そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

人生は常に一人だが、一人の力では生きていないぞ

 最近、お別れラッシュである。この十日間で十人は超えている。友達が多い人からすれば十人越えといってもなんだそんな程度、という感じかもしれないが僕からすれば凄い数だ。毎回特別な別れ方をしている訳でも別にないのだが、変にエネルギーを使う。もう二十人以上と別れの言葉を交わしてきたが、ふと自分にこんなに別れを告げ「られる」人がいることに驚いた。こんなにいたのか。僕に対して「また会おう」「長期休みになったら戻って来い」「お前とはしばらくあえなくなるな」みたいなことを言ってくれる人がこんなにいたということに本当に驚いた。僕はそのとき幸せであるとか感謝の言葉よりも真っ先に「良かった」、と思えた。僕にとって最も楽しいことは友達といるときではない。友達も読んでる中で言うのもなんだが、断言する。歩いて考えること、音楽を聴くこと、文章を読み、書くこと。これが最上の楽しみであり、これ以外は何であろうとワンランク以上落ちる。やっぱり僕が救われるときは、常に自分自身によってだ。自らの問題を解決するのは自分でありたい。そうすることが、自分の人生に対して「責任」をもつことなのだから。そのための行為が、聴いたり読んだり歩いたり書いたりということだ。でも、いろんな人から別れの言葉をもらえたのは「良かった」。それは自分の人生に価値があったとか、そんなどうでもいいことではない(そういうのは老いぼれがすることなのだ)。こいつがいることが「良い」からだ。僕は友達には恵まれたと思う。適度に人間味がなく、狂ってて、面白い奴が全員の特徴だ。いっぱいおごってもらったし。そいつが友達で良かったかどうかはなんだっていい。ただ、こいつがこの世にいたことは「良かった」と思う。そいつの存在はこの世界にある。離れてても一緒だよ☆的な論調ではなく、いやむしろ離れても論理的にはそれはそれで良く(いいのかよ)、そいつが、人間味がなく、狂っててるからこそ面白い奴がいること自体が、「良い」ことなのだ。惰性に従属せず、苦悩し、間違えまくる奴を発見できたことが嬉しく、僕の存在の糧となり続ける。

 人間は常にそうだ。これだけ孤独でありながら、どこかで「存在」に支えられる。誰かと一緒にいること以前に、気に入った奴が「生きていること」が喜ばしいことなのだ。思い出とは大事にする意味がない。なぜなら、勝手に思い出に支えられ、「救われる」から。別れは辛いものだが、そうであっても「存在」を「発見」できたことが一つの収穫だ。だから「別れは人を強くする」は間違いである。出会ったときに手に入れ、別れるときに残ったものが「強くする」のであって、別れという行為自体が人を強くしたりしない。僕たちは出会って別れる。それがループするのではなく、別れても「存在」はあり続け、あなたの生を変えていく。そう、別れを惜しむ場合ではないのだ。「見つけられた」ことを喜ぶべきだ。そしてその喜びを再認識したくて、僕たちはもう一度会う。

 

