そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

物語と私(いかにも国語の教科書的なタイトル)前編

今から書くことは愚痴とか弱音の類であろうと思う。
笑えることに、書く内容もよく決まってはいないのだが。
だが、これより綴る文字を無根拠ながら公開したいと判断したのは確かだ。

 去年の今頃から物語を鑑賞しなくなった。
 全くという程ではないが、三か月に一遍友達の作品を読むとか、その程度のものだ。これは小説のみならず、漫画、アニメ、ゲームといったストーリーのあるものすべてを指す。ちなみに本は読んでいる。ただ、臨床心理とか神経科学とかの学術的な研究の一般書をひたすら読んでいるだけだ。物語はひどく興味がなくなっていった。つまらない訳ではないことを知ってはいる。面白い物語がまだまだこの世にあふれていることも知っている。だから俺が読まなくなったのは理性的な問題ではないのだろう。趣味嗜好の変化だとか、(メカニズムはわからないが)生理的に拒否反応を示すような感じなのではないか。それでも、「理性的」に物語を語ることを許してほしい。
 数年前、大学生だった俺は物語が好きだった。前衛的な文書に恋い焦がれた時期もあったが、やはりストーリーは前提としている、という結論にその時は至った。それで書く文章もストーリー性を持たせるようになった。芸術系の大学だったのでそういうことを考える機会は多かったわけだが、そもそも俺は小さい頃から物語が好きだった。2歳くらいの時は母親に読み聞かせしてもらって、一行飛ばしたら文句を言っていたらしい。4,5歳になると自分から本を勝手に読みだして、今まで読書の習慣が絶たれたことはなかった。そのせいか文章は好きか嫌いかというより、もっと習慣的なものとして捉えている。
 大学生の頃は、キャラクター論もよく考えていた。長い文脈から構成される厚みのあるキャラクター像とは、なんと魅力的な存在であることかと思ったものだ。サブカルチャーと絡めて東浩紀大塚英志も読んだりした。知識を深める度に、キャラクターと物語が織りなす構造の美しさ、その精緻さに心を奪われたものだ。なぜ冷めてしまったのだろう? かつての興奮が嘘のようだ。
 なんとなく、いつからか思う時があった。物語は、キャラクターの関係性に帰結しすぎると。当たり前といえば当たり前なのだが、問題は構成要素の中でも影響力が強すぎることだ。バトルでも、ラブコメでも、四コマでも、スポーツもので全てはキャラクターの変化が主眼となる。物語の性質がいくら変わっても、「キャラクターをどう動かすか」に終始する。そして、そんなことは誰もがわかりきっている。だけど、そのことがひどく気にかかるのだ。俺が正しいとしても、だからとって物語がつまらなくなったりしない。そういった構造を有した上でも素晴らしい作品は作りえる。それも分かってる。だから俺自身の問題に過ぎないということでもある。俺自身の問題だということも、最初の時点で分かり切った話であろう。であればこの文章は何ら意味をなさない。じゃあなぜ書いているのかというと、物語を楽しめなくなったことが、たまらなく悲しいからだ。悲痛で、悲痛でしょうがない。楽しみたいのは本音だ。だが、感覚が言うことを聞いてくれない。上述した考えが、頭をよぎっては文章を無機物化する。何より嫌なのが、最近はこの思考が一過性でないように思えてならないのだ。一年経っても消えないどころか、感覚はますます確信を得る。だから、自分自身の問題でありながら、なぜ俺はこうなるのだろうと嘆くことに逃げるしかなくなる。そう、困っているのだ。楽しめたものを、楽しめないことに。違う楽しみを得てはいる。更に言うと、その楽しみは物語すら超えるほど楽しくもある。だからといって、代替物にはならない。多分そこには、ノスタルジアも含まれている。人生のほぼ全てを通底していた、誰よりも長い付き合いだった存在が、もう何も目を惹かなくなってしまったのだ。こんなに分かっているのに、こんなに愛しているのに!
 ……まあ、もうよそう。十分喋ったし、気も晴れたろう。賢者タイムだ。しかし不思議なこともあるものである。単に俺が病んでるだけだからなのかもしれないが、深く考えるのはよそう。俺は賢者だ。思考は一度捨て置け。
 そして今綴られたこの文章に、なんの価値があるだろう。書くことで何かが変わったりしただろうか。暴露的な文章を書くことの医療的効果はどれほどだろう。簡単だ。価値もあるし、きっと何かが変わったし、効果もあっただろう。人は書くことで救われたりはしない。でも、書いてみるしかなかったのだ。物語が色褪せたなら、色褪せた物語を語るしかない。埋葬的な手続きの中で、我々は真実を知る。セピア調の回想録が無意味だったりはしない。だから俺は書くしかなかったのだ。深い悲しみに、墓標を立てることを。長いまどろみが、いつまでも続くよう願うことを。