そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

怒りの広島第二章(広島への風評被害が深刻)

やはり、俺は怒っている。

鬱憤なのだ。憤懣は尽きねども、発散する場がない(そういいつつ文章を書いている。なら文章に怒りをぶつけているわけになるから、言語化した瞬間に矛盾化するのだ)。この前は分からないだったが、今は「くだらない」だ。俺の本質は、やはり「くだらなさ」にあると自分で思う。ポテチとジュースの新商品を買い求める、幼稚なくだらなさ。全てくだらないと吐き捨てる反抗的態度。事物は全て下らないと断ずるニヒリズム。くだらなさに美しさを見いだそうとする批評的な姿勢。そうだ、「くだらなさ」こそ俺を通底するものであり、同時に俺自身と響き合うものなのだ。だから言いたいのだ。くだらないと。なにもかも、森羅万象ありとあらゆる全ての事柄、物質に「くだらない」と言い捨ててしまいたい。「より良い人生を生きる」だとか、「強い人間になる」だとか、そういう模範的な態度はくだばってしまっていい。どこまで努力しようと、人生などくだらないし、人間などくだらないし、お前自身もしょうもないのだ。その癖に必死に頑張る意味なんてどこにあるんだ。虚無を打ち消すためのごまかしのような行為をいつまで続けるつもりなのか。スタバでマックブックを使うと虚無が消えるなら、今すぐやろう。

 努力なんてなんでするんだ。頑張っている奴が偉いなんて論理は誰が作ったんだ。死ね。全てがくだらないことには美点がある。頑張らなくていいことだ。何一つそこではくだらない。全ての評価がくだらないになる。通知表に書いてある国語も数学も社会も「評価:くだらない」がつく世界で本来はあるべきだ。俺はそうであるべきだと思うのだ。なぜ努力を義務化する。いや、義務的に努力しているわけではなくても、そもそも「自分をよりよくしたい」なんて発想がなんで出てくる。自分をよりよくすることが自分をよりよくするのか。違うだろう。どこまで言ってもやはりくだらないのだ。そこには「多少はマシ」みたいな修辞は存在しない。どこまで言っても「くだらない」という形容詞一つで完結する世界がこの世だ。君がいる現実だ。何度でも言うが、「人生は下手な役者」だ。へたくそなのだ。それなのに人は理想像をたてる。「幸せになりたい」なんてのもどうでもいい。そんなものに束縛されているようではまやかしの中でイエスを崇めるのと変わらない。なぜなにかを求めるのかということだ。今よりましななにかいいやり方があったりしない。(オーガユーアスホール「もしあったなら」はそう思わせる力のある名曲だ)言いたいことはそれだ。もっとくだらなさに気づけ! 「何をしても何も起きない」のだ! 感覚の中では確かに違う。自分の中ではそう思えないものだ。だったら理想像など立てるな。好き勝手に生きてみせろ。人間は色々なものを背負い込むが、結局は何も「持てない」のだから。いつだって荷物はないのだし、錯覚を解くだけで十分だ。生きるくだらなさとは、あまりに貧相だが同時に軽快だ。だからおれはなにもしたくないし、同時に常に怒っている。くだらないのに、それっぽい内実を持とうとすることに。充実とは虚飾だ。豊かとは肉襦袢なのだ。人生など遺骸に過ぎない。この文章も推敲したりしない。別にいい作品を書こうなどと思ってもいない、思ったことをなんの思慮も介入させずに書くだけだ。それでいい。

 

 

 

終わり。終わりだ!これを書いている間「アビーロード」のB面を聴いていたことを付記しておこう。

怒りの広島第一章(続かない)

※注意! いつもより文章が乱れています!

考えないで書いたせいです!