終わりー。別れることをいちいち悲しむのが理解できないのでこういうのを書いてみた。最後の一行かっこつけてるけどいわば只の同窓会だよね。

まだ生きてるってことは救われてるってことだよ

「救い」はよく小説などでテーマにされるが、つまるところ救いとはなんだろう? よくわからないからどこか神秘的な響きを帯びるのだと思うが、今回は救いの内実について考えるときだ。
友達に救われたいと願ってるやつは何人かいる。(前回の記事と合わせるとヤバイ友達しかいないみたいだな。外れてもないけど)救われたいと願っているから、彼らは「救われていない」ことになる。なぜ「救われていない」のか?なにをもってそう言うのか? それは本人も明瞭には分からないのだろう。
僕が思うに、人は既に救われている。仏陀みたいな言い分だが。そもそも、人はどれほど絶望的でも「救われうる」のだ。なぜなら、未来のことは分からないのだから。どれほど堕落しても、救われる可能性は存続する。なにをもって救いとするかは未だよくわからないが、常に「救われうる」こと以上に具体的な「救い」があるだろうか? 生は常に不確定だ。だから生きることと救われることは等しい。人生の中を生き続けるとき、あなたは救われ続けている。どこまで転落しても上昇する可能性が原理的に残り続ける。人生はなにが起こるか分からないから不安にもなるし、それが楽しみでもある。だがそれ以上に、分からないから僕たちは救われている。そう、駄目でも「まだ生きられる」のだ。
しかし、僕が本当に言いたいのは救われているから楽なわけではないことだ。「まだ生きられる」ということはどれほど堕落していても「生かされる」ということだ。「人生なにが起きるかわからないんだから生きてみたら」的な説教は正しいが(その代わり果てしなくうざい)、この論理は生きること自体が強制させられる。救われているから、生きねばならない。人間は終わることが許されない存在なのだ。それは、どこまで追い詰められても獣は戦うことを諦めないかのような、悲壮な姿だ。
「救い」とは、瞬間的な多幸感ではなありえない。膨大な幸せを手にしたところで、そのあとも人生は続くのだからすぐに消えてしまう。われわれは出来事を重ね続ける。どんなショッキングな出来事のあとも、違う出来事がすぐ到来する。だから、哲学者は考える。論理によって恒久的な幸福を掴もうとする。それは自らの状況や環境が全てである現実の前ではあまりに無意味で、儚い。論理がいかに厳密で感動的でも、朝の満員電車が快適になったりはしない。僕も生きることについて考えるが、なぜ考えるのか。恐らくいや間違いなく、生きているだけで救われているような、嫌気のさす現実の中にある「美しさ」に気づきたいからなのだ。

終了。最近変に感動的だ。けものフレンズの影響だろうか。

こんな人間じゃなかったら、どんな人間になればいいんだ

昔から僕の友達は変な奴が多い。最近わかったことは、やたら幸せについて考えている奴もまた多いことだ。別にその二点を結びつけようという気はない。思うのは、幸せを求める理由だ。
当然ながら、幸せというのはあまりに漠然とした状態であり、具体性が見られない。だから、彼ら幸せを求める人は自らのうちに不足を感じている。なんというか、ここが面白い。友人を見るとそれなりに問題設定はできている。今自分を苦しめる壁はなにか理解している。だが苦しみをなくしても自分が幸せになるとは思っていないのだ。あまりに不確かな空漠。不満をかたずけるだけでは決して収まらない空虚。それは僕には理解しがたい。僕が考えるのはより良く生きるための姿勢だ。より良いとは簡単だ。「さらに良い感覚」がもたらされることに他ならない。喜びや楽しさに満ちることだ。だが、「幸せになる」とはそれでは満ち足りないのだろう。ただ理解できない僕にはなんなのか判断しかねる。ある種の強烈な依存や信仰による「救い」なのか、内省を繰り返した先の「気づき」か、最も純粋な「死」か。このどれでもないのかもしれない。ただわかるのは、苦しみを取り除いた先に幸せがないのは確かだろう。彼らの話を聞いていると、もっと存在の根本に根差した「心性」が藪の中で獲物を探す獣のように、幸せには息づいている。ある人は家族の問題と人間の矛盾を語り、異性との平和な家庭を求めた。ある人は依存と孤独に耽溺し、執拗に嫉妬されることを求めた。ある人は打算で生きてしまう自分に虚しさを感じていたが、女がそれを救い幸せになった。ある人は、偉大なものの振る舞いについて語ると同時に素朴な恋愛の素晴らしさを説いた。ある人は自分にルールを課し続け、自分自身に丁寧に鎖を巻き、「救われたい」と願った。ある人は己の不運を呪い、来世を待ち焦がれた。ある人は家族にがんじがらめにされ、ひとりで生きるのも許されず、達観とも諦観ともつかぬことになった。ある人は…… またある人は…… ある人は……
もしかしたら、幸せになりたい人を一括りに出来ないのかもしれない。仮になにか共通することを抜き出すならやはり「他者」だ。自分以外を求め、求められ、拒絶し、拒絶され、後にはなにも残らない。他者との干渉によって害されるが、それでも他者を切り捨てられない。他者が喜びをもたらしても、結局はあまりに違いすぎる「他人」である。なんでこうも上手くいかないのかと思いながら、被害と加害の区別もつかずに延々と閉口する。悪いことをするつもりがなくても悪いことに「なり」、最善を尽くしても「不快」と捕られる。しかし、それでもやはり、一人は寂しい。それだけは消すことが出来ない。切羽詰まると誰でもいいから誰かを探す。
僕たちは、悩む。よりよくなるために悩む。だが悩みは皆違い、自分の悩みは違うように解釈される。でも悩まなければならないし、疑わなければならない。寂しさの中で、ずっと悩まなければならない。今悩み続けることで、そのときだけ僕たちは救われているのだから。

