そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

才能で人生は決まるんなら、君は人生を見れるんだ!?

 才能と努力どっちが大事論はよくブログとかでとりあげられる印象がある。これ専門知識なしでも一般論で語れちゃうから手軽なんだよね。だからちょっと知的風味なブログは大抵やってる気がする。僕もするぞ!

 才能か努力か? やっぱり遺伝子と初等教育で人生九割は決まるよね。僕が見た記事でも才能のほうが大きいって言ってて、だからどうやって諦めをつけるかが肝要だと言っていた。僕はもうちょいポジティブである。まず限界とは? 一つに物理的に無理やろってものがある。サイコロを100000個振って全部1を出すとか、歩いてインドに行く、とか。当然才能以前のハードウェアとしての限界のため除外。もう一つがオリンピックで金メダル、ロックでミリオンセラー、世紀の大発明とかの以前にやったことのあるもの。これできるかに才能はどう考えてもいる。僕はどちらかといえば才能より教育だと思ってて、偉人の親は大抵子供に肯定的だよね。ビートルズみたいに違うのもあるけど、家庭環境が悪いがゆえに不良になってロックに走ったケースになった結果的に良かった例。

 こうなると遺伝子と教育が悪い奴は妥協するか絶望するかないのか、ていう論になりがちだけど、前提として才能も教育も計量は出来ないものでしょう。才能がわかることなどあるのか。死んだ後評価される奴はどうしようもないし、いくら評価されても自分に能力がないと思ってる奴すらいる。逆にいえば、才能がないと思うことは能力のないことの証明にならないし、生きてる間に自分の作品が評価されなくてもその先は分からない。だから、才能が分かる日はこない。そして才能がなくて諦めたら試合終了なのだ。だからやり続けたたらいいんじゃないかと思う。もちろん社会的な立場を捨てて努力するした場合時間に比例してリスクは無際限に増大する、その現実的リスクに対して自分の言い分は「未来も才能も予測不可能」であることのみだ。なんて頼りない主張。でも、本当に予測は出来ない。努力する限り「いつか」に希望を持つことは非現実的なわけではない。何も分からないから何が起きるのかはわからないからである。どう選択するかは自由だ。頑張るのをやめた方がいいときもあると思う。未来は分からないから、気楽に行こう。

 

以上! すっげーポジティブになった。でも、未来の予測不可能性を人生に組み込むと絶対的に気楽なものになってしまうんだよ。だからって適当にやりすぎると破滅するけどねえ。この記事で一番言いたいのは、どんな人生でもチェックメイトはありえないけど、金は最低限持ってろってことです。社会から離れてもどうせ金という社会的な制度はいるからな!

理論的なことはいいこと? 悪いこと?(やはりかっこよくなくては)

 表現でいつの時代が好きなのかはみんなあるだろう。ロックなら60、70年代でしょ、アニメなら80年代が、文学は近代、みたいな。例がすごいコテコテになったけど、まあよい。

 表現の可能性は、案外早く掘りつくされるものだ。多分、上の例の時点でそのジャンルの表現の新しい要素はほぼ出尽くしている。出尽くした後は、今まで出た要素を組み合わせることに終始するほかない。僕は出尽くした直後の時代が一番すきなのだ。なぜかというと、その辺でジャンルの解体が始まり、そしてそれは後のものより大胆だから。90年代アニメの面白さは徹底的に過去の作品を解析して組み込んで混ぜ込むことにある。エヴァンゲリオンとはそういうものの極地であろう組み合わせることの異質さ、それによって見慣れていたものがまるで別物になる驚きが秘められている。オルタナティブロックはノイズをいれ、ときにはポップであり、しかし自閉的な響きを持ち、要素間は複雑に絡み合い、ジャンルはその多義性に目覚め、強烈な印象を与える。美術でいえばキュビズムなどもそうだ。

 この直後であることのよさとは、テクニックと対象の豊かさが両立している点だ。テクニック、つまり要素を混ぜ込むことは恐らく後の方が上手い、ていうか後のものは物語的な快楽を保ちつつしっかり既存のものを掛け合わせて行くからやっぱすごい。た理論が完全に打ち勝ってしまい、表現としての豊かさは失われる。モンドリアンの二枚の絵を見てみよう。

 

ブロードウェイ・ブギウギ「ピエト・モンドリアン「コンポジション」の画像検索結果

 