 

俺は怒っている。様々な要因が考えられようが、自分に才能のないことにまず怒っている。今日クラブMCをしている友人のプレイを観に行ったが、渋谷のかなりでかい箱のメインフロアで堂々とプレイしていた。彼のMC歴など一年半かそこらなものだが、なんつー才能かと思った。それだけでなく、最近友人と話していると俺が3年以上考えて辿り着いた理論をパッと出していたりした。一体なんなんだこの才気は。2年くらいで作家になった奴もいるし、昨日唐突に名曲を送ってきた奴もいるし、なぜこうも逸材がいるのだ。いやしかし原因は分かっている。要は俺の努力が足りなかったというだけであろう。もっと頑張っていれば、もう少し追い縋ることも出来たのは否定しようがない。とはいえそこまで頑張ってどうするんだ。なんか起きるのか。ハッピーエンドが確約されるとでも言うのか。なぜああも皆頑張れるんだ。分からん。(「この世界の片隅に」の浦野すずの名台詞「わからん、わからん、さっぱりわからん! 帰る! 広島に帰る!」が思い起こされる。最近の俺の心情をこの上なく言い表していると思うのだが、広島は関係ない)いや、ニヒルになりたい訳じゃないし、出来ないことの言い訳をしたい訳じゃない。先程の引用を踏まえて言うなら「広島に帰っていいのかすらわからない」のだ。ていうかなにすればいいんだ。本読めばいいのか。文章を書けばいいのか。踊ればいいのか。今までの俺の論に従うなら「やりたいことをする」に尽きるが、やりたいことってなんだ(こんな感じのことを言うと自分が凡人になれたようで気持ちがいいが、それについて変に考察をするから凡人の地位は崩れさる。「こんな人間じゃなかったら、どんな人間になればいいんだ」というニルヴァーナの名曲「オール・アポロジーズ」の一節が浮かぶが)。そうだよ! これを読んでる人がいたらなにをしてるか教えて欲しい。動機も附記して! でも動機なんて考えてるから駄目なんだろう。結果=原因が対象aであるのだから。行動と理由は常に循環論法的なのだ。なにしたらいいか分からないから、いっそ行くとこまで行ってしまいたい気もする。自活出来ないほど狂気に身を振るか、死ぬほど努力するか、とてつもなく普通になるか! このいづれかになれれば文句はない。そうだ、僕の不満はここにある。行けるとこまで行っちゃえばいいのに、行けないのだ(それが人生の本質であるのは言うまでもない。だがここまで中途半端なこともそうないだろう。シェイクスピアジュリアス・シーザーの壮烈な台詞「人生は下手な役者だ。所在なさげに舞台と袖を行ったり来たり」は何て正しいんだ!)いや行ったら行ったで苦労もするんだろう。というかこの中途半端な感覚は自分でなくても感じているのだろう。(結局そうやって人の心理は普遍化され、一般化される。一体構造となんなのだろう。心はどこまで行っても個別ではないのか?ならなぜうつ病神経症のように、名によってカテゴライズされていくのか? 共通項がないものも、相違点がないものもない。同じように見えるのも、違うように見えるのも所詮は操作による錯覚だ。僕とマリリン・モンローは人間という点では同じ存在といえよう。だから同じだと言うこともできてしまう。そんな馬鹿な、と思うかもしれないがレトリックとはそういうものなのであり、小説のメカニズムもここに依拠しているのだろう。ピカソ箴言「表現は真実を暴きたてる嘘」は、本質そのものだ)、ただ程度の問題はあるのだと思う。だから僕が言いたいのはパラメータ「存在の不確かさ」が極めて高い数値を叩き出しているのではなかろうか、ということだ(「彼は○○な人である」なんてありえない。あてはまるのが「優しい人」だとしても、属性「優しさ」がなんなのか説明して見せて欲しい。「優しい人」間に共通項なんてないのだ。ただ諸条件によってパラメータ「優しさ」が上昇して評価者の価値観によって「優しい人(っぽい人)になるだけだ」)。ただ、だから優しくしてくれって訳ではない。最終的には、僕は怒っているのだ。結局最初に行き着いてしまった! 言いたいことというのは常に通り過ぎるものでしかありえないということなのか。まあいい、とにかくむしゃくしゃするということだ(そうなると、僕の主張したいことは最初の一行で全て完結してしまう。だが、小説とは常にそういうものじゃなかろうか。あらすじも、テーマも本当は一行ですませられる。いや、そうじゃないだろう。その一行で済むわけがないだろう。もっと言葉にできぬ思いがあり、試したい文学的手法があるだのだから。ゆえに無限に遠回りする。ひたすらに迂遠な手法。だがそこには言語化不可能な情緒が、声にならぬ声が宿る。そしてそこから解釈が生まれる。名作とは、言語を操作することで言語化不可能な感情を読者に供与し、底抜けに多様な解釈と永続的な喜びをもたらす。それは間違いなく、文章にしか出来ない仕事だ)そう、むしゃくしゃする。そしてなにも片付かない、文章なんて役に立たない。だから、広島に帰ろう!

