そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

最近のアーティストはみんな上手くないすか?

 最近の表現はどれもテクニカルになったなあ、という漠然とした感想を良く抱く。

 音楽でいえば去年のディアンジェロのアルバムは凄かったし、かつてあれだけシンプルだったレデイオヘッドもa moon shaped poolは巧みだった。アニメもガルパンはよく出来たものだったし、SHIROBAKOはまだ序盤しか見てないけど恐ろしく上手い。シンゴジラも職人芸だったよね。

いやー、どれも面白かった。ただ、最近は強烈な下手くそが少ないなあと思う。表現には下手くそしか描きえない領域があるから、そういう奴らがいた方が多様性は確保される。僕は極端なのが好きだから上記の作品はどれも面白いけどドはまりはしないんだよね。構成と比喩が完璧な代わりにキャラクターがステレオタイプで幼稚なポーとか、キャラクターと演出は天才的だけどストーリーは出来が悪い富野とか(そういえばGレコは最近にしてはいい意味で下手な作品だったな)、メロディとギターノイズのセンスは抜群なのに技術は皆無のペイヴメントとか。もちろん上手いことに悪はないけど、表現において一要素を突き詰めるには他を捨てる必要があるんだよね。アッシャー家の崩壊で館の主人がキャラとして肉付けされていたら、かえってラストの人間と館の折り重なっていくことの異様さは損なわれていただろうと思う。そろそろそういう一発芸的な奴は現れないかなあと待っている。

今騒ぐんだよ!

 明後日は大学で学祭がある。僕はジャズ研と軽音部のライブを見たら露店には一銭も払わずとっとと帰る予定だ。

 祭りって、なんなんだろうね。ハレの日とケの日を分けるためのうんたら、村人のストレス発散のためのうんたら、っていう御託はいい。僕自身は祭りは嫌いじゃないくらいなのだが、そもそも祭りって何すんだ感はある。雰囲気を楽しむていう名目は分かる。ハレの日なのだから「浮かれていいとき」なのだ。ある種の非日常であり、言ってしまえば超超劣化版ディズニーランドみたいなもんだろう。ただディズニーランドと違ってすることがない。見世物なんて大したものじゃないし、露店のものは高いし。ていうか最終的には適当に焼き鳥とかかき氷食べて談笑に終始するわけだけど、あれがどう楽しいのかいまいち分かってない節が僕にはある。あの感じって小中学生のときは純粋に楽しんでるけど20過ぎると明確にノスタルジアのほうが強くなっていっているんじゃないのか。それでいいのかもしれないけど、そもそも浮かれ騒ぎとは現在のドライブ感にこそあるんじゃないのか。祭りがただの感慨と感傷発生装置になって、来年もまた来ような、では思い出のために生きる化石同然じゃんかと思わざるをえない。

 思い出という概念は僕には理解不可能だ。ただの堆積物じゃないのか? 過去を掘り起こして笑うとき、それは当時の劣化品にしかならない。過去の輝きはたしかに存在する。だがそれを今の視点から見ても光はこちらには完全に届かない。だったら「今」で「過去」より面白いものを作るしかないのだ! 思い出話などしている場合ではない、どう馬鹿なことができるか常に探求せねば、ということである。

 祭りは悪くない。手軽な非日常のチケットを手に入れる手段としては。だけど大抵はかつてを振り返って純粋に楽しんだあの刹那を切り取って、眺め、懐かしい手触りを楽しみ、額縁にしまうことに安住する。でも、祭り自体への感動がなくなっていくのは自分のせいだ。子供が原っぱで遊べて大人が遊べないのは、原っぱには本当は何も無いからではない。もう原っぱの楽しさを見出せなくなった自分の「目」にこそ責任はある。今を楽しめないのは楽しむ気が元々ないのだ。だから子供のようにならなければならない。どうでもいい雑草にまじまじと見たあの頃の探究心を持ち続けなければならない。

 

