そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

けものフレンズを見ると凄い「喜び」をかんじるんだけど

話題になってるから、という理由でけものフレンズを見たら異様に面白かった。ゲームが終了した後に放映したら大受けしたのはカブトボーグを想起させる(狂気含め)。まああちらはカルト的な人気に留まっているのだが。
このアニメは多様な解釈を生んでいる。終末後世界ものとして、癒し系日常アニメとして、3Dアニメの新しい手法として、人間観を問いただす、哲学的な問いとして。僕はどちらかと言えば日常アニメ的感じで楽しんでいる。ただ、他の解釈の視点と合わせ異様ではある。
日常系アニメを「息抜き」的に見る人はある程度いるようだが、それはシリアスでなく、あまり人物の心情を考える必要がないため、俗に言う「頭を空っぽ」にして楽しめるからだろう(ちなみに「息抜き」的表現としてだったら音楽が一番優れているような気もする。音は具体的な対象を描けないため全くの無意味だ。快楽的だし)。しばしば日常系アニメでは社会を描かないことが指摘される。はっきりいっておかしいことだ。しかし、けものフレンズはもっとおかしい。だって「文明」を描かないのだから。そしてフレンズたちは否定をしない。それは日常系アニメもそうだ。だが、けものフレンズではフレンズたちによってある種の共同作業が行われる。かばんちゃんが提案し、フレンズが同意して一つの文明を作るという作業。それはある意味では社会的な行為である。つまり、けものフレンズは社会的な要素を描きつつ否定しないのだ。そうなると、否定しないことの意味合いはより強まる。こうして見ていくと、けものフレンズの世界はユートピアそのものだ。日常系アニメが作ったユートピアよりも更に先鋭化し、徹底された世界平和がある。
keyのゲーム「CLANNAD」について、「今のオタクは昔の世代のように結婚して働いて子供を作ることが常識でなくなったから響く」のだと前にどっかで見たことがあるが、けものフレンズは「昔のように社会が成長せず、何かのために頑張ることの幸福を享受できなくなった」から響くのではないのだろうか。「CLANNADが」もう当たり前ではない「家族」を擬似的に再生産しているのだとしたら、けものフレンズはなんと「文明社会」を「平和なものとして作り変えた上」で、「再生産」しようとしているのだ!(書いてて思うけどほんとにヤベえな)今度こそ間違えないで社会を作る。我々は終末後の世界だと感じてはいる。だから、素直に生きる彼女らを応援したくなる。僕たちが駄目だった「一週目」の、同じ轍を踏んで欲しくないから。その上で、一個の文明をみんなで幸せに築く彼女らを見て圧倒的な「喜び」を覚える。それにはプリミティブな風景であるからより一層感動する。加えて、低品質な3Dモデルは妙に純朴に見え、健気に彼女らの幸福を写し取る。
 いや、ここまで書いて思うがちょっと妄想的過ぎる気もする。だとしても、なんか「喜び」は感じるんだよなあ…… アフリカンなBGMで、自然の風景の中、安っぽい3D空間でめい一杯楽しそうに作業するフレンズを見てると、微笑ましいというよりも、なにか感動的なものがある。自分の動物としての機能を活かして頑張るフレンズは、癒されると同時にもっと強い情動も湧き上がる。この「喜び」を考えたら上述の論理になったんだけど、どうなんだろうなあ……

以上。一番気になるのは、フレンズっていう呼称だよね。誰がなぜ「フレンズ」と名付けたのか。そして、恐らく名付けた人はもういない。フレンズは本当に「友達」になりたかった人と友達になれないまま、ジャパリパークを暢気に暮らしている。この辺は漫画とゲームで語られてるかもしれないけどね。

オタクカルチャーから美少女を抜いて考えたら、なにが残るんでしょうね

「オタク文化はオタクの性的欲望が根付いている」との見解は良く見るし、僕もある程度は同意する。そうでなければあんなに少女をかわいく見せる必要がない。もちろん純文学でも美少女はいるが、ああも徹底的にフェティッシュではない。

だが、他方でこの思想が厄介なミームでもある。このことが前提として立ちふさがりすぎて、それ以外への言及の乏しさが目に付くのだ。オタク文化批評が「オタクの欲望を描くもの」という批評観に囚われすぎている節があるようにも思う。もちろん違うものもあるが、そういう文脈から社会とオタクを接続するしょうもない理論が出来上がってしまうのはなんともやるせない。東浩紀は先進性と鮮やかな論理運びは素晴らしいが、オタク文化を「メタ的」で「欲望に満ちた」、「社会へのカウンター」としての存在として確立させすぎたことの罪は決して軽くない(読み手の問題も多分に含む)。