 

終わり、こんなんだから駄目なんだよ! なんでこうなったんだ!

多数派と少数派のデスマッチ

おはようございます! それじゃあ今回も行ってみましょう!

謎テンションのスタートだが、結局はいつも通りだ。しかし、人生とはそんなものでしかないのだ。

以前書いたことをちょっとまとめる。

多数派は、無自覚に社会に順応できるが故に、無自覚に少数派を痛めつける可能性がある。「おかしい奴」だと判断してしまうわけだ。また無自覚に順応できるが故に、社会に対して疑念を抱きにくい。この世の中の不自然さに、対応できるから気づくことができないのだ(もちろん全員ではない)。

異端と中庸。自覚と無自覚。少数派と多数派。社会不適合と社会順応。批評家が世界を変えられないのはここに端を発する。いくら社会不適合者が世の中の理不尽に自覚しても、多数派が賛同できることはまずない。そもそも、「やっていけている」世界を変える必要性がないのだ。人間も、社会も大半は維持を好む。変革は良くない。なぜなら全て壊れるかもしれないから。問題の先延ばしはとても良い。少なくとも「まだやれている」のだから。現代社会がこれほど問題を抱えながら変革できずにいるのは「まだやれている」からだ。システムがこれ程強固になってしまっては、そう簡単に「こと」は起きないようにできている。

ここで疑問を提示する。先ほどの対立軸に、「自閉症スペクトラムと定型発達」は入りうるだろうか。僕は診断したわけではないが、間違いなくアスペルガー発達障害は持っていると思われる。ていうかこんな辺鄙なブログ書く時点で怪しいし。ただ、学校では常に多数派だった上、友達がいない経験も全くない。もちろんアスペルガーで友達がそれなり以上にいる人は一杯いるだろうし、定型発達者でも友達がいない人だっている(人の精神や心は常に例外的なのだ。)。気になって自己分析をしてみたことがあるのだが、僕は間違いなく人の感情は読めていない。「どう感じている」かは全く掴めない。その代わり、「何を言っているか」論理的に判断することは出来る。感情は分からないが、言葉の意味を論理的に解析してある程度ずれない返しは出来ていると思う。ちなみに、僕は初対面の人が極めて苦手だが、その理由は他人の情報を集積して「文脈」を作って行くタイプだからだと思う。どういう傾向にあるか分析して、会話でより良い回答を探って行くのだ。だから僕は人によって全く違う対応をしている。逆に初対面になるとなんの情報もないし表情が読めないからかなり苦戦する。今も友達でいる人はそれでも「なんとなく」そのことを気にしなかったとみんな言っている。変人だなあ。まあ誰でも出来るやり方ではない。元々情報処理が早いタイプだから何とかなるだけで、多分そう簡単には出来ない。だから僕は明らかに変人でありながら多数派の思考様式もある程度分かる。個人的な見解として、駄目になっている奴は大体「バカ」って印象だ。ひどい言い様だが、実際そうだと思う。適当にタイプ分けしてみよう。

1、変人だが元気に生きてる人……大体趣味に没頭している人が多い。自分のやりたいことをずっとやってる、いい意味で「お花畑」な人。ただ、元気だが闇が一番深いのもこのタイプ。俺の一番好きなタイプだが、ダントツに狂ってるのもここ。

 

