そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

今年の抱負は、自分の中で一番素晴らしい「他人の抱負」です!

次回は未定と言ったな? それは今だ!

最近小説が一本書けて、次のアイデアがないためブログをせっせと更新することにしよう。

 

明けましておめでとうございます、新年ですね。今年の抱負は「特にない」です! 以上! いや思うんだが抱負っているのか? 「今年の抱負は『乾坤一擲』です!」って言った奴は師走まで覚えているのか? 絶対適当だろ。

 とはいえ、目標とは難しい。確かに、今ここで「今年は長編小説を三本書いて、作曲者としてのスキルをつけて、本を100冊、アルバムを100枚聴いて……」と言うことは出来るし有意義なのだが、違う気もする。というか、上の目標は単なる物量なので、「1日1000字書いて、作曲の勉強を一時間して、読書も一時間、週二枚アルバム聴けば目標達成だな」って逆算することになるが、そしたら一年スパンではなく1日のペース設定の話になるので、本末転倒感が漂う。ペースを維持できているかの判断基準として一年の目標が作られることになるからだ。

 そもそも目標とは「納期先決」と「行為先決」がある。「今年の目標」は典型的な納期先決である。期間を決めて、その期間内になにする? ということだ。一方行為先決は、例えば「あいつを殺したい」から始まり、そこから調査一週間、方法決定一週間、事前準備一週間、実行、という風にやりたいことを前提に期間を決める。で、僕が言いたいのは納期先決は基本的に意味が分からないということだ。

 計画とは最終的なゴールがある。ゴールにも二種類あって「納期的ゴール」と「行為的ゴール」がある。「月末の締切まで原稿を書き上げる」だと「月末」が「納期的ゴール」に該当し、「原稿を書き上げる」のが「行為的ゴール」に値する。このケースだと「納期的ゴール」の達成には「行為的ゴール」が不可欠(締切を守った=原稿を書き上げた)だが、逆に「行為的ゴール」の達成に「納期的ゴール」は不要であるため(締切は延ばせない訳ではない)、「行為的ゴール」は「納期的ゴール」より優位に位置する。よって、「納期先決」は合理性に欠ける。「行為」なしの「納期」は原則ありえないからだ。ただ、無意味ではない。具体的にビジョンが打ち立てられないときに、ひとまず区切りをつけるのはかなり効果的なのは確かだ。「素晴らしい次善策」という形容がしっくりくる。「計画的に行動するための手段」として「納期先決」は役に立たないが、「自分のやる気にメリハリをつける」という視点では有意義である(こういう考え方はすごい重要で、論理的に役に立たなくても違った形で効果的なことは数多い。例えば、精神の健康のためにスピリチュアリティは重要であることが分かっている。神のために生きるのは全く内容のないスタイルだが、強力な原動力となり強靭さを養う。人間は論理で生きてはいない。脳の生理的な作用に従って生きている)。

 ここまで考えてみると、やっぱり「今年の抱負は『乾坤一擲』です!」って凄いな! 頭が空っぽな感じがする(先述した通り、悪い意味ではない) 。という訳で、「そもそものそもそも」の今年の抱負はやっぱり「特になし」です! ちなみに、僕個人には目標ではないが昨日からやろうとしていることがある。日記を毎日つけることだ。 前にも書いたが、僕の母親は小学5年から今まで毎日日記をつけている狂人で、それを真似てみようと思った。今僕は26だが、還暦になっても今の母親には継続年数で及ばない。還暦の自分など、全く想像がつかない。そこまで書き続けることも出来るか出来ないかというより、やはり想像も付かない。そして、そういう事実を母親は何も感じていない。あの人は自分の皺が増えたことと芸能人が整形したことはめちゃくちゃ興奮して話すが、僕が日記付けてること誉めても「え、そう?」位のことしか言わない(やはり狂っている)。多分あの人にとっては、日常の一部となりすぎてご飯を食べることと全く変わらないんだろう。「毎日ご飯食べてて凄いね!」って僕が言ってきた位にしか捕らえていないんだろう。昨日そのことの凄まじさを痛感していたら、僕もああなりたいと思ったのだ。かっこよくない? 30年以上書き続けていることに対して、はったりなしで「え、そう」って返せるの。ルールは母親を真似することにした。「1日1行でも全く問題ない」「その日書かなくても、後日その日の分を書いたらオーケーとする」緩いといえば緩いルールだが、逆に考えた方がいいと思う。「0行0文字ではない」のだ。僕も多少は文章を書くから分かるが、やる気がないのに机に向かって書くのは本当にきつい。やりたくない。個人的には、「0文字ではなく10文字書く」のは「1000字書く予定だったが頑張って5000字書いた」より遥かに凄い。何より、僕の母親はそのルールが緩いかどうかなんて全く考えていない。5年くらい前に「5日分くらい1日1行まとめて書くときもあるよ」と何気なく言っていたときがあった。それが駄目とも、いいとも思ってないようだった。一方僕は「そんなもんなんだ」と感じていたが、そんなもんではない。その時点でもう差が出ているのだ。怠け続けることを許しながら30年続ける人と意識を高く持ってなにもしない人が合わせて二人いた。僕は凡庸だが、あのときは凡庸ですらなかった、凡愚だった。