以上が問題の一つ目。そしてオタクの欲望=オタク文化から解き放ち、表現としての機能、躍動感を語るフィールドが作られ、さあ語ろうというとき、理論としてなにに依拠するかが次の問題だ。今は漫画やアニメなら映画、イラストなら美術、ライトノベルなら物語論が引用されがちだが、当然ながら漫画やアニメは映画ではなく、俗にいう「萌え絵」は絵画ではない。特有な理論があまりにも少ないように思う。伊藤剛テヅカ・イズ・デッド」は名著だが、本人が言うように表現論におけるフィールドを提示することがメインで、漫画そのものへの理論構築ではなかった(フレームの非確定性は興味深いが、理論としては応用が利かない気もする)。また、彼自身但し書きをしていたものの、やはり他表現からの理論の引用が多すぎることは否めない。一体なにが特有なのか。映像として、美術として、文章として、オタク文化にしかないものはなんなのだろう。大塚英志のいうところの「リアリズム」か? だけどリアリズムがまるっと変わったら表現形式もまた変動するはずだ。ある小説とライトノベル物語論的には全くの同一で設定やキャラクターの関係も似通っていたとしよう。そのときライトノベルが「漫画・アニメ的」であることはどう作用する? それは答えることが出来ない(このような問いを立てられる時点で、大塚の仕事が偉大であることを実感する)。

 サブカルチャーとは本当に不思議だ。映画や純文学とはあんなに「違う」のに、どう「違う」のかが想像以上に説明しづらい。特性を並べ立てるだけなら簡単だ。だが、それだけではなにかが足りない気もする。アニメを実写にするとありえないほど滑稽になる。ちょっと前にリメイクしたパトレイバーがそうだったらしいが、それは面白いことだ。それは、アニメにしか出来ない「台詞回し」があることを意味するのだから。あまりに当たり前だが、文学に出来なくてライトノベルに出来る「言い回し」がある。凄いことだ。そこでは新しい「虚構」が立ち現れていることになるのだから。そう考えると、やはりリアリズムが出来たこと自体がオタク文化の革新性なのかもしれない。その上でわれわれが考えるべきことは、リアリズムによってもたらされた未踏の表現領域を、メタレベルではなくあくまで「素材の躍動」(言語の躍動、音の躍動、色彩と線の躍動……)である表現として還元する必要があるのだ。

 

おしまい。やっぱり大塚英志はえらい!

責任の持てる人になれ、って言い方が既に無責任なんだよ!

 このブログにしては珍しくゴシップから始めよう。

 清水富美加幸福の科学にそそのかされて芸能界を引退した。残っていた仕事も全て投げ打って引退したため、芸能界はてんやわんやだ。そんな中、こんな記事を見た。news.livedoor.com/article/detail/12681886/

問題としてあるのは、責任というものは本人にとってどの程度の意味合いを持つのかということだ。組織や共同体においてはある程度の責任が付随する。仕事をやめるときは退職届が必要だし、そしたら自分のデスクを片付ける。離婚には離婚届が必要で、持ち物は家から出さねばならない。でも逆に言ってしまえば「別にその共同体を抜けるんだから最後はどんだけ無礼になってもいい」とも言い換えられる。だって責任は何かを遂行するときはともかくとして、脱退するときは最早責任を守るメリットが見受けられないから。清水富美加も違約金は払っている以上、法的にはきちんとした手続きをとっているわけで、残りの仕事を破棄した対価は払っている(払った額が仕事の生み出す富に見合うかはともかく)。そういう意味ではなんら間違えてはいないのだ。

 生きるのが上手い奴は、責任に上手く自分の欲望を乗せる。責任のある仕事に自分自身の「楽しみ」を見出せる奴は強い。生き方が強靭である。本来欲求と責任は相反する。だって人間は本質的にうろちょろしてるからね。江戸時代とか明らかに今よりもっと適当だし。かといって今の時代では誰しも「なにかしら」が「課せられる」。押し付けられたそれとどう向き合うか。無視は出来ない。近代社会で完全に規範から離れるのは無理だ。タイプ分けするなら、

1洗脳的に楽しみまくる、社会の生み出した怪物的な歯車タイプ

2しぶしぶやって、愚痴を吐きながら生きる怠惰な犠牲者タイプ

3絶対嫌だから、とにかく逃げ続ける独我的アウトロータイプ

こんな感じか。僕は2と3の中間にいるが、1の気持ちはマジで分からん。別に社会というものを根本から軽蔑はしていないが、ネジがどっかで外れたのか、あるいはこれこれ社会の作り出す理想的な人間像なのだろうか。多分、一番いいどれにも当てはまらない人だと思われる。定型的な人間は、不定形な欲望に対応しきれない。だから、どうしても何かしらのジレンマに合う。テンプレートはコミュニティ、社会適応能力を供給するが、欲望を制限するのは前に書いたとおりだ。まあ、上手く摺りあわせて生きていきましょう。そうするには、自分で事物の「価値」をきめていくしかないんじゃないかなあ……(自信なさげな結び)

 

これで終わりじゃ。僕は責任が死ぬほど嫌いです。だってめんどくさいじゃん。

表現は思想や精神のためだけにあるんじゃないんじゃない?