2、変人で駄目になってる人……傾向的には無駄なプライドとかこだわりを引きずりすぎてるときが本当に多いと思う。もしくは怠け者。メンヘラは大体ここ。地頭はいいと思われがちだしそうかもしれないが、はっきり言ってこのタイプが一番バカで愚かしい。3から見下される時も多い。赤木しげるの名言を引用しておこう。「どうしてもっとスカッと生きねえのかな」

 

3、まともで元気な人……「なにも考えないで生きられる強かさと知恵を持ってる奴」か、「単にエネルギッシュ」な人が多い。一番安定感があるが、一番無自覚になりがちでもある。色んな傾向があるため一概には言えないが、このタイプの友達を一人は持ってると助かる(経験論)。逆に2とか4ばっかりだとマジで危ない。

 

4、まともで駄目になってる人……色んな事情があるだろうが、向上心がない人が多い。ヤバいとマルチ商法とかにはまったりする。人間的には一番「屑」感がある。2と比べると拗れてない分マシともいえるし、魅力がないともいえる。俺はこういう人好きだよ。

 

俺の今まで出会った人から見た分類法。今回はここで終わるけど、なにかのプロトタイプに出来そうな気がする……

 

 

終わり。あまりにまとまりがないが、俺個人としては収穫が多かった

常識VS主観のデスマッチ

久しぶり。相変わらずの月2ペースだよ!

 

今回の議題は「理不尽」です! 明るい調子の割に歪んだテーマだが、まあいい、いつものことだ。

まず、理不尽に感じる時はどういうときだろう。これは理不尽だろうか。

「最近髪切ったんだ」「そうなんだ! じゃあ死ね!」

どう考えても理不尽だろう。髪を切る→であるが故に死ぬべきというのは意味が分からない。が、ほんとにそうだろうか。この死ねと言ったB君が、幼少期の頃髪を切るたび親に「あんたは死ぬべきなのよ……!」と言われながら半殺しに遭っていたら「髪を切った奴は死ななければならない」と学習する可能性は大いにあり得る。ぱっと見馬鹿話っぽいが、家庭独自の風習とはいくらでもあるし、(僕が知っているケースだと、親にめんつゆを醤油だと教え込まされていた奴がいる。彼にとってめんつゆとはなんだったんだろう)本人にしか分からないこだわりとは、大なり小なり誰でも持っているだろう。だから他者とは常に理不尽であるか、理解できなくて当然なのだから全く理不尽ではない。ただ、われわれの世界には常識と言葉がある。もちろん常識とは何か、そもそも存在するのか、という問いはある。断言しよう。常識はある。しかし、この世を包括するスケールではない。様々なコミュニティで、様々な常識があり、因習があり、ドグマがある。常識を嫌う人は多いが、集団内で常識がないことはありえない。常識を嫌うものたちが集まったら、新しい常識が作られるだけだ(暴走族とかギャルサーとかそうじゃん)。共有されたルールを持ちたくなければ、孤独になるしかない。だから、本来ルールが嫌いな人は一握りしかいない。「自分の思う常識じゃない」だけで、みんな常識やルールが好きなのだ。「理不尽」を踏まえた上で言うなら、「常識が嫌いな人は自分にとって『理不尽』な常識が嫌い」なだけだ。そうであるから理不尽は客観的なようで主観的なのだ。それは「誰からしても意味が分からない」ことなのではなく「自分からしたら意味が分からない」だけなのだから。だが、他者とは本質的に「他者はどの他者からしても意味が分からない」存在なのだ。だってその人の価値観なんて理解できないだろう。僕が毎週朝マックでマフィンを食べている理由を説明してほしい。僕も出来ない。マフィンを食べる理由は誰にも分からないが、「なんとなく常識的に考えてマフィン食べる理由はこうだろう」的な基準はある。いわゆる「普通に(常識的に)考えて」という奴だ。僕はこういう考えを馬鹿にする気も否定する気もない。「あいつらはなにも考えず常識に流されてる」とのたまう奴がいたとして、じゃあそいつは何を考えているのか? 「常識に流されないで自分で考えて生きる」とはなにか? 常識が外れたもの同士が集まったとして、本当に一切の常識がない集団を作り得るのか? 常識の何が悪いのか? なにも考えないことのなにが悪いのか? これらの問いに答えられるのだろうか。結局は主観なのだ。「俺には常識が悪く見える」という「自分ルール」を、さも真理であるかのように語るだけだ。それでも、間主観的な視点から「当たり前』が生まれ、理不尽が生まれる。まとめよう。我々は極限まで主観的で、誰にも理解されない上、誰も理解できない。だから、理不尽で当然であるのだ。だがこの世には「常識」があり、「自分ルール」がある。そこに沿っていれば理不尽じゃないし、沿っていなければ理不尽だという風に決めつけるのが、人間の「理不尽」なところだし、こうやって決めつける僕も「理不尽」だ。