 というわけでここまで。この前ジャズフェスに行ったとき「ご飯はコンビニで買えばいいじゃん」としか思えなかったのでやっぱ僕は祭り向きじゃないのかもな。

 大学の準教授が「祭りに参加しないとか馬鹿」って言ってたけど、まあ楽しいんだしせっかくだからやればいいじゃんてのは分かる。人生もどうせやるなら楽しんだほうがいい。だから人生はお祭りなのだ。

xtcのnonsuchとapple venusを聴いて

 最近xtcbeckばかり聴いている。なので、xtc評だ!

 xtcの遍歴はwikiってもらうとして、僕が語りたいのは後期だ。

 後期xtcは明らかに内向的になった。なぜ内向的になったといえるか? 難しい問題である。音楽において内向的、内省的といった言い回しは度々見られるがこのことを理論的に捕らえるのは非常に難しい。極端にいえば暗い曲調とかノリがいいとかも厳密には語りがたい。楽曲の雰囲気とはマイナーコードを使ってるから、とかノイジーで低音だからこれこれで~、と語っても側面的なだけだ。この問題は僕の中で片がついていない。ので今は「フィーリング的に後期xtcは内向的だと判断したんだけど、君もそう思っているよね?」ぐらいの感じで行こうと思う(いいのか?)。

 内向的な音楽というと何を思い浮かべるだろうか。ロックだとわかりやすいところではニルヴァーナとか、レディへとか? まあなんでもいい。この二つのバンドに象徴的だが内向的であることはしばしば精神的な部分へと結びつく。カートコバーンの苦悩が、だったりトムヨークの世界に鳴らす警鐘とは、だったり言いたがるキッズは多いものだ(昔は僕もそうだった。エヴァンゲリオン人間失格とイン ユーテロを同時に愛している輝かしい栄光の一時があったよ!)。勝手な妄想ともアーティスト側の仕掛けともどちらとも言えない状況でファンは共感していくのだ。

 後期xtcの特異性は、内向的でありながら精神性が全く感じられないところに尽きる。この論での精神性とは「作品が深刻な思考を作者が持っているように考えることを誘発させてくる性質のこと」を指す。この言い方ならわかりやすいだろう。

 この精神性をxtcは一切持っていない。そこにあるのはただ美しいメロディ、伸びやかだが閉塞的にも感じられる響き方、アンディ・パートリッジの研ぎ澄まされ過ぎて人間味をなくしたかにも思える歌声だ。恐らく、彼らの内向性は「いかにいい曲を作るか」ということをただ修験者の如くストイックに突き詰めていくから生まれていくのだ。初期から一貫される音色にこだわり、リズムと歌メロを絡め合わせ、そこに様々な音を挿入して限界まで退屈さを抜いて「ポップ」であることを研究する彼らの姿勢はここで究極に至ったように感じる。だが初期と中期を越えたことにはならない。それぞれ特有な魅力があるからだ。だから後期は人によっては出来が良すぎて退屈に感じることもありそうだが、個人的にはこの完璧さを追求しすぎたある種の「病性」はまた違った魅力があると判断する。追求した結果非常にメロディもよく、ノリノリでもありながら今一つつかみどころのない面妖な難解さを有するに至った。ポップスでありながら自慰的でもある、歪んだものを彼らは提示した。

僕はポップが好きだ。玄人ぶった奴は否定するが音楽においてポップさは武器である。爽快感があることは音楽の本質的な要素である快楽性と結びつくし、いいメロディとは基本的にポップでキャッチーなものだ。だから僕は、ポップを馬鹿にする奴にはビートルズxtcがいるのにと思って呆れている。彼らが優れたバンドでなければ、誰がいるっていうんだ?

