊性が強いため、それぞれのケースを一つの記事という単位にまとめられるが、抽象論は具定例、いわば特殊ケース(個々の単位はいかなるカテゴリに入っていようと内容が全く同じことはありえないため「特殊」である。レヴィ・ストロースで勉強しました)をかき集めてそれらから共通項、つまりは体系としての本質を「抽象」する必要があるため、時間がかかりやすい。ほら、歴史を体系的に語るよりも、一つの作品の個性、いわば「特殊性」を語ったほうが手間で言うなら楽っちゃ楽でしょ? 

 とまあ話が脱線しまくったが、抽象論が今までの方向性であった以上、また抽象論でいいのか? という疑念もあるわけで。だったら内容を変えちゃえばいいのだ。これまでは、乱暴に言うなら「空虚と幻想と感覚と言語的認知」だった。この4項を全部取っ払ってしまえば抽象的な論でもいいのだ! というわけで、誰かいいアイデアあったら教えてください。すいません最後は他力です。リアル知人でしたらLINE(とかいうクソと等しいツール)に連絡でもいいす。僕は上記のネタで批評を考えているためそのことで頭が一杯です。それ以外に考えるキャパもありません。流石に無責任なので個人的に気になっていることを言おう。ジェンダーの話で書いたが、「女性らしさを排除しようとして、男性らしくなる」のはおかしい。元々の趣味嗜好が一般的に言う「女性的」なファッションであった場合、「女性らしさ」を押し付けられているかとうかの判断はどう決めていいか分からないからだ。ただ、「女性らしい女性」は「女性らしさ」に関する苦悩がないからその女性らしさが押し付けかどうかの判別が自分に出来ないともいえる。だから、「女性らしいスタイルが嫌いな女性」だけが「女性らしさ」を毛嫌いする羽目になる。そして人によっては「女性らしい女性は社会に洗脳されている」との言説も生まれることになる(もちろんそう思わない人も大勢いるだろう)。たしかに、〇〇らしいとは社会の押し付けもある。だが、自分の思うままに振舞ったらそうなってしまっただけの人もいるはずなのだ。そうなると、そもそも重要なのは「らしさ」から外れている人をきにしないようにしましょうね、で済むのだが行き過ぎた論理で「らしくしてる人はなんなの」的な発想も出てきてしまう。少数派の許容、多様性の確保は逆転して「多数派の否定、一般性の絶滅」でもある。ここで言いたいのは、「多数派は自覚的に振舞わない」ということだ。「無自覚の悪意」は罪だという人もいるが僕は反対はしないが疑問でもある。多数派は特に排外されないから、疑念を抱く余地がない。いやそこは抱けよ、と言いたいのかもしれないがはっきりいえば人間の出来はそこまで良くないし、大なり小なり皆気づかずに悪意をぶつけているものだ。いや、この言い方だと傲慢すぎる。そもそも、色んなことに疑念を抱くこと自体が一つの「生きづらさ」ともいえるのだ。無自覚に悪意を振りまき、なにも疑わずに生きるのが一番生きやすいのもたしかにそうだろう(映画「ヒックとドラゴン」はそこを描きつつ、多数派を否定しなかったのは凄い)。「多数派の無自覚」を僕はどうしても否定する気になれない。当然だが自覚できるきっかけはいくらでもある。でも、問題なく順応できている世界で自覚する必要も理由もないのだ。人によっては迷惑なのかもしれないが、はっきり言うなら多数派が少数派を理解する必要性はあまりない。僕も人間関係で大事なのは「いろんな人がいる」ことだと言ったが、そういうのは僕が少数派なのと少なからず関係しているだろう。

 ふと書いてみたが、面白いテーマだな。「多数派にとって、世界は常に異常なし」なんだから多様性を認めたくないのではなく認める必要がない、というのは確かにそうだ。じゃあなんの意見もなかったらこれで行きますんで、待ってますよ!

 

終わり。ファミマの肉まん90円セールが最高すぎて2日で5個食べてしまった。