 だから、僕が前に「いろいろな人がいることを自覚する」のが大事だと言ったのだ。「お前は誰も理解できないし、誰からも理解されないから、自分のルールを他人に当てこんでも意味がない。そもそも自分と同じルールを持っている奴が誰もいなくて、色んなルールがあることを知るべき」ということだ。しかし、人は悲しい生き物だ。別にルールが違っていて当然なのに他者にドン引きされ、「ありえない」と言われる。でも、みんなと同じルールを持っていてもつまらないのも確かだ。それは「常識に流される奴は〜」という意味ではない。純粋にただつまらないという、僕のごく個人的な主観だ。僕の母親が「狂ってない奴はつまらないよ」と言っていたのを思い出す(お前が狂ってるよ!)。そう、狂ってる奴は面白い。尖ったルール、歪んだ見え方は、僕の感覚を刺激し、捉えてけして離さない。アルフレッド•ジャリ「超男性」は、意味がわかなすぎて笑えるし、電撃的だ。スティーブ•ライヒの病的な反復と響きは一生聴いていたくなる魔力がある。だから僕は異端者が好きなのだ。色んなルールがある中の、その極北。あれこそが僕にとっては「希望」だ。人間はここまで出来るということを示してくれる。常識やルールを肯定も否定もしない。ただ、端から異形のルールを持ち込み、困惑させ、苦笑させ、虜にさせてくれる。

 

終わり。久々に文章を書いた……。

首を後ろに向けたとしても

 いい感傷性とはなんだろう。何回も何回も書いて考えたが、やっぱり最初の「幼稚なナルシシズム」が一番正確な気がする。こう書くと物凄い悪口に聞こえるが、僕からすれば最大限の賛美なのである。ナルシシズムとは、極限まで自意識過剰になることだ。自意識に向けすぎて、最終的に訳分からなくなっているところに感傷性の素晴らしさはある。例えば声。自分の声は客観的に認知できない、全く主観的なものだ。そのため、意識的に歌うとかえってつまらない。その際に、ナルシスティックに歌うこと、つまりはどこまでも自分の声に「酔いしれる」ことが(実際は知覚できてすらいないのに!)最も感動的な「歌唱法」足りえる。ビリーコーガンの声を聴いたことがあるだろうか? あんなに「あまあまでクサい」歌い方は無二だ。だがボーカルスタイルを突き詰めるメソッドとして、あれほど有効なものはない。それに、感傷性とはすべからく「あまあま」なのだ(最高級の誉め言葉)。僕がレディオヘッドの後期がそこまで好きになれないのは、段々演奏とトムヨークの声がちゃんとしてくるからだ。ザ・ベンズの、「お前ら自分が何してるのかわかってんのか」と言いたくなる程の自己陶酔が、この上ない美しさへと昇華するあの様が僕は気に入っているのだ。

文学及び(ストーリーのある表現全般)でも、感傷性は良いものだ。自己陶酔、自己性愛は、自己嫌悪の裏返しである。感傷とは、どこか過去を振り返るっている感覚がある。今起きている事柄ではなく、終わったものに対する郷愁に似た感情。セリーヌ「夜の果てへの旅」において、あのラストの途方もないエモーションに、どう説明をつければいいだろう。主人公フェルディナンの、ナルシスティックに過去に憧れつつ、とぼとぼ歩く様。ここには自分への嫌悪感と陶酔が一体となり、過去を見つめる無力な一個人の存在が鮮烈に描かれる。嫌悪と陶酔、どうしようもない現在と、どうすることもできない過去。文学の本質である両義性と矛盾を描出するのが感傷性なのだ。