就活の話。いつも以上に中身ないです。

 僕は大学4年生、就活中である。

 なんか小説の一行目みたいになってしまったが、事実だ。今年は内定が決まるのが早いようで、僕は遅れをとってしまっているのが現状なのだが、気にせずにいる。ていうか「遅れをとってしまって」と書いたが、だらだらだらだらやっているから「遅れをとって当然」である。他人のせいにするな俺。

 就職活動。大抵の人はやるだろうが、俺はやってみて如何に社会と自分が合わないか実感した。あんな取り決めが大量にある意味が分からないし、ついていけない。みんなそう思っているだろうが俺の場合生理的に社会が無理だ。もう少し詳細に検討しよう。

 ……といって400文字くらい就活の問題点を書いてみたのだが当たり前のことしか書いていないので消してしまった。もうちょい個人的なトピックの方がいいようだ。

 俺がどんくらい向いていないかというと、6、7割の確率で遅刻する。履歴書を当日まで書けずキャンセルする。等々である。現地ではそんなに問題ないと思う。「俺はまだ本気出してないだけ」というより、「本気出してるのにやってない」パターンである。まあ中学三年のとき夏休みの課題を全くやらなかったのでその辺からの伝統なのだが。

 やる気はあるのだがしないのも結局怠惰と変わらない。怠惰を打破するには実際に就活するしかない。怠惰→行動にプロセスは存在しない。自分自身がその場で動くしかない! と……言いつつブログを書いて現実逃避するわけである。同時に卒業製作への現実逃避でもある。うーむ。

やっぱりドラムはすげえや

 仙台ジャズフェスティバルに行ってきた。結局それほど聴かずに友達と精神病についてだべっていたのだが、まあいいとしよう。とりあえず思ったことを書く。

 まず色んなジャンルのバンドが出ているのだからジャズフェスの名をやめたらどうだろうか。これは「ジャズ以外やってる癖に良く名乗れたものだな!」みたいな感じのジャズオタのヒステリーとしての意味ではない(てかジャズあんま聞かないし)。ポップスやソウル、ゴスペルなど幅広くやってるのだからそちらもやっていることをアピールした方が興味を引きやすいから、というプラスの意味での提案である。そもそもジャズだから来る人は何人いるのか。20代以下でジャズを熱心に聴く奴はどれほどいるのか。いたとしたら碌な大人にはならないだろうが。それはともかく、いい意味でジャズの看板は取っ払ったほうがいいと判断した次第である。

 

 仙台駅に着いたときに、駅中でもライブをやっていた。ドラムレス編成で確かベース、トランペット、ギター、アルト?サックスだったはずだ。多分下手ではないがあんま良くないと思ったのは確かで、その原因はドラムレスなことにあるんじゃないかと思う。やっぱドラムなしでやるのはむずいのだと分からされた感がある。やってる側の苦労はプレイヤーじゃないから知らないが、単純に打音の快楽って凄かったんだなあ……としみじみしてしまった。太鼓を叩いて出る音の強さが演奏というものの純粋な迫力の要因になっていることに気づかされた。プリミティブゆえのディープさ(バキの板垣恵介が書いた餓狼伝に「シンプルにしてディープッッ ディープゆえにリアルッ リアルゆえにッファンタスティックな決着でしたッッ!」 っていう台詞があるが、感覚的にはそんな感じである。たぶん)がドラムの本質なのだ。ドラムレスはどうしてもメロディ楽器がぶん回さないと(ベースも超重要なのはいうまでもないが、ベース単体でどうこうできるもんでもないので)迫力がなくなるわけだが、駅中で聴いたときに物足りなく感じたのはそこが原因だろう。

 

ちなみに僕はジャズで一番好きなのはドラムです。あのはしゃいでるのにタイトなのが良くないっすか?

暇をつぶすっていうけど、「なにかをする」こととどう違うのか?