終わり。すげえ詩的だ。たまにはありかなあ。「ある人は」のところは友達のことです。協力感謝。

君の名は対象a

去年の五、六月にとある女性に告白したことがあった(しかも彼氏が既にいた)。なんか、恐ろしく今までらしくない出だしになってしまったが、今回は恋愛のはなしのためこう書いてみた(恥ずかしからずに書く少女漫画はつまらないという至言もあるしね)。
恋愛についてラカンは「女は対象aである」と述べている。ラカンは嫌いだが、この意見は正しい。理由が極めて主観的で、他から見たらその女を好きな理由が意味わからないという意味では、まさしくそうだ。しかし、それ以上に女が(男が)対象aである理由は「本当は代替が効く」からじゃないか。結局、好きな奴というのは「代替不能に見える」のであって本当に代わりがないわけじゃない。住んでる場所が違ったら違う人が気になったりするだろうし、むしろもっといい人がいる可能性も多分にある(世界は広いのだから)。ただ、これは論理でしかない。人生の只中ではやはり代りがいない。「こいつよりもいい奴がいそう」と思って流浪の旅に出る奴は見たことがない。人生は常にそうだ。代替が出来ないもの、補填が効かないものは一切ない。愛情か友情か実益かに関わらず、「こいつがいなければ絶対に無理」は結局そいつがいる世界に生きてるからで、元々「ない」世界だとしたら問題がない。
君の名は。」の面白さはここにあるのかもしれない。「ないことになった」世界で、二人が再び出会う。互いに記憶を失ったのだから、もう瀧にとっても三葉にとっても相手はなんの興味のないカスに成り下がる。だが、それでもなぜか彼らは「こいつがいなければ絶対に無理」だと確信して、名前(という本来的には無意味な記号)を尋ねる。東浩紀はこの作品を「相手をかけがえのないものだと思い込む過程」だと評したが、それはある意味では正しい。だが、やはりそれは論理だ。実際に彼らが会った日々はなくなったが、「君の名は。」は映画なのだ。視聴者は、瀧と三葉のストーリーを「目撃」している。だから我々自体が瀧と三葉の記憶媒体なのだ。そうでなくては、ラストの台詞が説得力を持たない。瀧と三葉は、時間と空間を越えて出会う。そして時間と空間の差を埋めるには、互いを忘れることが代償となる。対象aではなくなるのだ。だが、ラストで初対面のはずの彼らは相手が対象aだとしか思えなくなっている。それは運命といえるものだ。その運命は前の世界での彼らの想いが作り上げたものだが、この運命は所詮次の世界で消える。だが、それを我々は「目撃」し、「受託」している。そして、ラストシーンで「目撃した運命」を二人に「返却」するのだ。だからあの作品には奇妙な共感性がある。瀧と三葉は運命性だけで名前を聞く。そのとき、運命の女神は我々なのだ。

