そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

自意識から宇宙へ抜け出よう!

今月は調子がいいからさらに書いてくよ!

 

意識と脳について、めざましい進歩があるようだ。それに対して「希望も喜びも脳のニューロンの活動で生じるものに過ぎないのか」と悲しむものもいる。神経科学者ラマチャンドランはこれを否定する。引用してみよう。

 

しかしそれは、誇りを傷つけるどころか、人間を高めるものだと私は思う。科学は私たちに、人類は宇宙で特権的な地位など占めていない、「世界を見つめる」非物質的な魂をもっているという観念は幻想にすぎないと告げている。(中略)自分は観察者などではなく、実は永遠に盛衰を繰り返す宇宙の事象の一部であるといったん悟れば、大きく解放される。また謙虚さも養われる。ーーこれは真の宗教的体験の本質である。

                       ラマチャンドラン「脳の中の幽霊」

 

なんと感動的な文章か。そうなのだ。私たちは世界に俯瞰的な印象がある。意識があり、それが観察を行い、内的世界で処理を続ける。だが現在の脳科学はそれを否定する。統一的な意識は存在しない。さらには、肉体と精神の分離もはねのける。精神が、意識が特権的な地位を占めるのは終いだ。あるのは、宇宙の営みの一部であるという事実のみだ。だからこそ、私たちは自由になれる。自意識に引きこもることも、それがゆえに孤独を感じる必要もない。宇宙の一部なのだから。これは宗教的な体験に属するだろうが、宗教的な思想ではない。自意識の中で一人で寂しそうにする「もう一人の私(ホムンクルス)」を神経科学が救ってくれたのだ。僕らは完全な自由意志で動いていない。それどころか、殆どは無意識の動きだという。驚くことに、人が行動する少し前には脳に特定の反応が出ることが分かった。つまり、「パンが欲しいと思った『瞬間に』私は手を伸ばしてパンをとった」のは嘘だ。思う前に脳が「動け」と命令して、指令を受理した手が取るのである。自分がパンが欲しいと思うのは、意識の中で矛盾が生じないための後付けだ。これも悲しいことではない。僕はこのことを聞いて心底ほっとした。だって、全て意識が行動を決定するなんて堅苦しいから。無意識がそれだけやってくれるなら、人生は思ったよりも適当なのだ。もちろん、無意識の責任を僕は引き受けなくてはならないが。

 自意識は特権を生む。なぜなら世界と切り離された存在となるから。孤島に一人住む王だ。これは精神的な話ではない。科学の進歩によってとうとう僕たちは「特権的で孤独な観察者」ではなくなったのだ。自意識は歪みやすい。世界と自意識の間には、社会がある。社会は特権者たる自意識を抑圧する。特権を剥ぎ取り、プライベートを失わせる(ハンナ•アーレントが「人間の条件」で語った「近代社会による私的領域の消失」とは、ここに依拠している可能性がある)。そして形式的なやりとりに身を没させる。自意識が特に強いものは不満を抱く。自分を社会に対して妥協させるのが不快なのは、自意識の特権性を損なうからだ。ハンナ•アーレントが言うように、確かに社会は消費的だ。人的資源として招集され、抑圧され、消費物だけを生み出して命尽きる。彼女は古代ローマに理想を求めた。ラマチャンドランはもっと飛躍して、宇宙の一部であることに解放を見いだした。どちらも現実的ではない。ラマチャンドランの方が正しいとは思うが、実用的でないことに変わりはない。でも、少なくとも自意識からは抜け出さないといけない。内的世界に留まり続けていると、単に悶々とするだけだ。僕は人間は永遠だと思う。だって宇宙の一部なのだから。死んでも、宇宙の運営には参加し続ける。なぜなら宇宙の一部としてこの地、地球に身を宿し生きていたのだから。保坂和志は「骨になってもわしはわしや」と言われ感動していた。そう、骨になっても、灰になっても自分は自分だ。宇宙は死んだ生物を排除する程器量が小さくない。僕たちは永続する。だから、「この世界の片隅に」というタイトルは大変本質的であり、美しい。僕らはこの世界に、宇宙に居続ける。どれだけ悩んでも、迷っても世界の片隅には必ず居場所がある。世界の運営に参加したのだから、死んでも僕らは片隅に居続ける。「この世界の片隅に」は、常に人には居場所があることを描いた。それこそが「永続的な希望」であり、本質的な解放なのだ。死と存在の消失は意味が異なる。だからこそ、「生きているのにいなくなる」ことも起きてしまう。本来誰でも備わっている生の、その実感が限りなく薄くなる。悲劇であるのは、引き起こすのは常に自意識であることだ。