 だから、悪い感傷性とは意識的であることに他ならない。ナルシシズムに「幼稚な」と付けたのは、自己に向かう自分とはいつだって幼稚だからだ。そりゃそうだろう。自分のことなんてくどくど考えてもなにも解決しないから無駄だ。中学生かよ。しかし表現において「くどくど考える可哀想なあたし」は、とても魅力的に映る。ただ、その条件は「感傷性の本性たる幼稚さが顔を出すまで徹底的に酔いしれる」必要がある。サブカル系の「ちょっと人と変わった僕の日常」みたいな作品がしょうもないのは、感傷的なのがうざいからではなく、その逆だ。「お高く止まっている」からである。本当の感傷はもっともっと安っぽくて甘ったるくてナルシーだ(ほめてるよ!)。だから、「恥ずかしいことを恥ずかしいと思うことが一番恥ずかしい」というのが僕の持論だ。ロックを見てみろ。なんてダサくてあまあまでこっぱずかしくてキメキメなんだ! しかしそうであるからこと、表現の本質をつく。ロックスターは「僕そのもの」と思わせるだけの魔力を持つ。そして、僕も恥を忍んで「恥ずかしく」文章を書く。キメキメのフレーズを入れていく。その恥ずかしい言葉遣いを使うことこそが表現として良いものになると信じ、誰かの胸を打つのだと確信しているのだ。

 

終わり、なんか第一部と全く変わらない気がするぞ。

第二部のテーマが分からねえ

 最近月2更新になってしまい、俺のやる気のなさが伺える。しっかりしよう。

 第一部完! なんて言ってしまったせいで、今まで違うことを言おうと画策しすぎてしまい更新が遅れた感はある。一時期今までの理論を活かしつつ、自分自身のことを主観的に書こうとも思ったのだが、想像以上に病的でかつ理解が一切得られそうにない上、面白くもないという史上最悪の結果になってしまった。新しい方向を募集中ですので、コメント待ってます。

 次の方向性を考えることは確かに難しい。永野護の名作「ファイブスター物語」では「天才は名作のその先を見る!」みたいな(うろ覚え)台詞があったがその通りで、名作とはその方向性を極めつくしたから名作なのであり、天才は、名作の次を名作を作る時点で見ているのだ(名作を作った時点で天才というツッコミは置いといて。)僕の場合名作を作ったわけでは勿論ないが、一旦この方向性を取りやめにするのは確定してしまったので「その先」を見る段階に入ってしまった。しかしこれが難しい。思いつきはする。一つの作品をとりあげてレビューするとか、ちょいエッセイ風味なモノをだらだら書くとか、いくつか考え付くのだがなにかしっくり来ない。元々のスタイルとして抽象的なスタイルが好みなのだ。一般と抽象を考えるほうが性にあっているため、具体論、個別論が手になじまない。かといって抽象論は具体論を書くよりどうしても思考の量が必要になる。具体論とは一般性より特殊性が強いため、それぞれのケースを一つの記事という単位にまとめられるが、抽象論は具定例、いわば特殊ケース(個々の単位はいかなるカテゴリに入っていようと内容が全く同じことはありえないため「特殊」である。レヴィ・ストロースで勉強しました)をかき集めてそれらから共通項、つまりは体系としての本質を「抽象」する必要があるため、時間がかかりやすい。ほら、歴史を体系的に語るよりも、一つの作品の個性、いわば「特殊性」を語ったほうが手間で言うなら楽っちゃ楽でしょ? 