以上。「君の名は。」のレビューをするとは全く思わなかった。恋愛感情と対象aについて語ったらこうなってしまった。

常識的に考えて常識はおかしい

ずいぶんサボってしまった。猛省しよう。いや、色々心労がね……あと作品かいてたしね……

内定が決まった。決まったぞ! いや、たぶん一番意外に思っているのは僕だ。実際決まったときも喜びよりかは「決まんのかよ……」とギャグ漫画みたいな反応で終わってしまった。昨日で卒業式も終わり(出なかったけど)、あとは働くのみだ。
僕は働くことを選んだ訳だが、実際働かないことを選択肢に入れていたのも事実だ。いやいいから働けよと思うかも知れないが、「そりゃ働くでしょ」みたいな態度はいいのだろうか? 僕がここで言いたいのは働くことの必要性ではなく、人生の柔軟性だ。働くことが常識であること、言い換えれば人間は働くとしか「考えられない」のは、貧しい。なぜなら働いていない奴はこの世にいるのである。だったら案外働かなくてもいい可能性も大いにある。常にあらゆる事態は考慮にいれるべきなのだ。「そうしているからそうする」のは、たんなる服従に過ぎない。なんで、皆「そうしているか」は疑問に思わなければならない。この態度は、僕みたいに当たり前のことが出来ない奴の方が気づきやすい。当たり前のことを当たり前に出来る奴はそれでやっていけてしまうから、特に疑問を感じる瞬間がない(だから、批評家は生活能力や実務能力がない奴ばかりなのだ。使えねえ)。まあ、当たり前に出来る奴はそれはそれで幸せだからいいのだが。マナーは象徴的な常識だ。フォークやナイフをとる順番がなんであろうとどうだっていい。だが、そういう決まりだから間違えると顰蹙を買う(といってもマナーくらいは僕もある程度守る。さすがに不便が過ぎるし、そんなに労力を使わないし)。
常識はあなたを試す。適合と不適合にきれいに振り分ける。そこに立ち向かうかどうかは好きにすればいい。ただ、常識は常にあなたを食い物にしようとする。だから疑いをもって生きる必要があるのであり、批評家というある種の社会的クズは社会の構造を解き明かそうとする。

終わり。まだ引っ越し先が決まっていません。さすがにまずいよね。

けものフレンズを見ると凄い「喜び」をかんじるんだけど

話題になってるから、という理由でけものフレンズを見たら異様に面白かった。ゲームが終了した後に放映したら大受けしたのはカブトボーグを想起させる(狂気含め)。まああちらはカルト的な人気に留まっているのだが。
このアニメは多様な解釈を生んでいる。終末後世界ものとして、癒し系日常アニメとして、3Dアニメの新しい手法として、人間観を問いただす、哲学的な問いとして。僕はどちらかと言えば日常アニメ的感じで楽しんでいる。ただ、他の解釈の視点と合わせ異様ではある。
日常系アニメを「息抜き」的に見る人はある程度いるようだが、それはシリアスでなく、あまり人物の心情を考える必要がないため、俗に言う「頭を空っぽ」にして楽しめるからだろう(ちなみに「息抜き」的表現としてだったら音楽が一番優れているような気もする。音は具体的な対象を描けないため全くの無意味だ。快楽的だし)。しばしば日常系アニメでは社会を描かないことが指摘される。はっきりいっておかしいことだ。しかし、けものフレンズはもっとおかしい。だって「文明」を描かないのだから。そしてフレンズたちは否定をしない。それは日常系アニメもそうだ。だが、けものフレンズではフレンズたちによってある種の共同作業が行われる。かばんちゃんが提案し、フレンズが同意して一つの文明を作るという作業。それはある意味では社会的な行為である。つまり、けものフレンズは社会的な要素を描きつつ否定しないのだ。そうなると、否定しないことの意味合いはより強まる。こうして見ていくと、けものフレンズの世界はユートピアそのものだ。日常系アニメが作ったユートピアよりも更に先鋭化し、徹底された世界平和がある。
keyのゲーム「CLANNAD」について、「今のオタクは昔の世代のように結婚して働いて子供を作ることが常識でなくなったから響く」のだと前にどっかで見たことがあるが、けものフレンズは「昔のように社会が成長せず、何かのために頑張ることの幸福を享受できなくなった」から響くのではないのだろうか。「CLANNADが」もう当たり前ではない「家族」を擬似的に再生産しているのだとしたら、けものフレンズはなんと「文明社会」を「平和なものとして作り変えた上」で、「再生産」しようとしているのだ!(書いてて思うけどほんとにヤベえな)今度こそ間違えないで社会を作る。我々は終末後の世界だと感じてはいる。だから、素直に生きる彼女らを応援したくなる。僕たちが駄目だった「一週目」の、同じ轍を踏んで欲しくないから。その上で、一個の文明をみんなで幸せに築く彼女らを見て圧倒的な「喜び」を覚える。それにはプリミティブな風景であるからより一層感動する。加えて、低品質な3Dモデルは妙に純朴に見え、健気に彼女らの幸福を写し取る。
 いや、ここまで書いて思うがちょっと妄想的過ぎる気もする。だとしても、なんか「喜び」は感じるんだよなあ…… アフリカンなBGMで、自然の風景の中、安っぽい3D空間でめい一杯楽しそうに作業するフレンズを見てると、微笑ましいというよりも、なにか感動的なものがある。自分の動物としての機能を活かして頑張るフレンズは、癒されると同時にもっと強い情動も湧き上がる。この「喜び」を考えたら上述の論理になったんだけど、どうなんだろうなあ……