 母親は小学五年生で日記をつけ始めたとき何年続けようとは全く思ってなかったらしい。何気なく続けて、何気なく今に至るだけだ。本当に悔しいが、僕にそんな才能は一切ない。毎日書くことを決意しなければやらないし、やる気がない日は死ぬほど奮起しなければ書けないだろう。弱気な話だが、自分は才能がないとよく思う。客観的に見て才能なんて分からないことは分かっているが、それでも主観的には感じざるをえないことがある。友達や家族の、全く意識しないで凄まじい努力している話を本人から「何気なく」聞くのは、身内として誇らしいが耐え難い。到底及ばない。頑張らなければ頑張れないし、魔が差したらなにもしなくなる。かといって諦めもつかない。あそこまで行けないのは分かってるが、全部放り投げて自由に遊ぶことも敵わない。だから真似をする。模倣に終始する。僕は小説でも批評でもなんでも、模倣しか出来ない。素晴らしい作品を切り貼りした、寄せ集めしたものしか作れない。作家性もくそもない。そうだ、毎日日記をつけよう! それはそれで意味があるとは理論として分かってはいるが、凡才であることはひしひしと感じる。ただ、少しでもましにはなりたい。「より良い寄せ集め」を作りたい。そして、僕の思いを掬い上げるのはいつだってピカソだ。この発言を引用して終わろう。『他人を模写するのは必要なことである。しかし、自分を模写するのは哀れなものだ。』

 

 

 

 

終わり! 僕が還暦まで書き続けて、「よく毎日書いたね!」って言われたら絶対「凄くね!?」って返す自信があるけどな……

天気の話でもしようか、それとも政治の話でもしようか?

久しぶりだ……

ブログというものには全く手を着けなくなってしまった。復活する気はないが、気まぐれに書くのも悪くない。
 みなさま! どうしているだろうか。敵なき戦いに明け暮れているのか、何もないところで埋没しているのか、屹立した砂城をただ眺めているのか。まあ、こんな暗いことは考えてないといいが。僕はというと、自分の小説を書いていたのでブログが停滞していた。両立することは可能だろうが、そこまで努力家ではない。なぜか作品を書けるようになり、その結果ブログはストップしてしまった。書けるようになった理由はわからない。突然書くようになり、以降量は多くないが一週間以上書かないことはなくなった。
 ブログを書いていた時と比べて自分がどうなったのかというと、まず思想性がほぼなくなった。昔は「人生とは…… 表現とは……」と歩きながらぶつぶつ呟くような妄人だったのだが、今は「いい天気だねえ」とか思いながら適当に、能天気に歩いている。もう考えることはなくなった。かつて「考えない人は思い悩むこともないから最強」と書いたことがあるが、おおよそなれた気がする。思考とは偉大なのだが、僕には偉大過ぎたようだ。身に余る得物であったし、使いこなせる気がしなかったからやめた。僕より才能も能力もある人が存分にやってくれ。そうなると、残されたものはなにか。二つある。「俯瞰的虚無」と「身体性」だ。
 結局、未だに虚無である(残念ながら……)。ただ、もう虚無であることは何も悲しくない。「こいつ虚無だなー」と眺めているだけだ。そういう意味では、虚無であることが悲しいうちはそんな虚無ってるわけではないのかもしれない。なぜなら、自らの虚無を感じ取る豊かな心があるから。思考放棄の結果、なにも思うことがないので虚無性は増したが、逆に観測することにも執着がないから単に事実としてしか捉えられなくなった。ただこれは強みにもなって、多分これのおかげで行動力は増した。虚無感の邪魔立てが入らない分スピード感はアップした。もう「ぐぐぐ……」と歯を食いしばりながら神経質なピアノを聴くライフスタイルからは卒業だ。かといって、感傷性は今も大好きだ。僕にとって感傷とは、フェティシズムでもなければ極度に主観的なものでもない。単に「優れた情緒」なのだ。感傷性にはフェチも主観も不可欠だ。だが、同程度に「客観的に良い感覚」でもある。クラシックピアニストのヴァレリー・アシェナシェフは「メランコリーは最も優れた感情である」と言った。その通りだ! メランコリることの(凄い動詞だ)、何が悪いのか。存分に浸ればよい。「もっと感傷性を!」これがスローガンだ。俯瞰性から来る、行動優先と感傷性への躊躇いない賛美。これらは明確に収穫だ。
 あとは、妙に肉体性を重視するようになった。ロックを聞かなくなり、黒人音楽に傾倒している。前述したとおり、散歩は考えるツールではなく身体を躍動させる行為と化した。思索がなくなったこの身に残るは、この身のみ。それは単純に愉快だ。外気の与える皮膚感覚は気持ちよく、リズムに合わせて体を動かしていれば満足。身体的な躍動とは、純粋な喜びを提供する、一方的にプラスな性質を持つ。そのせいで本当に適当な人間になってしまった。「明日の予定は?」と聞かれて「じゃんけん大会」と答えたり、「好きな楽器は」と言われ「マラカス」と返すなど、これでは何が真実かわからない。頭のねじが数本外れてしまった。ひたすらな愉快と、恐るべき適当さ。身体性は素晴らしい。
 こうしてみると、全体的には良くなった…… とは言えない。なぜなら、そもそも良い悪いの基準が分からないから。適当になりすぎて、もうなにが良いことなのかも忘れてしまった。昔は「文学こそ使命」と心に刻んでいたが、かつてより習慣づけて書いてる今のほうが書いている意義が見出せない。皮肉なものだ。一般的には「努力」を定量的に行っている生活と言っていいのかもしれないが、その「努力」が「良いこと」とはちっとも思えない。なりたい自分に近づくにつれ、なりたいものがなくなっていく。アキレスと亀さながら。だから今の僕を、文学的に言い表すなら「空っぽの肉体に突き抜ける一陣の感傷性」なのだろう。あるのは、我が身と愛すべき感傷性だけ。良いのか悪いのかは、やはり分からない。分かることは、ためらってはいけないということだ。ここまで書いて気付かされるのは、僕がいかに感傷性を愛しているかだ。前にも書いたが、「しょうもない感傷性」とは、「ためらいのある感傷性」だ。気取ってはいけない。全ての傷を詳らかにしなくては。やりすぎ結構、青臭さ万歳。「素晴らしい感傷性」とは、「やりすぎた感傷性」なのだから。ビートルズ「レット・イット・ビー」は冷静に聴く分にはポールの歌い方はやりすぎだしダサすぎるのだが、それでいいのだ。それくらいで丁度いいし、ゆえに名曲だ。
 サイゼリヤで書いていたが、もう帰るとしよう。店員の目が痛い。それにしても、たまにはブログもいいもんである。なかなか書いていて気づかされることが多い。自分語り最高。どこまでも、なにがしたいかは分からない。文章を書くこと読むことも、楽器を弾くことも聴くことも、良いことかはわからない。ただ、文章や音楽は感傷性を表現するのに最適である(というより、現実の感傷性は基本つまらない)。そういう意味では、案外悪くないのかもしれない。僕はしょうもない人間だから、もっとましな人生があったのかと思う時はある。こんなよく分からない人生は歩みたくなかったと思う時もある。でも、だからこそ「良い」。高尚なセンチメンタルなど、センチメンタルへの冒涜だ。稚拙に、陳腐に、嫌がっていたい。なぜなら、ちんけでないセンチメンタリズムは存在しないのだから。幼稚な悲しみこそ、僕が真に愛する感情なのだから。