 「自分が永遠であること」なんて、実感できないだろう。正直言うと僕もそうだ。でも、自己の特権性だけは剥ぎ取る必要がある。社会からではなく、自分の手で思いきり。そのために内的世界から出る必要がある。自己と、他者と、世界を並立させること。三項の内でヒエラルキーを発生させないこと。最近大事だと思うのはそこだ。自意識にばかり目を向けると、他者と世界が「他人事」になる。俯瞰して見つめることしか出来なくなる。違うのだ。自意識は二重の悪しき特性を持つ。俯瞰的であるが故に他者と世界から切り離される「悪しき客観性」と、それでいて、自己にのめり込むが故に無限循環的な内省に陥る「悪しき主観性」と。だから、自意識を消さなくては行けない。世界の中で生きていることを認識する客観性、は難しすぎる(無理だろ!)ので、世界と他者をもっと平等に観れる冷静さと、自己を抜いた上で自分の欲望と向き合って楽しみ続ける無邪気さとを。大事なのは感覚だ。どこまでも主観的な概念だが、感覚は「良き主観性」となりうる。自分の喜びをひたすら獲得する原動力となるから。それには、自意識は邪魔だ。感覚は自意識の安っぽい主観性とは全く異なる。良き感覚を得るために必要なのは「忘我」だ。外部にひたすらのめりこむこと。自分を限界まで排除して、外部と触れ合うこと。なんでもいい。表現でも会話でも仕事でもハンググライダーでも恋愛でも。自意識の内省とは、はっきり言って「つまらない」のだ。面白いものとは、常に外部にある。自意識は、最終的には自分すら客観化する。自己の中に意識が「あるという錯覚」を抱かせ、宇宙の一部である自己から内的世界へと移行する。だが、エモーショナルはいつだって肉体と連動している。自分の生物的な認知特性やそのときの気分に左右される。であるから、「面白い内省」などありえない。自己内省にエモーションが宿ることは一度もない。

 自意識が消えたら、自分はどうなるのか。簡単だ。宇宙の一部となって、自己が特権的なものから絶対的なものとなる。感覚は、いつだって絶対的だ。なぜなら共有も伝達も不可能だから。他者と世界は相対的だが、自分は絶対的なのだ。だからといって特権は付与されない。なぜなら、絶対性を保証する感覚がエモーションを得るには外部である他者と世界からなのであるから。絶対的であるがために、外部には却って謙虚に、慈しみが生まれる。僕たちは永続するが、感覚は生きてる限りだ。宇宙と比べれば、僕らの命はあまりに短い。なのだからこそ、もっと面白いことをしていこう。

 

終わり。大学の教授が卒業生へのコメントで「勉強は一生続くよ。死んだ後もね。」と言っていて、引用しようと思ったが冷静になるとイミフ過ぎてやめた。

なんとなく書いた詩

なんとなく詩を作ってみた。ほとんど全くの無意識で書いた。

 

人生の憂さを晴らしに行こう。物憂げな魂と共に。
鎮魂の歌の節回しで。節操も一切なく。
切なげだけど逞しく。不逞の態度で慎ましく。
慎重な足運びも今日で終わりさ。終末が習慣さ。
習い事を辞退して、退屈な毎日と戯れよう。
児戯にも等しい躁鬱だ。鬱憤晴らして衒いもない。
衒学者は何処? 処する手段も知らないくせに。
知識が全てと言いたげだね。言外の言も分からないっていうのに?
分別つけたら散歩に行こう。散々に飽きたら舞踏会。
踏破するのはまだ先かな。機先制して確実な地団太。
団地の子供は親も貧乏、貶めることだけが生きがい。
生活手段は事欠かない。事件が起きても何もない。
如何によっては死ぬのもあり。死産の子供は人身御供。
制御できたら天晴れだ。晴れのち雨のち曇りのち。
星雲見ても感じない。感性だけで潜ってこい。
潜水艦は僕らを救う。救済したら危機よこい。
危ない堕天は御免だね。罷免されても是非もなし。
非の打ち所を見つけてよ。見識つけて見た目は完璧。
補完するのが本質さ。質感は分子より強し。
強い子どの子本当はいない。当の本人忙しくて眩暈。
忙殺されるよ盲点に。観点変えたら正反対!
正しいことかな正解は、氷解するのはあの世でな。
世界は広いよ大きいよ、大吉引いたら極楽さ。
楽器を鳴らそう盛大に。隆盛なんてないも同然。
同じ運命背負ってる、背中にいつも君がいる。
君はどうかな狂ってる?狂気の果てでも歩いていこう。
歩くのやめたら消え行こう。行けども行けども人生さ。

今までのブログのテーマを集約している気もする。あと、絶対に不思議の国のアリスの影響を受けまくっている。今回は本当にこれでおしまいです。面白いかは知らないけど、なんとなく公開したいからした。以上。