以上。一番気になるのは、フレンズっていう呼称だよね。誰がなぜ「フレンズ」と名付けたのか。そして、恐らく名付けた人はもういない。フレンズは本当に「友達」になりたかった人と友達になれないまま、ジャパリパークを暢気に暮らしている。この辺は漫画とゲームで語られてるかもしれないけどね。

オタクカルチャーから美少女を抜いて考えたら、なにが残るんでしょうね

「オタク文化はオタクの性的欲望が根付いている」との見解は良く見るし、僕もある程度は同意する。そうでなければあんなに少女をかわいく見せる必要がない。もちろん純文学でも美少女はいるが、ああも徹底的にフェティッシュではない。

だが、他方でこの思想が厄介なミームでもある。このことが前提として立ちふさがりすぎて、それ以外への言及の乏しさが目に付くのだ。オタク文化批評が「オタクの欲望を描くもの」という批評観に囚われすぎている節があるようにも思う。もちろん違うものもあるが、そういう文脈から社会とオタクを接続するしょうもない理論が出来上がってしまうのはなんともやるせない。東浩紀は先進性と鮮やかな論理運びは素晴らしいが、オタク文化を「メタ的」で「欲望に満ちた」、「社会へのカウンター」としての存在として確立させすぎたことの罪は決して軽くない(読み手の問題も多分に含む)。

以上が問題の一つ目。そしてオタクの欲望=オタク文化から解き放ち、表現としての機能、躍動感を語るフィールドが作られ、さあ語ろうというとき、理論としてなにに依拠するかが次の問題だ。今は漫画やアニメなら映画、イラストなら美術、ライトノベルなら物語論が引用されがちだが、当然ながら漫画やアニメは映画ではなく、俗にいう「萌え絵」は絵画ではない。特有な理論があまりにも少ないように思う。伊藤剛テヅカ・イズ・デッド」は名著だが、本人が言うように表現論におけるフィールドを提示することがメインで、漫画そのものへの理論構築ではなかった(フレームの非確定性は興味深いが、理論としては応用が利かない気もする)。また、彼自身但し書きをしていたものの、やはり他表現からの理論の引用が多すぎることは否めない。一体なにが特有なのか。映像として、美術として、文章として、オタク文化にしかないものはなんなのだろう。大塚英志のいうところの「リアリズム」か? だけどリアリズムがまるっと変わったら表現形式もまた変動するはずだ。ある小説とライトノベル物語論的には全くの同一で設定やキャラクターの関係も似通っていたとしよう。そのときライトノベルが「漫画・アニメ的」であることはどう作用する? それは答えることが出来ない(このような問いを立てられる時点で、大塚の仕事が偉大であることを実感する)。

 サブカルチャーとは本当に不思議だ。映画や純文学とはあんなに「違う」のに、どう「違う」のかが想像以上に説明しづらい。特性を並べ立てるだけなら簡単だ。だが、それだけではなにかが足りない気もする。アニメを実写にするとありえないほど滑稽になる。ちょっと前にリメイクしたパトレイバーがそうだったらしいが、それは面白いことだ。それは、アニメにしか出来ない「台詞回し」があることを意味するのだから。あまりに当たり前だが、文学に出来なくてライトノベルに出来る「言い回し」がある。凄いことだ。そこでは新しい「虚構」が立ち現れていることになるのだから。そう考えると、やはりリアリズムが出来たこと自体がオタク文化の革新性なのかもしれない。その上でわれわれが考えるべきことは、リアリズムによってもたらされた未踏の表現領域を、メタレベルではなくあくまで「素材の躍動」(言語の躍動、音の躍動、色彩と線の躍動……)である表現として還元する必要があるのだ。

 

おしまい。やっぱり大塚英志はえらい!