終わり……次回は未定だ! いつか書くと思う!

罪を感じるなら散歩に行こう

初めて、五月病にかかった。ゴールデンウィークが明けたら、猛烈な倦怠感に襲われた。早起きも出来ず惰眠を貪る日々であったが、ようやく脱しつつあるのでブログでも書くことにした。リハビリだね! それにしても時間とは残酷なものである、最近誕生日を迎えて僕は26歳になってしまった。後4年で20代も終わり! 面白い! とまあ、ぼちぼちやって行こうと思う。焦ることに意味はない。起きた事実が全てなのだから。

 そう、起きた事実が全てなのだ。怠けながらも、このことについて少し考えていた。状況や行動に対する自分の認識とは何だろう。「こういう状況に対してこう感じている」ことに、意味はあるのだろうか。例えば罪悪感。当然だが、罪の意識が外部に及ぼす影響は些少もない。ただ自分の内部で葛藤が反芻されるに終わる。罪悪感の問題点は、罪を意識していること自体がある種自己擁護的なことだ。「自分は罪を感じているぞ」と思うことで、行動していない事実への弁護になり、ずるずると苦悩に引き込まれる自分への許諾になる。このことは罪悪感が「罪悪」を隠蔽してしまうことを示している。悪口を言って後悔したら、まず「他者へ向かって」謝らなければならないのだ。僕は後悔しないから謝らないが。

 そういう意味では内面的な苦悩とは随分厄介なものだ。苦悩と言う「内面的な行動」が 実際的な「外部に対するアクション」を阻害する可能性があるのだ。もちろん逆もある。悩みを昇華させて一つのことに打ち込み、高い業績を上げた人は沢山いる。じゃあ、苦悩とは、「思う」こととは、一体なんだろう。神経科学の領域では、我々は自分の意志で行動していないことが分かっている。朝ご飯でジャムではなくハチミツをかけたときも、帰り道に寄り道したときも、自分の意志ではない。気まぐれとは、ほんとの意味で「まぐれ」なのだ。脳は自己意志と違い合議制である。さまざまな活動領域が意見を出し合い、行動を決定する。その決断を意識は受け取り、「自分がこう思って決めた!」と「滑稽な後付け」を始める。だから、そもそも内面的な意識と実際的な行動はなんの結びつきもないと言える。苦悩に意味はないが、苦悩しないことにも意味はない。どちらにせよやるときはやるし、やらないときはやらない。だが、意識には役割がある。自分が今からやることは管轄外だが、これからの「方針決定」を意識は受け持つのだ。組織で言うと、意識は実作業者ではなく経営者なのだ。小さいときからピアノを続けていて、それを大人になっても続けるか。決定するのは意識だ。無意識下で活動する脳はあくまで習慣化され、プログラミングされた行動しか出来ない。ピアノでいえば、弾き慣れた曲のときは何も「意識」せず軽やかにプレイできるが、特訓中は「こうやって弾けば上手く行く」と「意識的に」考える。そして練習を重ねて上達すると、あとは「無意識」で指が動く。意識がやるべきは、優れた「プログラム」を作れるように「方針決定」することなのだ。だから、「考える前に手を動かせ」「ただ行動し続けろ」はある意味間違っている。目標を決めてから行動しなければ動けないものだから。無意識で出来ることはあまりに当たり前であるため、彼らは「なんでこんなことでいちいち考えるんだ」と思ってしまうのだ。かといって、ずっと苦悩し続けてもしょうがない。重要なのは、意識は目標設定のためにあることだ。哲学や小説ですら、「考えて」やるものではない。ひたすら文章を反復的に書いて自動化するものだ。自動化に必要なのは反復である。僕らが決めるべきは、反復できる環境づくりだ。どうやったら続けられるか、モチベーションの維持は、金は持つか、等々。とはいえ、これは一芸を持ちたい人の生き方だ。もっとふざけた生き方をしたかったらそれでもいいだろうし、楽しかろう。

 最後に立ち返る。罪悪感に意味はあるのか? 意識の役割に準ずるなら、あるときもないときもある、としか言えない。ただ、罪悪感とは持ちたくて持つ訳ではないときが多い。もし苦しんでいるなら、楽しいことを楽しめないなら、ひたすらゆっくりしよう。有意義な目標設定とは、大抵精神的余裕があるときにできるものだ。特に漠然とした罪悪感の場合(例えば「原罪的」な発想)は、それについて考える前に休息する必要がある。怠けていいのだ。辛い状況とはそれだけで「頑張っている」のだから。そしてようやく安心を得られたとき、初めて「自らのその先」が見えてくるのだ。

社会をガン無視したいですよねえ

 おはようございます! それではいってみましょう!