最近モンハンをしている。ダブルクロスに備えなきゃね。
なんか馬鹿にされるが、モンスターハンターはいいゲームだと思う。精緻に世界観を描き、モンスターのデザインと設定はうまく絡めている。アクションも戦略的な要素とアクションとしての瞬間的な判断がうまく調和している。アクションゲームとかアクション映画は思想性がないためとかく馬鹿にされがちな気がするが、それは側面的な捉え方だ。表現を「深み」でしか捉えられない人の発想なのである。別に、ただ爽快でもいいじゃないか。計算され尽くしたアクション、精密に構築されたビート、リズムパターンの快楽は、「いいもの」じゃないのか。むしろ、アクション映画や電子音楽こそストイックなのだ。思想性が抜かれる代わり、極限まで「気持ちよく」なければならない。そうするために電子音楽はパターンを膨大に用意し任意に組み合わせ、最も美しい隙間と間隔と恍惚の音楽表現となる。
表現は思想表現でも、精神の発露でもない。それらは一側面としてのものであり、快楽性も間違いなく重要な要素なのだ。表現を思考するときは常に全方位を考えねばならない。どんな形態、どんな未知のものであろうが「なんか面白ければ」全く問題ない。だからその「なんか」を見落とさないために受ける情動と作品をあらゆる方法で結びつける必要がある。なぜならば、表現の可能性は常に思わぬところに秘められているがゆえだ。

終わった。もっと適当にいきれば思想なんてどうでもよくなるよ!

閃き力、とかいうと自己啓発本っぽいワードに見える

このブログの記事を書くとき、なにも考えていないことが多い。書き出して、その後は前の文章に繋がるトピックを思い付いて書くことの繰り返しだ。今回も書き出ししか考えていない。不思議なのは、最終的に自分の思想へと至ってしまうことだ。手癖と言うべきなのか、最後は普段考えていることに行き着く。僕がやっていることは会話に近くて、出発点とは全く違う話題になっていることも多い。自分の書いた文章に「返答」しているわけ。この作業は自分の思考が思わぬところで結びついていることを発見できるのが面白い。昨日の記事は顕著な例である。
しかし、人間の思考は非常に不可解だ。神経同士の莫大な繋がりにおいて、普段使われない連携がなされるとき「閃く」のだろうか。アイデアを出せる能力と知能は正比例しない。脳のどこどこの領域が発達していると優れた発想を出せる訳ではないようだ。では発想力のある人は他の人とどう違うのか? たまたま電気的な閃きが走っただけなのか? 誰もが論理的には手塚治虫カフカになれたのか。逆に言えば、才能が無いのに悩むのは発想力があるのかないのか分からないからだとも言える。頭のいい悪いはなんとなく感じることが出来るが、天才的なアイデアは賢さと絶対的にはむすびつかない。才能があるかどうかは死ぬまで分からない。いや、カフカや賢治を見るなら死んでからもわからないと言うべきだろう。分からないがゆえに怯え、一方でもしかしたらと希望を抱く。いつか閃けと念じ、努力する。なんともまあ、虚しい行為である。でも、だからこそひたむきな奴は魅力的で、実際に現実を切り開きうるのだろう。