この先色々あるだろうけど、選ぶのは一つ ただ知ることさえできない、さあ行こうこのままで 

 このブログを書いているときはやる気がないときだと思ってもらっていい。まとまった作品を書くときがないときに書いているからだ。今回はもっと酷く、やることがないため暇つぶしで書いている。暇つぶしと言えば、「人生は死ぬまでの暇つぶし」というニヒルな言葉があるが、これは対象aを考慮するならば本質を突いている。結局何をしても満たされず、どんな行動にも次の欲望が存在するから最終目的など存在しない。そういう意味ではなにもかもが死までの誤魔化し以上のものではなくなる。充足は永遠にやってこない、欠伸を噛み殺すことに腐心する。暇の対義語は多忙ではなく、死なのだ。死の対義語に生もあるとするならば、生=暇になることになる。ここでいう暇とは、「退屈」のニュアンスを抜いて考えて欲しい。あくまで「することがない状態」としての暇だ。やることがないから暇、ならば、やることがあるとはなんだろう。「やること」? はて。そんなものはあるのかねえ……

 以前、「どうしようもなく好きなもの、理由なく好きなものは逆転的に言えば自由を阻害する」と書いたことがある。なぜか好き、ということは意識的に嫌いになれない、自分の外に追い出せないと言うことであるのだから(恋愛小説とは、このメカニズムが根幹にある)。だが、その代わり「暇」ではなくなる。理由なく好きなものにその身を没すれば全ては解決するからだ。つまりは使命、ミッションがあるからだ。使命の元に、己の行動を決定させる。ある意味では麻薬的な幸福であり、最大限の拘束ともいえる。僕は逆に位置する。少し前の記事、世界と現実の差異、主体と人生における関係性と両者がナラティブを学修することで得られる永続性についてで書いたとおり盲目的になれないのだ。理由もなく好きになれないから、することがなくなる。「暇」なのだ。使命一切存在しない。この前の忘年会で、「私は書くのが好きなんじゃなくて文学の神が私に授けてくれる」と言っていた人がいたが、全く理解できなかった。何かをするときは「授かったり」しない。常に「立ち上がる」必要がある。自主性がなければ何も出来ないのだし、自主的な原理でしか動けない。だから生まれた意味も求めないし、満たされたりはしない。飢えていなければそもそも何かする気になれない。

まあでも、使命がある奴なんて稀だろうし、僕ほど使命がない奴もいないと思う。とはいえ、これは一つのきっかけを与えてくれた。使命を帯びていないものは、何かをするには、「立ち上がる」にはやはり「飢えて」なくてはならないのだろうか。三つ前の記事「若いころは~」では、若き馬鹿騒ぎから安定した家庭生活に入っていく人間のことを主題にしたが、安定することは「満たされる」ということなのだろうか。曖昧な表現になってしまっているが、結局のところ「不足」を感じなければ尖った人間にはなれないだろう、ということだ。不足するから、クリエイトする。足りないから、もがき続ける。じゃあなにが不足しているのか? 恐らくは、「幼児期の全能感」ではないかと僕は予測している。天才とは、病的にアンバランスだ。史上最高の数学者ノイマンの趣味は秘書のスカートめくりだったし、最大の論理言語学ウィトゲンシュタインは西部劇とミステリーがやたら好きだった。アメリカを代表する作家エドガーアランポーは19歳くらいのロリな奥さんの膝元でおままごともようにめそめそ泣いていたらしいし、なぜかどこかしら幼稚なのだ。

 僕はそこにヒントがあると思っている。これはかなり変な意見だが、「非言語的な世界への憧れ」こそが人間を突き動かすのではないかと思う。それは論理言語学や文章創作の領域においてもそうだ。説明できすぎてしまう表現がつまらないのは、非言語的世界に連れて行ってくれないからだ。僕は中二病を賛美しているが、その理由は一番「全能感コンプレックス」だからだ。子供の頃の満たされた時期は終わり、人間存在に悩む。悩みが最もつまらなく、かつ鮮烈な時期。だが大半の人間はその「飢え」にも慣れ、「安定」の世界へと入っていく(安定とは家族を持つこととイコールではない。い。一人挙げるなら、ボブ・ディランがいるだろう)。飢え続けるものだけがただ飢えていく(エヴァ旧劇場版の挿入歌「Komm Susser Tod ~甘き死よ、来たれ~」の『無へと帰ろう』と繰り返す箇所はあまりに悲痛だ)。それを少しでも補うには、言語のない世界にカムバックするしかない。全能感アゲイン、だ。前にも書いたが、どちらがいいというわけではない。自分が少しでも納得できるまでもがくしかない。