 実に快調な滑り出しだが、みなさんは快調だろうか。日々の対応に追われすぎていないだろうか。今回は「社会、反社会」について考えてみようと思う。

「社会なんてくだらないぜ」とアーティストは言う。「社会に染まりたくない」と社会嫌いは思う。この場合、社会とは何をさすのだろう? ここで問題とするのはもちろん学術的な意味ではない。あくまで一般的なイメージについてだ。「社会人」というと、政治哲学的なことに興味がない人はなんとなく会社であくせく働くサラリーマンを想起するだろう。では前述の「社会に染まりたくない」とは「会社であくせく働くことに染まりたくない」ということになる。たしかに、喜んで働きたい! って人はあまり見ない。でも就職活動していると、みな(表面上は)喜んで仕事をし、その仕事に如何に価値があるかを伝えてくれる。人にもよるだろうが、大体の人は取り繕っているんだろうと想像はつく。そういうギャップを見て仕事に絶望するから、最初の一年で結構な数の新卒者が辞めていく訳だ。まあ、仕事は大概人の精神をすり減らす。そんなことしたくないのも至極当然だ。そういう社会の外面と内部のギャップに苦しんでいる人の脇に、正社員にならずにニートやフリーターをやっている人がいる。先に断っておくが、ニートも結局は社会にいるじゃん、とか社会に染まってなくてもみんな悩んでるんだよ! 的な論調にする気は一切ない。たしかに、社会から逃げ出したとしても全てが解決することはあり得ないし、そういう視点では構造的に等価であるとみなすことも出来る。しかし僕がこの記事で言いたいのは社会の定義だとか苦しみについてではない。僕が言いたいのは、「社会を敵にしたり、価値がないとみなすのはなぜか」ということだ。ある意味当然のことではある。僕も社会人をやっているが、確かに仕事はめんどいし、会社のルールは非効率で意味が分からない。「仕事の話はやめよう」と飲みの席で友人に言われたことがある。でも彼は仕事をしている。すぐに辞めればいいんじゃねえの? と言ったこともある。今の僕は、社会に立ち向かう必要はないと思っている。かといって、社会に従属しろとは言わない。それでいて嫌なら辞めろと強気に出る気もない。ただ気にかかるのは、真っ先に社会を敵視するのは「手軽に過ぎる」のじゃないかということだ。僕は仕事の話はしてもいいと思うが、愚痴は好きじゃない。なぜなら殆どの場合面白くないときが多すぎるからだ。仕事の愚痴は公的なものであるから、普遍的すぎてほぼ確実につまらない。そして、「手軽」過ぎる。社会人になったら仕事する時間は大半を占めるからそりゃ自分の個人的な体験も仕事の不満が大半になる。それをエピソードにして発表することが手軽なのは当然だし、社会人同士の飲み会がそうなりがちなのは当たり前の事態だ。同様に、今の自分が悪いのは社会にするのも当然だ。仕事があなたを目減りさせているのだから。ただ、それはどうなんだと思う節もある。別にみんな苦しんでいるんだからしょうがない、とか言う気はない。つまるところ社会の手のひらに乗ってほしくないのだ。社会の拘束力は絶大だ。だから、僕たちはつい自分の問題が社会にあると思ってしまう。でもそうやって仕事を辞めたり、発起して頑張ったとしても全部社会を意識した上の行動になってしまう。だから、社会に敵対する人もまた「社会人」なのだ。ロックは反社会的であるが故に社会的だ。そのためヤンキーもオタクも、カウンターとして「極めて社会的な」コミュニティを作る。ここまで書いたが、社会を無視しろって訳ではない。ただ、そこまで社会にこだわる必要もないように思う。「社会の粘着アンチ」化してしまうのは、単純に損だ。社会は敵として振る舞うことで、あなた自身を隠蔽する。それはサラリーマンとして会社の中で生きることで人間個人の個性を殺してしまうことと、変わりがない。

 社会人であることに苦しんでいるなら、社会を見る前にまず自分を見てほしい。自分はどんなことが出来て、出来なくて、何が好きで、嫌いで、どのように世界を認知しているのか。社会に折り合いを付けるのはその後でいい。「仕事に追われる日々」という言い回しがあるが、その通り社会は追い続ける。そこで頑張って鬼ごっこから外れる必要がある。社会を考える前に、自分を考える。僕たちは誰しもが社会に所属し、そこで上手く妥協案を探していくことに一生を費やす。取引は上手くやらなければいけない。そのために、社会のルールに乗っかるのではなく、自らの適正や価値観を意志を持って提示していくことが大事なのである。そうやって少しでもマシな方に持っていくために、人によっては無駄に見える思考や内省は必要不可欠になる。人間に考える義務はない。だが、鋭い思考が新たな気づきを与え、深い内省は世界への接続を強固にする。ゆえに無駄などでは一切なく、最も「実用的な」サバイブの手段であり続けていく。

 

終わり! 悪くない気がするぞ。

考えるほど暇ならモンストでもしよう!