 とまあ話が脱線しまくったが、抽象論が今までの方向性であった以上、また抽象論でいいのか? という疑念もあるわけで。だったら内容を変えちゃえばいいのだ。これまでは、乱暴に言うなら「空虚と幻想と感覚と言語的認知」だった。この4項を全部取っ払ってしまえば抽象的な論でもいいのだ! というわけで、誰かいいアイデアあったら教えてください。すいません最後は他力です。リアル知人でしたらLINE(とかいうクソと等しいツール)に連絡でもいいす。僕は上記のネタで批評を考えているためそのことで頭が一杯です。それ以外に考えるキャパもありません。流石に無責任なので個人的に気になっていることを言おう。ジェンダーの話で書いたが、「女性らしさを排除しようとして、男性らしくなる」のはおかしい。元々の趣味嗜好が一般的に言う「女性的」なファッションであった場合、「女性らしさ」を押し付けられているかとうかの判断はどう決めていいか分からないからだ。ただ、「女性らしい女性」は「女性らしさ」に関する苦悩がないからその女性らしさが押し付けかどうかの判別が自分に出来ないともいえる。だから、「女性らしいスタイルが嫌いな女性」だけが「女性らしさ」を毛嫌いする羽目になる。そして人によっては「女性らしい女性は社会に洗脳されている」との言説も生まれることになる(もちろんそう思わない人も大勢いるだろう)。たしかに、〇〇らしいとは社会の押し付けもある。だが、自分の思うままに振舞ったらそうなってしまっただけの人もいるはずなのだ。そうなると、そもそも重要なのは「らしさ」から外れている人をきにしないようにしましょうね、で済むのだが行き過ぎた論理で「らしくしてる人はなんなの」的な発想も出てきてしまう。少数派の許容、多様性の確保は逆転して「多数派の否定、一般性の絶滅」でもある。ここで言いたいのは、「多数派は自覚的に振舞わない」ということだ。「無自覚の悪意」は罪だという人もいるが僕は反対はしないが疑問でもある。多数派は特に排外されないから、疑念を抱く余地がない。いやそこは抱けよ、と言いたいのかもしれないがはっきりいえば人間の出来はそこまで良くないし、大なり小なり皆気づかずに悪意をぶつけているものだ。いや、この言い方だと傲慢すぎる。そもそも、色んなことに疑念を抱くこと自体が一つの「生きづらさ」ともいえるのだ。無自覚に悪意を振りまき、なにも疑わずに生きるのが一番生きやすいのもたしかにそうだろう(映画「ヒックとドラゴン」はそこを描きつつ、多数派を否定しなかったのは凄い)。「多数派の無自覚」を僕はどうしても否定する気になれない。当然だが自覚できるきっかけはいくらでもある。でも、問題なく順応できている世界で自覚する必要も理由もないのだ。人によっては迷惑なのかもしれないが、はっきり言うなら多数派が少数派を理解する必要性はあまりない。僕も人間関係で大事なのは「いろんな人がいる」ことだと言ったが、そういうのは僕が少数派なのと少なからず関係しているだろう。

 ふと書いてみたが、面白いテーマだな。「多数派にとって、世界は常に異常なし」なんだから多様性を認めたくないのではなく認める必要がない、というのは確かにそうだ。じゃあなんの意見もなかったらこれで行きますんで、待ってますよ!

 

終わり。ファミマの肉まん90円セールが最高すぎて2日で5個食べてしまった。

第一部完!

散々書いてきた、無意味と空虚の問題。生に意味がなく、全ての行動は客観的な価値を持たない。極限の空虚こそ人生であり、その中で人は主観的に価値をつけていく。例えそれが幻想であっても、自分の目には「そう見える」。なら、それでいい。そうとしか見えないなら、自分の目には真実の美しさとしか映らないなら、幻想でも構わない。

 すっげえ適当な要約である。これを読めば一年近く続けたブログの全容が掴めます(内容が薄すぎでは?)。今回潮らしく要約したのは、じゃあなにを俺は言いたいのか? ということをふと考えたからだ。ざっくばらんながらもそれっぽく語り続け、結局のところ?というわけだ。形式上散発的に記事を書いてきたため、思考のまとまりに欠いている(ブログというのは散文的なものであるのだから本来気にする必要もないのだが)のがむかつくのだ。小休止であり、縮約であり、結びであり、新たな問いの始まりである。