 どちらがいいだろう。僕には左の方がいいように思う。同じように理論だった作品であっても、左の方が情報に溢れ、色彩がうるさく、目を見張る。「ブロードウェイ・ブギウギ」というタイトルで、長方形と線で車と道路を表している。理論が存在し、同時に賑やかに書いていくことは価値がある。懐古ファン的だが、僕はシンゴジラよりエヴァンゲリオンの方がやっぱり好きなのだ。あのどうしようもない、しっちゃかめっちゃかで物語として成立したものでも、なぜかキャラクターはいきいきとしていて、惹きつける力がある。そう、僕が考えているものはそこなのだ。あの「つまらないのにはっとしてしまうもの」の原動力を探すことが、今の目標だ。わけのわからないものが、なぜか面白い。矛盾しているのに、それでいいと納得できうる。そのりゆうだ! 表現の理論とテクニック。それを超えるなにか。迫力とは理論を越えているのだろうか。どうか。

 なんというか、しばらくは退屈せずにすみそうである。

 

おしまい。魅力、文字通り魅惑する力ってどっから来るんだろうね。僕の場合、かっこいいロボットが出てたらその時点で魅力的だからすごくシンプルなんだけど。ブラックサレナがあればいいのだ。なにが自分にとって良くて、豊かな作品とはなんなのか。みんなも考えてみよう! 

 

 

 

 

 

 

90年代のテクノ、良かったねえ

 アンダーワールド、ケミカルブラザーズ、プロディジー。どいつも90年代のテクノとロックの融合を象徴するバンドだ。ひたすら音を重ねて酩酊しまくるアンダーワールド、最もバンドサウンドに近い音を出してスタイリッシュに演出したケミカルブラザーズ、ロックのみならず様々なジャンルを混ぜ込み、歪みと攻撃性を徹底して求めた。プロディジー。どれもいいものを作る。アンダーワールドならビーカップフィッシュ、ケミカルならカムウィズアス、プロディジーはファットオブザランド、がそれぞれのベストかな。

 彼らの共通点はボーカルにある。それぞれ作風にあったイカした声だ。たゆたうように、しかしメロディアスに歌い上げるカールハイド、ゲストミュージシャンを適切に起用し大振りなダンスミュージックに仕上げるケミカル、プロディジーの激烈なビートに挑戦するかのように弾けるキース。どのバンドもヒップホップのパンチアウトのように気持ちのいいフレーズを曲に織り込んで、わかりやすいがゆえに非常にストレートに来るグルーブを生む。オウテカスクエアプッシャーの変態的なビートもいいが、ボーカルつきの素直な作りもまた楽しい。ボーカルの持つパワーを十二分に味わえる。

 彼らのダンスミュージックとロックの融合が成功した原因は、巧みにそれらをミックスすること以上に、魅力的なボーカリストの存在が一番大きいように見える。ロックはボーカルがヘボならお終いだから、ある意味彼らの鋭さはボーカルのチョイスにあるのかもしれない。声はリズム楽器になりえないが、肉声には不思議なパワーがある。ファンクのコール&レスポンスが呪術めいたパワーを持つように、ビートと歌が融合すると単なるインストの電子音楽とはまるで異なる高揚感がある。そういう意味では、彼らは下手なロックバンドよりよほどロックを上手く扱いこなし、そして優れたロッカーでもあるのだ。

マクロスデルタ、良かったねえ

 マクロスデルタを観終わった。

 中後半失速したのは否めないが、ラストは面白かった(急展開過ぎたけど)。最終回でラスボスが世界中の命を一つにして誰も悲しまない世界を作ろうとする、どう観ても人類保管計画じゃん的な計画が発動するのだが、それに対する主人公ハヤテとライバルキースの意見が面白かった。彼らが主張するのは「空も雲も海もあるから」という物理的な事実である。マクロスでは飛行機ものであるため空へのこだわりがよく書かれるが、今回は特に風や空の単語がくどいほど頻出した。それと合わせて、ライブシーンの「ライブ感」の強さも印象に残る。ラグナ脱出時の、ヒロインフレイヤの生録りされたライブはこの作品最大の見所だと思うのだが、瞬間にかけるということこそデルタの魅力だったように思う。だから将来的な不安を取り除くために「今ここにある空」を失うことを誰も承認しなかった。ライバルとラスボスが所属し、フレイヤの祖国であるウィンダミア人の寿命が30~40程度という設定も効いていた。短命だから命を永遠にするか、だからこそ今を生きるしかないのだという対立は面白い。ただ、ラスボスの方はもうちょい丁寧に書いてくれ。なんでそんな永遠にこだわるか分からん。フレイヤは自らの歌の力を酷使しすぎて寿命が縮んでしまう。それでも関係なく、空があって雲があって海があって、歌がある。

デルタは物質の豊かさを讃えるアニメである。観念に囚われることなく、ただその場のものを楽しむということ。今歌うのだということ。不安という無意味な感情は、物質の持つ美しさ、表現の持つ力の前では霞でしかない。楽しむこと。マクロスデルタはどこまでもポジティブで、現代人への力強いエールになれるのだ!