ああでも、それでも、だけれども、でもでも、しかしても! という訳だ。調子はどうだろうか。僕はやたら眠い。仕事から帰ってきて三時間くらい寝て、日が変わるくらいにまた寝る。これではなんもやりようがない。ひどい一日の循環だ。こういう人がいるから糖質を抜けばやる気があがる! 的なキャッチコピーが流行るんだろう。実際は食生活だけで全て変わるわけないのであるが。変わりたい、変われる、変われた。変わる、とは何だろう。変わっても、自分は自分でいられるだろうか。自己の存続とはなにを意味するのか。俺の友達は、「人は変われない」と言っていた。あくまで自分に対する解釈を変えているだけで、自分自身が変容することはあり得ない、と。確かにそう思う。変わったという人は、大体短所を長所に裏返しているだけなのだろう。衝動性が高い人は、なにか他の作業で発散することで偉大な業績を残せる可能性がある。社会的に役に立たない人は、社会に対して疑義をかけることができる。水タイプは草タイプにやられっぱなしだが、だったら炎タイプにぶつければ良い(れいとうビームをサブウェポンで持っている場合はその限りではないが)。結局、何も変わらない。自分という存在は、中学生くらいまでで完璧に成形されてしまうのだろう。そこからは、解釈で裏返していくしかない。
 10代半ばを超えたら人は変わらない。だが、人は解釈を変えることが本質的な変容であるともいえるだろう。世界は変わらなくとも、見え方が変わったらそれは違う世界だ。度々口にしている、論理と実感の問題だ。人は変われないが、解釈を変えれば「変わった」ように「実感することが」できるのだ。現実は糞ゲーか? と問われれば、「人による」としかいえないだろう。だからこそ、見える景色によって現実も自己も如何様に変容「したように見える」のだし、結局変わっていないとしても現に生きている僕にとっては問題ない。なぜなら、「世界のありよう」が問題なのでなく、「世界の見え方」が自分にとっては全てなのだから。それは虚しく、無力でもある。だからどうしようもない現実に打ちのめされることもある。ただ怨嗟の声を上げるしかない状況もある。逆にいえば、そのどうしようもなさを「とんち」で打ち破ることが出来るのも人間の凄さなのだ。箱庭の価値は、あなたが決めるのだから。
 しかしだからといって全てを内的問題に収束させるのもどうなの? とは思う。真逆のことを言っているようだが、世界があり、それを見るあなたがいて、世界の価値を決めるにせよ、世界の善し悪しが見え方だけで決まる訳ではない。俺の描いた絵の方がピカソより好き! と言ってくれる人は世界中探せば恐らくいるだろう。しかし、ピカソの方が好きな人の方が圧倒的に多いのも事実なのだ。もちろん、好きな人の多い少ないだけで表現の客観的価値を決める気はないが(商業的すぎるよね)、価値を決定するのは自己と事物の両面なのだ。ゆえに、自罰的になりすぎるのも良くないと思う。現代は自分なりの自己実現が重視されるため、自己が満ち足りないと「僕のせい」と陥りやすい。自己啓発だって常に自己の向上だ。でも「世界が悪い」と言う権利だってある。「今不幸なのはあなたがそう感じているからだ」というのは事実だし、不幸な現実を打開するには行動していく必要があるが、自分の価値観だけで全てを決定させるのは盲目的すぎる。現実に対して自分の見方だけを変え続けて改善していくのは妥協とも言える。どうしようもない事実が立ち塞がるとき、いいようのない無力感に押し潰されるとき、呪詛を上げて何が悪いのか。そこで責任を自己に押し付けるのは、正に現実逃避だ。世界の理不尽を知ることで、己の無力を噛みしめることで、見えてくる「世界」もある。独りであることの小ささを知るからこそ、世界の一部であることに気づけるのではないか。自己責任で生き、主体の価値観と世界の価値観を等しくすると、自己と世界が同一化し、限りなく自己領域は拡大する。それを否定する気はないが、僕はちっぽけであることを認識して、世界との繋がりを見出だしたいのだ。僕は自分の人生を生きているが、同時に他者の人生の中にもいて、社会運営に参画し、自然のサイクルの内側にもいることを自覚したい。