あなたは「飢え」たいだろううか?「満ち」たいだろうか? もちろんこれは飢え=不幸であったりはしないし、その逆でもない。ただ、二つは中々相容れない。僕は安定的な生き方の人とは仲良くなれない時が多い。話が退屈に思えるときが多いからだ。だが、それこそ安定の秘訣でもあるのだし、否定は出来ない。デンジャラスな会話をしていたら安定など無理だろうから。どんな生き方をすれば正解なのかは分からない。だから違う人生を羨む。他山の石だ。自分とは、自分の人生とは、あれほど選択肢があったのに結果的には一本しかない。生きて、生きて、つまづいて…… 僕はこの人生を選んだ。あなたはその人生を選んだ。なにがあっただろうか? なにもなかっただろうか? まだ人生は続く。なんで続くんだと思うときもあれば、無限に続けと思うときもある。風が吹き、雨は止む。だから、だから生きている。死ぬまで生き続ける。永遠にも思える有限の時間の中で思うのは、死が色濃く匂い立つ生の中で思うのは、そう思えることが自分にとって悪くないということだけだ。

 

おわり。

 

徳川家康の作ったオムライスはどんな味?

 ネタがない。ネタがないのだ。

 これは一大事だ。ネタがなくては文章が書けない。頑張ろうといった手前、文章を書く機会を増やそうと思ったわけなのだが、ネタがなくては書くことも出来ない。小説も、批評も、途中で止まっていて暗中模索だ。そのため、ブログを書こうと思ったのだがネタがないのだ。これは一大事だ。書こうと思ったのに書けないとは悲劇ではないか。頑張ろうと思っていても頑張れないとは、あんまりではないか。神は惰眠を貪っているのか。それとも僕の無意識が怠けているのか。その両方か。

 ともかく、これは表現における悩みの一つであろう。アイデアがなければ、そもそも努力を行うことすら覚束ない。いや、写本とかあるのかもしれないがあんなこと僕はしたくない。ところで、ここまで読んでこのブログ第一回の記事を思い出した人がいたら鋭いと思うと同時に、こんなブログを熱心に読んで欲しくない気持ちが僕の中に同時に生まれる。第一回は「出だしを書けないこと」がネタだった。出だしを書けないことを出だしにしていたのだ。今回はネタがないのをネタにしようとしているが、「出だし書けない出だしネタ」はそもそも「出だし」という特定の状況に起因しているから、メタの要素が生まれる。それに比べ「ネタがないネタ」は単にネタがないという一般的事実と凡庸な状況にしか頼れないから、対して面白くない。ハムスターが風車を走り続けているイメージだ。空回り! つまりは文脈の問題だ。永遠のテーマである。内容と文脈、どっちが大事か。コーヒーを注ぐ。それが朝何気なく一人で注ぐのと、恋人がゆっくりしたいあなたのために注ぐのでは、完成したコーヒーが同一でも大きく意味は違う(違わないのに!)。僕の考えでは、日常会話では内容は文脈に劣る。内実よりも装飾の方が重要なのだ。きれいに着飾るほうが内面を磨くより人を惹きつけるように、確実な内容より大きく見栄を切った派手な弁論の方が魅力的に写るように、嫌いな人が作ったオムライスと、好きな人が作ったオムライスでは、見た目も味も浮かぶ気持ちも「なにもかも」違うように。装飾は重要だ。変に内容ばかり求める人を良く見るが、そういう人は頭が良くても頭でっかちすぎる印象がある。そもそも、内容=真実ではないのだし。だから、あなたはなにを言っても「あなた」の文脈から逃れられない。全部「あなた」が言うのだ。どんな発言も捻じ曲がる。真逆の解釈すら平気で起こる。僕は自他共に認める適当人間なのだが、僕が「俺は適当」というのとまじめな人が言うのでは当然感じられる意味は異なる。当たり前の事実だが、文脈が読めない自閉症スペクトラムの人はゆえに苦しむ。それは言い換えれば、少なくとも実際的なコミュニケーションの世界では「何も分からない」のと全く変わらない。日常的な会話はほぼ全てが文脈的なのだから。状況に依存した、ある種素朴な言葉だ。逆に言えば定型発達は文脈に依存しすぎともいえる。数学者にアスペルガー症候群が多いのはよく指摘されるが、それは文脈に依存しない分論理的、僕の言語感覚では「ゲーム的」なのだ。定型発達は文脈に依存する分論理的ではなくなるのだ。