 

おわり。最終話、戦闘は地味すぎた! もっとラスボスくさいバルキリー出してよ…… あんなどうでもいい雑魚相手に駄目でしょ。デルタは戦闘がちょっといまいちだったかな。戦闘を盛り上げるためのキャラの関係描写は上手かったから、もっとハラハラするものを魅せて欲しかったかな。どちらかといえばワルキューレのライブの方が見ごたえが合ったね。ジークフリードとドラケンかっこいいんだけどな。

どう表現に向き合ったものだろう?

 僕の周りで「君の名は。」の評判がいいのだが、なんとなく気が乗らないので「秒速5センチメートル」を観てみた。

 この手の作品はどうしても主観が入ってしまう。だが、表現としての評価に個人的な体験を入れるのは言語道断だ。好き嫌いと評価を分離するのが批評である。ただ、「秒速」のような個人的な共感がある程度作品の尺度になってしまう作品は確かに存在する。僕も強く共感することに終始していた時期はあるし、今もそうだと思う。黒歴史は現在進行だ。

 下らない作品に共感することは、どれほど下らないのだろう。西野カナが好きだろうか? 僕は嫌いだ! まあそれはいいとして、西野カナが好きな女子を嫌ってる批評家気取りの高校生って2年前にはクラスに一人はいそうな気がするが、果たしてビートルズのレットイットビーに中学の頃共感していた僕は西野カナ好きな女子よりも上なんだろうか? 共感という共通項の上では僕も女の子も一緒だ。レットイットビーの音楽性? たしかにメロディとポールの声に感動していように思う。だとしても、それは共感ありきの感情ではないのか?

 難しいのだ。たまに「いいと思うけどはまれない作品」(俺にとってはガレージロックがそれ)ってあるけど、あれは共感こそが先立っていることを証明しているような…… 売り上げ=クオリティという気もないが、共感を呼べることが一定のパワーを持つのもまた事実な気がする。なんであいたくて震えることに感動するのかはよく分かんないけど、世の中に溢れるポップスからそれが選択されたのはなんかあるはずだ。宣伝効果もあるかもしれないけど、ごり押ししたのに爆死したガルネクとかいたじゃん。

 結局個人的な共感はそう抜けないだろう。だから、いいと思うものを否定されるのはみんないやなんだろう。僕はだから議論するのは楽しいと思う。否定しあって否定しあって互いの感性を見比べて「確かそうな魅力」を発見していくのは面白い。肯定だけではそれは見つけられない。僕がブログに書く記事も雑談抜きには成立しえない。

 まあ、問題はそれを理解して付き合ってくれる人はあんまりいないことだよね。

他人&自分「こいつめんどくせえええええ」

 今までの記事で「生きにくさ」はよく取り上げられて来た。

 「生きにくさ」が存在するのは、大抵は他者や社会との関わりの中にある。当然といえば当然だが、社会や他社は切り離したくないし、切り離せない。あれほど自分自身をすり減らす存在であるにもかかわらず。ほんっとうにめんどくさい。こんなにいらないジレンマがあるのか?

 漫画「エルフェンリート」のヒロイン、ルーシーは異種族であるがために排除され、それを恨みつづけるが、本編中で人との関係の中で希望を抱いては違う人の行いに再び絶望するのを繰り返す。しかし、彼女は最終巻でいう。「どんなに嫌われても どんなにいじめられても どんなに虐げられても それでもやっぱり、一人は寂しいんだ」人間の持つどうしようもなさ。どれほど嫌気がさしても他者を求めてしまう矛盾。そういった温かみとも悪しき衝動ともいえぬこの心的欲求の本質を、この台詞はよく捉えている。なぜだろう? 嫌われ、いじめられ、虐げられたら他人などない方が幸せなのは目に見えている。ルーシーは「それでも」という。「一人は寂しいんだ」と言う彼女は主人公を膝に乗せ泣いている。それは間近にいる他者からの慈愛を受け止めた末の喜びのようでもあり、自分のどうしようもなさへの嘆きが含まれているようでもある。

 みんな自分ひとりで生きていく力がないと考えれば、人とのめんどくさいしがらみも、理解できる。だからこそ、「自分」と「他人」は共に「他者とかかわりたい」がために生きていることと同時に「他者に合わせることにうんざりしている」を自覚し、適切なコミュニケーションを取っていく必要がある。本来、大多数の人間に悪意はない。他者との交流の中で悪意を発露したら排除されるのは目に見えているからだ。他者への悪意を感じる瞬間とは、自分が悪意の目で見るからに過ぎない。だから、暢気に人を捕らえて、互いにうんざりしながも、適当に楽しく付き合っていこう。

 

 なんか道徳の話みたいになったけど、終わり。教科書に載らないかな!? 俺が中学のときに読んだら絶対感銘受けると思う。タイムマシンがあれば……!