 ひとまずは語った。さて、こういった世界の価値を決定する基準の差はどこからくるのだろうか。恐らく、自己の豊かさだ。非常に曖昧なことを言ったが、ざっくり言えば自分への執着心である(いつかこれは詳しく書きたい)。自らに興味を抱けるなら豊かだし、そうでないなら貧しい。執着があると主観が前面に出るゆえ、極端に自罰的か他罰的になる(自己嫌悪者は自罰的、ナルシストは他罰的)。自己嫌悪がナルシシズムの裏返しなのは、結局自己への執着がどっちに振れるかということでしかない。ネットの真上に乗ったテニスボールのようなものだ。一方、執着がない人はこの考えが否定形で表現される。肯定する気はないが自己を否定する意味もまたないと思うか、自分にこだわりがないからそもそも自分でいたくないかどっちかになる。ちなみに僕は前者で母が後者なのだが、母に「今と変わりたい?」と聞いたら「全く違うものになりたい」と言っていた。こええよ。自己に対して消極的な態度しかとらないから、結果的に自己が矮小化して空虚さが増す。その分相対的に物事が見えるため、冷静ではある。「自分にはなにもない」とは思わないが(それはむしろ執着がある人の考えだ)、そもそも自分が「いないように見える」ため、ただただ空洞化が進行する。ゆえに空っぽであり、貧しい。執着心が強い場合はその逆だ。積極的に自己に意識を向けるため、肥大化される。自分は確かに存在しているが、結局自分自身を理解することは敵わないためナイーブで神経質になりやすい。そのためがんじがらめになるが、資源は豊富だ。面白いのは、これも自己と世界の関係性の上での裏返しということだ。だから、自分が世界とどのように繋がっているか気にならない人は、この基準にそもそもあてはまらない。印象派的な輪郭の曖昧さをもって、自己と世界がぼやっと存在するだけだ。逆に言えば、そんなカオスな状態でも耐えられるほど鈍感であり、強い人でもある。考える人は考えない人をバカにするが、それは「そんなどうでもいいことを考えざるを得ないほど弱い」から考えているだけだ。そんなことよりお金を稼いで美味しいご飯を食べよう。僕の生活の理想は「死ぬほどだらだらして、暇になったら適当にスマホいじって眠くなったら寝る」なのだが、こういう人が一番タフだから理想なのだ。
 考える者は常に弱い。だから哲学者は自殺する。でもだからといって考えない訳にもいかない。よくわからないそれを、少しでも見えるようにするためには。自らを縛りつけるものを、愛するようになるためには。僕の友人は言った。「悩みがあることは幸せだ」と。なんと感動的な台詞かと思った。わからないから、苦しいから悩む。幸せを乞い願い、得られない。だがそれだけ渇望できるのは悩むからだ。幸せを考えるから、幸せを感じられるのだ。考えないものに、幸せはやってこない。なぜなら、幸せを知らないから。概念を獲得するのは無駄ではない。論理と実感は違う尺度を持つが、思考しなければたどり着けない実感もある。先鋭化された思考の果ては、いつだって目の覚めるような瞬間なのだ。
まあ、それでも考えた方がいいとは限らない。どのみちそれは、あなたが決めることだろう。僕は魅入られるときもあれば、頭を空っぽにしたいときもある。何を選べばいいかは分からない。何が見えているかも分からない。ただ、分からない世界はひどく瑞々しい。前に空虚が美しいと言ったが、虚ろな空間には先入観がないから既存の概念で染めることがない。概念がなければ分からない実感はあるが、概念を抜かなければ見えない世界もある。ゆえに空虚は瑞々しく、美しい。形容できないから、ただそれを受け取ればいい。となると音楽の美しさは、そこにあるんじゃなかろうか? 美しいメロディは、意味があるように思わせると同時に、意味を越える。言葉の持つ意味がちっぽけに思えるほど、強烈なイメージを抱かせる。そしてその「強烈さ」とは、つまるところ「なにもない」ことじゃなかろうか。既存の概念を粉々に打ち砕いたとき、意味は失われ、空っぽなものが立ち上がる。僕らは感動を言葉にするしようもない動物だが、それでも「本当は言葉にしたらすべてが失われる」ことも知ってはいるのだ。なぜなら、言葉が失われる体験こそが感動であるのだから。ゆえに、音楽を分析するとき意味で考えてもしょうがない。メロディにもリズムにも意味はありはしないのだから。
 意味の破壊が表現の魅力だとしても、現実に生きる人間は意味を持った方がいい。人間は意味が分からないものを恐れる。考えるのも意味付けするためだ。僕は意味付けの機能が低い。病的な表現を使うなら、現実はバラバラに見える。それは論理的には正しい。現実はまとまりをもたないのだから。だが、生きる上では不便極まりない。常に狂った世界で生活するはめになってしまう。だから、哲学とはサバイブの手段なのだ。ルールを見つけることで、まとまりを持たせていく。ときにはこの文章のように、空虚すら構造化する。だから結局、僕が脳死してスマホゲームに熱狂する日々は遠いのだ。ああ今日も、ピアノの響きが聞こえる‥‥