 そう考えると少し面白い。よく言われるが、自閉症スペクトラムが変人扱いされる理由は「少数派だから」に過ぎない。むしろ、生き方が破綻してるのは定型発達だともいえる。信条もルールも持たず、支離滅裂。言ってることは人によって全く違う。場になじんでいるようで、なにも理解できていない。とも言えてしまうのだ。とはいえ、定型発達者の方がこの世に多い理由も分かる。非定型発達者は、自分と同じ非定型発達でも意見が違うと蛇蝎の如く嫌う。定型発達は同じ定型発達なら嫌いでも必要最低限は付き合う。それはそれで辛いのだが。共同体を作る際はやはり定型発達の方が向くのは確かだろう。「空気を読んで」調和できるのだから。ルールか雰囲気か。内容か文脈か。ここにおいては定型発達も柔軟性がない。彼らは内容が分からないのだ。文脈にしか目が行かない。たまに法律を頑なに守るクソマジメなやつがいるが、定型発達者はその傾向が薄い。友人間で「そういう雰囲気」なら破る。狭いコミュニティが優先されるのだ。一方、非定型発達者は「ルールはルール」である。友人にそそのかされても法律を破ったりしない人が多いだろう。まあ法律がその人にとって「ルールなのか」にもよるが、もっと大きいものを志向する。こうなると、規模の大小もあるよう気がしてくる。非定型発達は「世界法則」を求めるのに対し、定型発達は「仲間内のノリ」を求める。どっちが正しいということはないが、上手く融和できる方法もなかなかない。基本的には、ひたすら寛容になるしかない気もする。ノリが分からなくても許してやれ。ルールを守らなくても許してやれ。そう考えると、非定型発達者は辛い。ノリが分からないのは重罪であっても本人が意識しているものでないが、ルールは本人にとって絶対的だから間違いに気づけないケースもある。たまーにいるだろう。友達がいなくて、こじれた本とか読んで周りを見下しているけど大して面白くないしそんな頭良くない奴。

 いづれにせよ、ネタがないがなんとか乗り切ったのは確かだ。よし! この調子でいこう(いいのか?)。最後に、今回の「文脈と内容と発達障害」について考えてほしいのは、どこかで不調和は生まれるということだ。実際はこんな単純な対立軸ではないものの、人と人の差異はやはり絶望的にでかい。かといって、許してあげようよ! で終わることも許されないだろう。僕が今まで接してきたあらゆる人間に対してむかつく点(あらゆる、だ)は、なんだかんだ自分と他人は似てると思い込んでることだ。自分が考えていることは他者も考えていると思っていたり、自分も出来ることは他者も出来ると。それなりに客観的な人でも、中々ここだけは抜け出せない。多分それは、他人を客観的に見れないこともあるだろうが、それよりも自分を絶対視できないことの方が大きい気がする。人と人は違うが、それ以上に考えるべきは自分は思ったよりユニークな存在であることだ。自分を相対化してしまうのは分かるが、もっと自分を絶対的存在と見ていいんじゃないか。「自分こそが!」と叫んでいいんじゃないか、自分はこれだけ個性的なのだから、他者とは違うに違いない。逆になんのとりえもないと思ってる奴程自分勝手なのだ。好き勝手に他者を同一化するか、理想化してしまうから。だから、もっと唯我独尊で構わない。「人間存在の始まり」は、思ったより単純な地点から始まる。

 

おわり! ノリか論理、両方大事にしてそもそものそもそもは運営していきます。

第二章は迷走していましたね

 このブログでは日頃思っていることを綴っている。最近は頑張ることの否定が主なテーマだった。たしかに、頑張ることにはなんの意味もない。でも最近、頑張ってみようかとも思った。一昨日の記事を書いたときそれをふと思ったのと、友人の言葉がきっかけだった。「お前は一回心理カウンセラーの勉強をしてみるといいかもしれない。そうすれば自分と否応なしに対峙するから、少しは空虚さがなくなって意味が分かるかも」みたいなことを言われた。確かに面白い案だ。そのときは曖昧な返事を返したが、今ならはっきり答えられる。俺からしたら自分を見るのはしょうもないことにしか思えない。そんなことになんの面白さも感じられないし、そもそも意味がわかって欲しくもない。何一つくだらない。だから、僕は出来る限りやってみようと思う。今回気付けたのはそれだ。友人のアドバイスのおかげで、ようやく自分を捨てられたのだ。空虚は確かにある。だが全てに意味がなくなったりはしない。表現を作るとき、鑑賞するときに非言語的な、ある種の宗教的な酩酊感を感じる瞬間に取りつかれているのは否定しようがないから。僕はオタクなのだ。特定の対象にしか興味を抱けないし、そこに有無を言わず引き寄せられる。それは意味を持たなくとも、好きでなくとも、良いことでなくとも関係ない。もっと「暴力的」だ。ただ僕は感覚を言語化する癖があるからそうなるだけだ。つまり、全てが空虚とは完全な客観であるように見えて、そのことを証明すること自体が完全な主観なのだ。そこに気づけていなかった。だからこそ安心して僕は自分を捨てられる。なぜなら外部に考えることが、理論を編み出すことこそが僕にとっての「主観性の表現」であるから。客観性を重視することが、同時に主体の個性を表現する。虚空が広がっていても、それは「心を動かす、非言語で作られた美しい虚空」であるのだ。あまりに盲点だ。全てはやはり空虚だ。ただ、僕にとって空虚は美しかったのだ。