 僕は人付き合いにこだわらないタイプだから、逆に愚痴聞いてると「なんて真面目なんだ!」と感心する。だって僕は人に関心ないから嫌いになったりしないもん。そんな真摯に向き合って他人にエネルギーを割いてるのを見てるとまるでボランティアだ! って思ってたりする。まあ、真面目だから変にすれ違ったり、偏見を生んだりもするんだけどね。ちなみに僕はジュースかポテチをおごってくれればそれだけで気に入るので単純な奴です。だから誰かおごってくれ。

何者になるか、どの場所にいるか

「AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜」というライトノベルがある(僕が観たのは劇場アニメのため少し齟齬があるかもしれない)。中二病を患わせて中学生のとき全校生徒の前で大見得を切った主人公はいじめられて不登校になる。その後高校デビューして普通の学生になるが、魔法使いの格好をした女の子に出会う。その少女は異界からの調査をしている設定をガチで演じており、主人公は過去の自分と重ね合わせて複雑な感情を抱く。

設定と序盤のあらすじをまとめたものだ。ヒロインはラストシーンでこう嘆く。「世界は、狭量だ」それは自分の好きな設定を「痛い」と断じて許容せず、排除してくる世界への嘆きだ。だが、これは間違いなのだ。主人公がその後反論する通り、誰もが社会に折り合いをつけて生きている。エゴや欲望と体面をみなすり合わせて生きているのだ。
ただ、欲望の質による生きにくさの程度があるのは無視できない。少年ジャンプが好きな人は学校だったらそんなに気にしなくてもいいかもしれないが、女子のリコーダーを舐めるのが好きな男子学生は何かの対処を強いられる。変態辛みあるな。
サブカル女子といわれるマイノリティにこだわる人たちはなぜいるのだろう。マイノリティが個性的だということだろうか? しかし、マイノリティは結果的な状態を表すに過ぎず、性質ではない。例えば同性愛者という性質を持つものが性的マイノリティの状態になるだけで、マイノリティであることなんの個性も表明しない。で、僕はサブカル女子が個性的ではないと看破したいわけではないと言っておく。
注目すべきはなぜマイノリティに憧れるのか、空虚な個性になぜそこまで惹かれるのか、である。ネットでは度々カテゴライズが行われる。「ウェイ系」「サブカル系」「意識高い系」などのカテゴリは、社会とすりあわせるためのフォルムである。そして欲望に最も似合うフォルムを採択することこそが社会と主体における一つの妥協案なのだ。フォルムは所属と欲望を同時に表現する。しかし、カテゴリーとはマイノリティと同じく所属や状態を表す言葉にすぎない。カテゴリーに属することは欲望の表明と同時に没個性になる。「AURA」において主人公とヒロインは「ただの中二病患者」である。しかし、大衆の前でその姿を晒すのは相当な異端者でもある。そういう異端な欲望に社会が拒否反応をしめし、どう合わせればいいかわからず辛いのがマイノリティの生き様だ。対してカテゴリーに所属すると既に社会の中で居場所が担保される。しかし、それは同時に欲望の本来の形をねじ曲げることが要求されてしまう。すり合わせる「事実自体」に苦悩する。だからこそ、彼らは「本当の自分」というものを気にする。マイノリティは本当の自分がわかっても社会的に認可されないのに比べ、彼らはねじ曲げてしまった欲望の本来の姿が分からず苦悩する。彼らの自己嫌悪とは、そのために鏡を見てしまうがゆえに生まれてしまう。サブカル女子という熟語は、カテゴリーの所属と本当の自分を見つけているマイノリティへの羨望を同時に言明する。マイノリティに目をつける彼女らは察しがいいともいえる。だが、社会からの拒絶を恐れてもいるからなりきることができない。ジレンマに溢れた彼女らの感傷。このことを魅力的に感じるかどうかはあなた次第だ。

終わり!
本当の自分などない、と僕は思うよ。人の前でつけてる仮面も自分が作ってるものだからね。