 

 

 

終わり。最後オチなしのギャグにしてみた。

チクタク、チクタク……って擬音考えた人はセンスあるよね

時間だ。

さて僕は、名詞をただ言い切ったのか、もう切り上げ時という意味で言ったのか、どっちだろう。「ただの時間だ」とか「もう時間だ」とでも言えば用意に判別が付くが、これだけの情報では分からない。さてはなにおき、時間だ。最近、時間の経過がひどく痛ましく感じることがある。それは時間の経過に伴って自分が老化していくとか、色んなものが褪せていくとか、そんな意味じゃあない。もっと純粋に、時間の経過を思うとひどく悲痛になる。今日は22だが、「23日、26日、27、28、三月!」と心の中で口走ったら泣きそうになった。これにはそのとき情緒不安定気味だったのも大いにあろうが、誤摩化しのきかない感情であり、一つのメカニズムでないかとも思える。ふと、首を上げて虚空を見つめる。それは大変空しい瞬間だが、原因の一つに「時間が経過している」ということが関連しているのではなかろうか。「虚空」といったのは訳があり、この場合は首を上げて天井や空を見ているのではないからだ。それらよりもっと手前か、遥か奥か、もしくはどこにも焦点を当てないで呆然と「見る」。あまりに象徴的なワンカットだが、これと類する行為は行ったことがないひとも少ないだろう(だからこそ、「象徴」になりうるのだし)。どこでもないところを、呆然と見る。それは「呆然と見ている時間」であり、呆然としているから空間には意識が向いていない。ただ、それでも時間は経過しているから時間の存在だけが浮き彫りになる。もちろん時間と空間だけで全てを済ますつもりはないが、呆然とすることは、空間を消し時間を跋扈させる手続きなのかもしれない。ここで重要なのは、空間と違い時間は操作できないことだ。空間は好きにコーディネートできるが、時間はどこまでも一定だ(体感的なところでは変えようもあるが)。だから、時は「残酷」だったり「儚い」ものだったりする。ここでも本質を突くのはシェイクスピアだ。彼は二人の女の仲の良さをこう表現する。「内緒ごとはすべてあまさず打ち明けあい、姉妹の約束までむすび、なん時間もいっしょにすごしながら、それでもまだ足りず、別れを惜しんで、時の速さをぼやいたこと」仲の良さを「どれほどいてもまだ足りない」と言いながら、一緒の時間があまりに楽しいので一定のはずの時が「速くなる」。遊んでいたらもうこんな時間だ、などと表現するときはあるが、ここまでレトリカルに、かつシンプルに本質に迫るシェイクスピアはやはり化けもんだ。シェイクスピアからの引用はどこか物悲しさがあるが、時間と感傷性は密接な関係がある。なぜなら、感傷とは振り返るものだから。過去と比した現在の無力を。失い、今は傷となったそれを見つめること。もちろん、アメリカ文学ひいてはフォークナー「八月の光」のように空間の移動が感傷性を誘発するものもある。だとしても時間の要素は抜けない。結局は過去いた地点からの連続性から成立するのだから。

 僕は感傷性が好きだ。なんでかと言われると難しいが、今考えると僕は時間が好きだからという可能性がある。非常に時間的な音楽が映像よりずっと好みだし、描写的な小説より文脈的な小説が好きだ。オーケストラよりもピアノソロ。グルーヴの黒人音楽よりかはメロディアスなロック。という訳である。メロディは時間の連続性から成り立つから、感傷性とマッチする。ペイヴメントの「アンド•キャロット•ロープ」のアウトロは、メロディのみならず今までの展開に支えられているからあそこまで突き刺さる。

 時間だ。時間は今も経っているのだ。のんびりとはしていられない。かといって何をすればいいだろう? それも時間が教えてくれるだろう。時間を支払い、時間を嘆き、時間だけが過ぎ、時間と共に死ぬ。だから生は儚い。そして、ゆえに価値がある。時間も死も存在しなかったら、生は無限に引き延ばされていく。人間は不滅だと僕は信じているが、死は存在する。そうであるから、不滅であることにも意味がある。本当に、物理的な死がなかったら不滅もただの単語になる。我々は「消え行く者」であるから、思考を余儀なくされる。後回しに出来ることは何一つない、せかせかした生活になる。時間が過ぎ行くのを虚しく見つめる一観測者になってしまうときもある。時間は消え、肉体も消え無時間へと移行するときがいつか来る。だからせめて、時間の中で自由に歩き、限られた時間の中で懸命にやりくりし、時間と共に笑いたいのだ。

 

終わり。新境地……な気もするがそうでもないんだろうか。ご意見待ってます。

やり方さえ分かれば後は簡単さ!(嘘つけ)

堀江貴文が最近人気っぽい。本も売れてるようだし、セミナーも開いているようだ。僕は嫌いなのだが、本を読むのもめんどくさいのでAmazonのレビューを見ていたら面白いのを見つけた。

 

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1つの仕事に囚われず興味のままにあらゆるジャンルの仕事をかけ持つホリエモンらしい本です。彼はライブドア時代からポータルサイトのみならず中古車販売や証券会社まで進出していました。まさに多動力という言葉がピッタリ。

ひとつの肩書きだけではその他大勢の一人にしかなれないが、複数の異なるキャリアが掛け算となり、オンリーワンの人材になれる。まさにその通り。これからの時代、行動力と勇気が大切です。

そんなバリバリの行動力を持つホリエモンは素晴らしい一方、ホリエモンの弱点もよく分かりました。

失敗を恐れずとにかく行動に移したり、人に嫌われる事を恐れず何でも本音で発言するホリエモンは、人が受け取る印象への想像力がまったく欠如しています。

新幹線の中で「堀江さんの本を読んで感動しました」と声をかけられて「だから何?」と返してしまうホリエモンらしいエピソードがありますが、たとえそれは本音だとしても、そのような人が考えたサービスは果たして魅力的に映るでしょうか?彼は恐らく小さな事だと考えていますが、堀江ブランドは明らかに失墜します。

この本でホリエモンが引き合いに出しているスティーブ・ジョブズやゾゾタウンの前澤社長のプロダクトやサービスは人々を魅了してワクワクさせます。ビジネスモデルとして秀逸なのはもちろん、人を惹きつけるアート的な感性があるからだと思います。アップルもゾゾも、その製品やサービスはもちろん、企業そのものがアートです。

特にジョブスはその言葉一つ一つがまるで作品のように語り継がれています。一つ一つが聞き手が抱く印象を良く考えて発せられた言葉なのです。

家や別荘、車のような資産を持つ事を思考停止だと切り捨て、無駄な時間を極限まで切り詰めるホリエモンは合理的です。

ところが音楽や芸術などアートというものは、基本的には無駄で非合理なものであることは忘れてはいけないでしょう。アートは無駄だが、無駄であるが故に美しい。

前澤社長が世界的な現代アートのコレクターで、ジョブスは京都の庭園に熱心に足を運んでいたのは有名な話だと思います。

モノを持たずこだわりを持たないホリエモンは、こうした無駄や余白を楽しめるアートの部分が無いのだと思いました。

ホリエモンは既存のビジネスの無駄を排除し、焼き直して正しい方向に導く能力は高いのですが、消費者を魅了して共感させるような彼自身の代表作と言えるサービスやプロダクトが作れていないことが、ホリエモンが未だに批判される理由だと思います。