 そして、つくづく自分らしいと思う。友人の言葉に従うのではなく、反抗することで気づけたからだ。昔から反抗的な人間だった。ほめられても何も感じないが、貶されたときは無性にやる気が出る。誹謗されたわけではないが、僕からしたら自分を見つめるなんて否定されているのと同じだ。この場を借りて彼に感謝しておきたい、結局空虚の空虚さを考えることは自己への言及であり、たいした意味を持つわけではなかった。ただ、空虚が美しいことに気づけば良かっただけだ。そこに対して大きなヒントになった。僕はもう少しやってみようと思う。頑張ることに意味はない。価値もない。いいことなのかも分からない。ただ、僕は思考がスパークした果てにある「美しい風景」を見たいだけだ。美しさを感じることは言語的体験ではない。だから、そこには意味も価値も疑義を差し挟む余地がない。ただ美しいものが、言語的なフォルムを持たずに僕に本質をもたらす。非常に宗教的な言い回しになっているが、つまるところ人間の原動力とはそういうところに見出されるのではないだろうか。人間は理屈で動けない。意識は常にセーブをかけるから。最後にあるのは非言語と無意識だ。原始的な衝動性こそが人を動かす。だがそこに至るのに必要なのは批評性なのだ。分析的な態度が無意識と出会うとき、美しい響きが生まれる。言葉を失うためには言葉を得る必要がある。非言語的体験の素晴らしさは、言語があることで生まれる。忘れてはならないことだ。

 ここらで二章は幕を閉じる。迷走している章だったが、無意義ではない(ロック批評家の中山康樹だったら、「ジョージ・ハリスンインド音楽時代」と評するだろうか)。三章は……未定だ! 特になにをやるべくでもない。まあ、いずれ発想は出るだろう。ゆっくりしていよう。僕は行為しかできない。閃きは、僕の領分ではない。そういうときは、表現がいつか僕に教えてくれるのだろう。何の意味も有さない表現だけが。

 

二章終了。お疲れ様!

若いころは馬鹿してたんなら、今も馬鹿しろよ!

 帰省してきた。今回はなぜか夏休みのときと比べてひどく懐かしく感じた。単純に時間が空いていたのもあるが、冬なのもあったように思う(東京から山形に着いた瞬間雪が積もっていたのは分かっていても心を動かされた)。それもあってか、山形で印象に残っていた場所を撮影してtwitterにアップしたりしていた。それで、友人ともそれなりに会ってきた。会うたびに全員少しずつ変わっていて、中学の友達になると「結婚したい?」的な話も出てきて、さあ人生も一旦落ち着き時だ! 感はある(僕は別に変わっていないのだけれども) そうだ、僕は今25歳だ。確かにそろそろプランを練ってもいいのかもしれない。これまで生きてきて、プランを練ることなんてなかった。刹那的で、瞬間の切れ目の中にいて、余裕がなかった。今となっては「処世」を少しは知っている。そして、刹那に生きるのも大抵の人には限度があるのだろう。よほど捨て身でない限りは地に足をつけたいのだ。落下地点を探さねば。

 帰省して会った友達からは、「いっそ仕事を頑張って小説を捨てようと思う」と言われた。僕は否定する気は全くない。物書きは、物書きである以前に人間だ。人間に執筆の義務はないのだから。この友人含め、みんな生きていた。今回の帰省では、それぞれの生き方がとても目に付いた。それぞれがそれぞれの生き方を選択している。家族も含め、適当な奴もいれば信念に基づくものもいたし、飄々としている者もいれば悩み続けている奴もいた。僕は彼らの人生に上下をつける気はない(面白さに上下はあるけどね)。ただ、その中でも「将来への担保」の程度はそれなりにある。仕事をしているか、安定して付き合い続けている異性がいるか、精神や肉体に問題を抱えてはいないか。これは良し悪しではない。それでも、安定しているやつの方が不安度は少ないし、あまり病んでることもなかった。そう考えていてふと思ったのだが、若さってのは所詮「落ち着き」への準備段階に過ぎないのではなかろうか。反抗的な思春期を経ることで社会性を獲得するように、刹那的な若さに身を埋没することが将来的な安定への気づきになる、ということだ。流石に統計的なデータは取っていないが、昔から暗くて50過ぎても独身と言う男と、遊び人だがふらふらしていたら50過ぎていた、では前者の方が多いんじゃね? ってことだ。