 上記の要約の通り、客観的に見た世界は空っぽだ。当然である。目の前にあるものの価値は自分がつける。コップ一つとっても、「コップを意味付ける人物」がいなければコップと名指せないし、容器という機能もないし、ただ鎮座するのみなのだ。なんの情報を持たない空っぽのXでしかない。我々がいることでXはコップになり、僕はそれにコーラを注ぐ。空っぽなのはものだけでなく行動もだ。さりげない気遣いも、絶え間ない共感も、嫉妬も、暴力も、なんの意味をなさない。ただ行われただけだ。人が滅びようと、客観的な世界ではなにも影響ない。問題だと思う主体がいないのだから。人が孤独を嫌うのは、自分を価値付けてくれなくなるからだ。自分で自分に価値をつけることもできるが、あまりに難しい。

 空っぽな世界だから、人は価値をつける。これは嫌いで、これは好き。やりたくないことと、したいこと。それを決める基準は世界が空っぽである以上、完全に自分本位だ。そうであるから、コミュニケーションは難しい。他者の価値観と自分の価値観を擦り合わせなければいけない。他者に合わせすぎると楽しくない。自分の価値観で話すと理解されない上、相手からするとその話をする相手が自分である必要を感じない。自分の持っている価値観は、絶対に理解されない。なぜなら、自分で勝手に決めた価値だから。だけど、人間の持ち物とはそれしかないのだ。自分で決めた好きと嫌いをなくしたら、それこそ空っぽでしかないから。幻想だとしても、幻想だけが人を前に進ませるものだから。

 ここまで書いて僕はふと立ち止まる。じゃあなにがあるのか? 無意味で、好きなものも幻想である。虚無と見せかけで打ち立てられた現実の中、最後に残るのは「感じる」ということだろう。如何に空虚だろうと、彩るものが幻想だとしても、我々は「感じる」のだ。楽しいと思い、悲しいと思い、素晴らしいと思うとか、そんなことではない。言葉にできない意識体験があるだろう。言葉で伝えることなど到底できない豊かな情緒的な刺激があるだろう。なにもなくても、やっぱり楽しいものは良く感じるのだし、つまらないものは悪く感じるだろう。人はそうやって価値を決めていく。作り上げたものが幻想でも、感覚の中ではやはりリアルだ。「そう感じる」ことだけはどこまでいっても真実なのだから。価値は幻想でも、エモーションは人に伝えられないだけでたしかにある。世界などつまらない。なんの価値もないから。だが自分は面白い。こんなに豊かに「感じる」のだから! 人間は人間であることをもっと誇っていい。「溢れんばかりの受け皿」なのだから。「感じることができる」ことこそ、人間唯一の持ち物だ。より文学的に言うなら「感じざるを得ない自分」こそ、人間が本当に大事にすべきものだ。だから僕は利己的であることを肯定する。「感じること」以外に、自分にとって正しいことなどありえないのだから。感覚に全てを捧げることが人生の本質であり、感覚とは現在にしかない以上切れ目のない刹那の連続なのであり、ゆえに刹那に対して僕らは全身全霊で望む。いくらだって途方にくれ、生きることの空虚が頭をよぎる。だが、生の中にしか感覚は存在しない。人が自殺してはいけないのは、感覚を失うからだ。

 豊かの感覚のために、空虚な生を進んでいく。人生の持つ最大の矛盾は、ここだ。僕は感覚を賛美するから、生き続けていたい。どれほど苦痛になろうと、全く違って全く素晴らしいエモーションを見つけたい。そのために一生を費やしていきたい。いや、一生では足りない。本当は無限に生きたい。無際限に供給される感覚をいつまでも楽しみたい。僕は、人間で良かったと心から思う。だから、あなたにも自由に生きてほしいと願うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第一部完! 一つの幕が終わりましたよ!

今まで読んでくれた人はありがとう。ちょっとだけ配慮していつもよりスペースを空けてみた。