ダイレクトに言えば、単純に格好良くない。粋では無い。格好良く無いものは、やはり人に受け入れられない。ホリエモンが新しいサービスを始めるとしても、あまりワクワクしません。ホリエモンがプロデュースしたteriyakiや755もイマイチ不発の様ですが、なんとなくダサい、子供っぽい、イメージがついてしまっているのでは無いでしょうか。

 

 

「備蓄こめたろう」という人のレビューだ。すごい冷静だ。たしかに、堀江貴文が作るサービスはすごく面白くない。スタイリッシュさもなければ独創性もない。ただ、無駄を排除する能力はやはり特筆すべきものがあると思う。だからこそ彼のメソッドは鮮やかに浮かび上がる。

ただ、ジョブズがアートを愛していたのは分かるが、かといって「アートを愛していたからああなった」とは言い切れない。ぎゃくに、堀江貴文がアートを愛していればもっといいサービスを作れたか、と問われればそれもやはり分からない。人間は、結果に対する原因を簡単には算出できないのだ。では、実業家に限らず、「偉大なワーク」を成し遂げるにはどんなメソッドが正解となるのか。個人による、で封殺しても良い。だが、現実の問題として講演会や「成功者になる方法」的なワークショップはいくらでもある訳で、そう言ったフィールドで堀江貴文が成功おさめているのだし、それはそれでカリスマ性があって凄いなと思う(別方向で偉大でもある)。僕は「偉大なワーク」を収めたことはない。しょぼい成果物ばかりだ。そんな奴がメソッドを語ることに意味はないかもしれないが、まあ考えてみよう。

 前提だが、メソッドに決まりきった法則などもちろんない。唯一あるとするなら「努力している」くらいだろう。さすがに全く努力していないことはないから。じゃあ、何が共通項足りうるのか? 結局は「メソッドを独自に作る」ことでしかないだろう。メソッドををクリエイトできないものが、クリエイティブな結果を残せることはない。自前の理論を持たないものに、良き実践はありえない。そういうことなのだと思う。問題は、天才にもメソッドを言語化できるものと出来ないものがいることだ。出来るものは衆目を集めるカリスマ足り得るし、出来ないと不可思議な天才となる。もしくは堀江貴文のようにメソッドだけが洗練化されるケースもある(これはこれで間違っていない。正しいメソッドは作るしかないのだし、そもそも天才はメソッドも天才とは限らないのだから)。カリスマとは詐欺師的だ。「鮮やかさ」で人の目をくらます。つまるところ、演説とは意味内容の質ではなく「演技力」こそが重要なのだから。これは文章でもある。全く違う事物を鮮やかに接続されると、妙に魔術的に移る。ジジェクとか東浩紀とかがそうだ。冷静になれば二人とも「雑だが先見性は高い」って感じだと思うが、妄信的信者が多数いるのは流石だ。

 メソッドを学びたがる気持ちも分かる。天才の方法をまねれば、間違いはないと思うのかもしれない。だが、それこそが成功から遠ざかることでもあるし、なにより、自分の人生を他者に「委譲」してしまうことになる。もう少し自分のエモーションを信じていいんじゃないか。もちろん、そう言う僕も盲信しているものは一杯ある。アーティストとしての生き方はピカソが本物の理想だと思うし、信仰している。でも、生き方やメソッドを最後に決定するのはこれぞというエモーションだろう。自分が感じたままに生きるとは、シンプルで最も正しい。堀江貴文は無駄を切り捨て続けた。一方ジョブズは、一見すると無駄で非合理なアートを愛し「偉大なワーク」を収めた。だからといって「無駄なことをすると成功する」という帰結は起きない。ここから導きだされるのは、「無駄なことをしても偉大なワークは成しうる」ことである。だから、偉業とは思ったより楽観的なものなのかもしれない。無駄があってもいいのだ。現代言語学創始者ソシュールだって、完全に意味のわからないアナグラムの研究に二年かけた。努力が必要なのは確かだが、努力だけしていないと天才にはなりえないほど、人生は厳しくない。「偉大なワーク」は、案外と優しい。人生の持つ楽観性の本質はそこにある。無意義であるか有意義であるかはその場では決定しない。「過ぎ去ったとき初めて」、僕たちは行為の有効性を知る。その考えで行くなら結局は死ぬまで分からないのだ。小学生のとき鉛筆を拾ってあげたことが、病床で死を待つだけの自分を救うかもしれない。今何をすべきかなんて、そう簡単には分からない。どうすれば成功できるかも、つまるところ分からない。行動し続けることが絶対であるかも保証できない。そうなると、人生は悲観的な顔を見せる。何をしても、いい結果にならないかもしれないとも言えてしまうからだ。だが、それも無意味だ。結局のところは私たちに分かることは何もないのだから。だからこそ、僕はエモーションに正解を見いだす。感じたいことを、感じられそうなことをするしかないのだ。「涼宮ハルヒの憂鬱」のOP『冒険でしょでしょ』にある一節「感じるまま感じたことだけをするよ」は、頭を抱える程正しい。とまあ、「偉大なワーク」に結びつくかはともかく、感じたまま感じたことだけをするのが人によっては意外と「最上のメソッド」足りうるのかもしれない。

 

エンド!次回に続く!