 以前邦楽のインディーシーンについて書いた本を立ち読みしたが、「アイドルやロックは常に若さを前面に押し出すことが共通している」とあった。でも、みんな大人になるのだ。バンドマンの女は、公務員と結婚するのだ。プロアマ問わず一部の人間だけが、いくつになっても若さを追い求める(しかし求めても大半は「過去の若さのパロディ」になるのは何たる皮肉か)。いつまでも若くいたい人なんてそうはいない。その場限りのアクションも、乱痴気騒ぎも、将来の安心へ吸い込まれていく…… そんな構図だ。「昔は馬鹿なことやってたよ」って言う人は、昔が煌いてるのと同時に、反省の材料なのだ。そして、昔の馬鹿を何年経っても忘年会で話したりする。ある種の安定的な話題として。非常に否定的なニュアンスに聴こえるが、繰り返すけど僕は否定する気はない。今回の記事で狙いとしてあるのは、若さへの疑義だ。なんつーか、若さって様々な言い方はされども良いこととして捕らえる人が多いし、若いときの無茶を自慢する人が多いけど、それって安定への準備段階に過ぎないでしょ? ってことを言いたいのだ。僕が破壊したいのは、過去の馬鹿騒ぎを宝物にする態度だ。お前が若かったその瞬間は、今の安定を得るための行動に過ぎない。もちろん昔楽しんでいた瞬間は素晴らしいが、振返って思えば安定するための助走行為、姿勢制御に過ぎなかったな。そのことは年取って勢いを失ってもスタイルを変えないロッカーにも言えるし、もう訳が分からなくなってしまったのにだらだら続けるシリーズものにも言えるのかも知れない。

 だから、僕は感傷的な気分になる。感傷にしては珍しく、自分自身ではなく他者を見て、僕はエモーションを得ている。学年が下の友達もいないから、みんなもう学生ではなくなった。仕事をやめて鬱々としていたり、自己に悩んだり、結婚したかったり、絶望したり、まだまだ創作を続けていたり、嫌気がさしていたり、仕事に四苦八苦したり、生きていたり! そろそろ落ち着き時だ。「若さ」の幕は降り、引き続き「家庭」が始まる。僕がやたら変わらないと言われているのは、多分悩んでいないからだろう。安定していようがいていまいが、みんな悩んでいる。僕はそれに比べてあまりに無邪気だ。だからこそみんなを見て感傷的になる。今後のおよそ六十年ほどに、人生の途方もなさに対して、計画を立てるのか欝になるのかはともかく悩んでいる。将来がどうでもいいとは全く思わない。「若さの時代」が良かったとも思わない。ここまで来ると理屈でもないのだが、僕はみんなにもっと「我を忘れて欲しい」と思っているのかもしれない。若さ故のエゴでもなく、自分の人生計画をただ眺めているのでもなく、他者について考えるということ。「ダンス」を踊るということ。もう一つは、単純に忘我するまで楽しんで欲しいということ。ああ、やっと結論が分かった。それなのだ。自分は差し置いて、もっと他者を見て欲しい。恥も外聞も問わず好きなことをして欲しい。生きている「この現実」を、たまには忘れて欲しい。そのことが、なんでそれが必要なのか、大事なことであるのか僕の言語感覚で言うなら、自分と他者への「慈しみ」がそこにあるからだ。

 

おーわり。いつもより前向きじゃない? うつ病でいるのも飽きた品。

世界と現実の差異、主体と人生における関係性と両者がナラティブを学修することで得られる永続性について

タイトルはかっこいいことをいいたいだけです、それではどうぞ。

 

どうにも、俺は盲目的になれない質のようだ。
 そう思うのは特別なきっかけがあるわけじゃないが(思考や行動に動機を求めるのは『不純』だ。現実は道徳の作文でも就活の『大学生活で学んだこと』でもない)、とにかくそう思ったわけで、そうなると考え続けずにはいられない。盲目的になれない理由ははっきりしている。俺は「絶対的な価値」を信じられないのだ。これまで書いてきたように価値なんてそれぞれが勝手に決めているもの、というのが大前提にあるため良いと思うものも「これは俺が良いと思っているだけ」という感触がつきまとう。比喩的に(もしくは本質的に)言うならば「神」を信じられないのだ。神=個々人における絶対的価値、と置き換えたときに信ずるものがないということだ。敢えて言うなら感覚が俺の中では「神」の座に最も近いが、それも結局は「感覚こそ各々が神を信奉するに至る論拠であり、であるからこそ絶対的でもある」というロジックに過ぎない。絶対性とは、もっと無根拠でなければいけない。「なぜこの神を信じているか」にいちいち理由を求めてはいけない。
 それが、どうしても嫌なのだ。なぜ何も考えずなにかを求め続けられないのだろう。いや、求めるのは出来る。ただそれは衝動性がもたらすもので、対象に対して愛着があるというわけではない。理由もなく好きといいたいのだ。訳もなく見蕩れてみたい。意味もなく後ろを振り向いてみたい。信じられないほど信じてみたい…… 僕は内実が信じられない。普遍的な真理は、構造にはあるかもしれないが思想には存在し得ないと考えるから。「その事象はどのように現実としてあるのか」は語れるが、「その事象はどんな現実であるか」は語れない。なぜなら現実は描写できないから。ゆえに内実は見えない。そうだ、だから最後には空っぽになるのだ。世界と僕の両方が。空っぽだ…… 