今東京にいて、24時発の夜行バスを待っているわけだが、暇すぎる。ため、ブログを書く。こいつはたしかに暇つぶしにいい。文章作品を書くときより気を抜いていいし、なんでも書いていい。それに一応文章を書いているから下らないことするよりは頭使えてるのもメリットだ。
以上の通りこの文章自体が暇つぶしなのだが、そもそも暇つぶしと「なにかをする」とはどう違うのだろう? 暇つぶしに「音楽を聴くorゲームをするor漫画を読む」とあてはめても違和感はないが、ただ単に音楽を聴くのと何が違うのだろう。もちろん、目的が明確になっていることは認められるが自主的に音楽を聴くときだって「暇を見つけて」いる。空いた時間を見つけてその行為をするという点では変わりがない。
だけど、暇つぶしのときはどこか退屈だったりする。いつもは気の済むまでゲームしてても暇なときはすぐ飽きる。これにはしょうがなくやっているから、というのが妥当に見える。しかし、それよりも「暇という意識があるから」ということの方が遥かに大きい気もする。暇という意識自体がなんか現実そのものをつまらなくしているのだ。しょうがないと思うのは二次的なもので、概念「暇」はそれに先行している。なぜなら、本来暇とは「個人的な作業をするチャンス」と読み替えることができ、そのような発想のもとでは暇は存在しなくなるから。暇が存在しないと、その時点で行為もしょうがなくではなくなるから。だから暇な時間がない奴とは相当に意識が高い奴だと思っていい。ちなみに、そういうタイプは人間的に面白い印象がある。
暇かどうかは個人的な価値観による。僕はよく暇になってるけど、小学生のときから「いかに暇をつぶすか」についてずっと考えている。だって授業も全校朝会も唾棄すべきものとしか思わないもん。考えた結果暇をつぶす方法を考えることは暇つぶしにつながることがわかった。暇のつぶしかたは面白かったらなんでもいいからかなり面白かったりする。そうなると暇つぶしは自主的な作業に移行していくことになる。もうお分かりだろうが、この時点でこのブログ自体も自主的な作業へとランクアップできるのである。

眠い……

今、眠い。
なんもやる気が起きない状態であるから、スマホでポチポチブログを打つ次第だ。俺が直面している眠気は「まどろみながら携帯いじるぐらいしかできないがかといって昼寝はできないレベル」であり、一番厄介なタイプだろう。
眠気以上の敵はいない。そのことを端的に表現した作品がPS1の奇作「太陽のしっぽ」だ。原始人となって獣を狩り、和菓子を食い(和菓子メーカーが協賛しているため食料は和菓子だ。クリエイターとしての意地はないのか?)、子孫を増やし、象牙を重ねて「太陽のしっぽ」に辿り着くのが目的である。
このゲームは夜が更けるとプレイヤーキャラクターが強制的に寝る。狩りをしてようが寝るし、水中で寝て溺死する。コントローラーを操る我々はなんの抵抗も出来ず3分間原始人の安らかな睡眠をただならぬ緊迫感で見つめなくてはならない。ここまで来ると冗談の域だが、眠気ってそれくらい怖い気もする。約束を寝落ちしてすっぽかした経験は誰でもあると思うが、あの自分が悪いのはたしかでも全く悪意がないゆえのやるせなさは僕らがどれだけただの本能的な動物であるかを思い知らせるかのようで、死ぬほど嫌いだ。
文化的な生活では1分単位で時間が区切られる(本当に、嫌になる)。目覚まし時計は大変実用的な装置だが、本来睡眠のリズムが正しければ生き物としてそれでいいはずなのにあんな轟音起こしてまで社会性を確保するのは非常に病的だ。ちなみに僕は目覚ましを使わない。不眠症気味だからな! それに自分のバイオリズムに沿って生きたいのだ。命令するんじゃねえ。
ということで、ちゃんと規則正しい生活を送って目覚ましを使わないようにしよう! 実際目覚ましを使うと脳が一気に起きるからあんま良くないらしい。寝る時間を一定にしてカフェインと液晶を見ることを控えれば結構簡単に決まった時間に起きれるもんだったりする。やってみよう。

余談だが、この文章の第一段落にある一番厄介な~~くらいで寝落ちしてしまった。これだから人間は生産性が低いんだよ!!