終り。山形は吹雪ですが、チャリで頑張って帰りました。雪国ではない人にトリビアです。吹雪にチャリで走ると眼鏡が目隠しになります。

何をしようが、どう思おうが生きていくしかないわけだ

大学四年ですが、内定が決まった。
卒業も決まっているから、もうなにもしなくてもいいわけだ。
そして春になったら社会人になって、定年まで働くことになる。なんて言い方は意味がない。終身雇用なんて今では幻想だよ、なんてツッコミは置いておくとしても、こういう風に言う奴は「ジジイになるまで働きづめの人生さ」的なニュアンスで話すが、そうでもないだろう。本当に定年までずっと無感動に過ごす人がいるはずがない。もっと言語化できない内容があるのだ。
人生は長い。辛い。眠い(?)「クロスボーンガンダム鋼鉄の7人」において、「なぜ俺が生き残った」と悔やむ人物にたいしあるキャラはこう返す。「・・・・・・人間生きたいだけ生きられる奴も死にたいときに死ねる奴も滅多にいやしないんだよ!生きていこうぜ 今までもそうしてきたように どうせそれしかないんだ」
最近読み返したら、この台詞で泣いてしまった(俺は大丈夫だろうか)。そうなのだ。なにをしようが、どんなことが起きようが人生は続いて「しまう」。人生最大の歓びを手にしても、何事もなかったかのように人生は続く。不慮の事故や自殺でもない限り、人生は延々とひた走る。人生の辛さは、つまるところこのことに集約されるのだと僕は思う。なぜ続いてしまうのか。体は衰え、頭の冴えは鈍り、容姿が醜くなっていっても、終わらせてくれない。意志はそこではなんの意味もなさない。行動も、自らを死に至らしめるものでなければ全く効果がない。どう思っていても人生が続き続ける。そこでは惰性で生きるとか、真摯に生きるとかを考えても無駄だ。どうせ続くのだから。功利主義者なら、続くんだったら幸せに生きようと言うだろう。宗教家は神のために一生を使うだろう。合理主義者は生き方を効率化させて、不自由をなくすだろう。
この人生が「続く」中、我々は価値を、くだけて言うなら「楽しいこと」を見つけなければならない。だが、楽しいことをしても「続く。」その先があって、またその先…… だったらなにか意味を見つければいいのか? 僕からすると、それが一番つまらない。意味のある人生は、日々を解釈化する。「続く」意味を見出だしたら、何が面白いのだろう。なんのために生き続けているかわかったら、あとの人生は無価値だ。なぜなら、意味があったらもう自分で価値を考える必要はないのだから。だから、続くことだけを思う。それから、ずっと死ぬまで悩んでいいのだ。だって、この世も人生も興味深く、かつ巨大なのだから。世界への興味は、人生が無意味なところから出発する。無意味をどうしよう。それを解決するために自分以外へとアクセスして、「なんとかする」こと。矛盾やジレンマを内包するから、生きることは面白く意義深い。

終わったぞ! さて、僕は定年まで働けるでしょうか!?

漫画アニメのテンプレ的な台詞は、面白い

漫画アニメのテンプレ的な台詞を僕は愛している。一種の様式美と美学を感じるよね。好きなものをいくつか抜粋しよう。

「ここはあいつの庭みたいなもんさ」
凄い迷いやすい場所をこちらの利としている人を評して。これを使う気持ちは結構わかる。庭の的確かつ洒落た感じはい。個人的に「もんさ」が語尾だとベスト。お前は何を知っているんだ。

「いい目をしている」
有名なテンプレ。最も有名なのはランバラルか。だからお前は何を知っているんだ。体つきとかではなく目で判断することで歴戦の戦士感を出したいのかも知れないが、冷静になるとよく分からない。

「やったか!?」
ブリーチが特許を取得してしまったテンプレ。これがないと全体的にクールになる。これがあることで絶望が増すが安易と言えなくもない。より強いバージョンに「やった!」がある。こちらを言って違った場合の小物感は半端ではない(確実に違うのだが)。

「あの○○を一撃か」派生形「大したものだ。あの○○を一撃とは」

個人的にすげー好きな台詞。どんだけ上から目線なんだよっていう。「まあ俺も一撃で倒せるけどね」って暗に言ってる感じがたまらん。ただ、これを言う奴が作中最強なケースって滅多にない気がする。

「この(団体名)の恥さらしが!」
この後三割くらいの確率で処刑されます。大体違うやつが出向いて負けて、恥さらしは悪くないことが判明するのが大半。ていうかよく分からない悪の組織にどハマりしないで下さい。台詞いってる人。

「こいつは俺の獲物だ」
かっこいーー! て、俺はなる。最強キャラが圧倒してたら個人的に恨みがあるやつが割り込んで…… ってパターンがそこそこあるような。あと、案外獲物にされた人が勝つパターンがないような。

「お前では役不足だ」
意味が真逆ですよ。実際は対等なのに自信家なため言うときもある。 なぜか「あの○○を一撃か」と比べると小物感は否めない。やっぱ強さを見せるには相手を誉めた方がいいのだろう

「ここまでは完璧……」
これからは? 俺が記事のテーマを決めるきっかけになった台詞。死亡フラグが折られるときは数あれど、このあとも完璧だったケースはあるんだろうか? 個人的にこの台詞は燃える。大体地力では負けてる奴が言うときが多いため、こっから逆転されるのが暗示される訳だが、むしろ逆転されてからが弱いものの意地の見せどころである。完璧と言いつつも完璧じゃないときを覚悟して放つ、遺志の強い言葉だと思う。俺が見つけた中じゃ一番好きかな。

これで以上だが、こういう台詞は画一的であるからこそむずかしい。だが漫画アニメではテンプレ的をここぞと言うとき放つと妙にキレがある。それがサブカルチャーの「リアル」だからなのだろうか。