 

僕が何もかも意味がないと思うのはそこにあるのかもしれない。「理由なき好き」とは究極的に主観的だが、だからこそ主体の中で極限的に価値を持つ。いわばそれこそが、自分自身の「エリア」であるから。空っぽとは「エリア」が、幻想であったとしても内実が、中身がないということだ。そして同時に一貫性を失う。世界に対する位置づけを失い、意味のあるなしでの判断が封じられる。理由付けしか出来ない者は、世界「を」相対化できても世界「に対して」相対化できない。主体が世界に対して一貫性を持つときは、常に自分の中の意味による比較なのだから(物語もそうだ。そしてそれ以外に物語の意味はありえない)。ただ、僕はそれが嫌いになれない。「理由なき好き」とは主体にとっては最大の愛着だが、同時に最大の呪縛だ。「好きになれずにはいられないし、嫌いにもなれないの」だから。何もないとは、何をしてもいいということでもある。脅迫も恫喝も存在しない世界なのだ。その代わりなにをしても無意味だ。一昨日、友達が「俺は意味のないことをしたい」と言っていた。そのとき例示したのは、終電を逃してしまい、深夜に17キロ歩いた後背中から朝日が上がった瞬間についてだった。確かに素晴らしい。だがそれをしたい時点で意味があるのだ。少なくとも有意義だ。

 じゃあ僕はしたいことがないのかというと、流石にそれはない。このブログを一年以上続けたのだし、そこは「したかった」のだろう。ここで僕は自分に問うことになる。他人にはその意味が分からない、「エリア」のなかの問い。僕は、表現が好きなのだろうか。一般的に見たら好きなんだろう。音楽と文章に関しては、明らかに鑑賞しているほうではある(一日平均30分も読まない奴が、本当に? と思う方は「一般人」の世界を知らない人です)。だが、ここでは一般論は意味がない。僕の話だ! さてどうだろう。好きか、と言われると答えに詰まる。昔なら断言していただろう。今はなんだろう。他にやることがないだけ、だから? そうともいえる。逆にみんなはなにをしているんだろう。暇つぶし? なにを以って暇と呼ぶかによるが、退屈しのぎになるのは確か。救われるから? 表現は、結局僕を救っているんだろうか。僕は表現に救われているんだろうか。数々の作品が僕の心を動かしてきた。ドフトエフスキー、エヴァンゲリオン、R.E.M、ペイヴメントカフカ機動戦士ガンダム、今ならシェイクスピアモデストマウス。こいつらは僕を救ったか? こいつらなしでも僕は人生を運営できるんじゃないか? 本当にお前らは価値があるのか? 今書きながらレディオヘッドのハイ・アンド・ドライをレコードで聴いているが、救ってくれたのかは分からない。だが、やはり素晴らしい。ここまで僕を痺れさせるものはそうない。だが痺れさせることの意味は? 痺れるっていいことなの? 無限の問いに答えてくれる者はいない。問いが、どこまでも空虚にしていく。価値を藻屑へ変える。だが、それは言語にするからだ、「痺れる」とかいう言葉を使うから悪い。感覚はそんなこと言ってないし、言わない。「今感じているこれ」はいいものだ。言語を封じ込めるのは、いつだって非言語ということだ。そうだ、表現は救いも痺れさせたりもしない。ただ「感じさせる」のだ。それにとやかく言う必要もないし、そもそも言葉でないから口出しは出来ない。だがそうであっても「理由なき好き」とはまた違うものだ。世界に対する相対化の機能も、意味と無意味の線引きもしてくれない。ただただ、情動的な情報。究極の幸福であり、地獄の空虚。僕はそこに価値付けられない。ある意味では絶対性の極地であるが、ただのゼロでもある。

ここまで書いて思うのは、僕が思うことは、表現は僕を救ってくれなくとも、僕に世界を見せてくれるのは表現だけだということだ。脳科学者ラマチャンドランは、表現とは現実をディフォルメすることで現実よりも現実らしくすることだと言った。僕は論理レベルではなく、実感としてよく分かる。現実は何一つ取り留めを持たない。無秩序だ。だが、表現には理論があり、要素を操作していく物なのでまとまりを持つ。そのスコープを通したとき世界を、人生を理解できるのだ。そのことにどんな価値があるか分からない。別に理解する必要性はないとも言える。でも確かに、僕がよく分からなくなったときに、理解が何もできないときは、表現が教えてくれた。感覚を通じて感じるままにいることと。そしてそのとき見たものは、描かれていた景色は、言語を失したなにかこそ、僕の心を読んだかのような「答え」だったのだ。

 

 

 

終わり。人生なんてくそくらえだ!(なぞの怒り