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そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

ポテチの美味しさについて話すつもりでした……

僕は山形在住で、今からクラブイベント(デイイベなので2時スタートだ)を聴きに行くのため仙台に向かっている。当然だが身軽な方がいいわけで、いつもは持っていく本もゲーム機もないから、音楽プレイヤーと携帯電話と財布しか持っていっていない。音楽聴くにもずっと聴くのも微妙だし、財布で暇を潰せるほど変態でもないので、携帯を使うしかないのだが僕は携帯で時間を潰せないのだ。やることといったらTwitterのTLを見て2chを見てメルカリで掘り出し物を探して終わり。である。10分とかからない暇潰しだ。 そのせいでブログを書かざるを(書きたいのではなく暇すぎて書くことでしか凌ぐ手段がない)えない羽目になっている。ちなみに充電が残り19%である。イベントは9時半までやっているからあえなく片道切符である。
自分は甘い飲み物が好きだ。だから電車に乗る前リプトンのリモーネティー(実際はアイスレモンティー)を買って車内で飲み、「やはり午後の紅茶レモンティーより格上だ……」と脳内で確信していた。
ここで問題なのだが、味覚に客観性はあるのだろうか? 美味かそうではないかかの判断に好み以外が作用することはあるのか?
カルビーのポテトチップスうすしお味は客観的な視点からみて優れている」この命題は真なのだろうか。偽だろうか。客観とはなんだろう。主体以外の存在による評価だとすると、それはどこに依拠するのか?
そもそも、僕らは物自体を物自体として描出できない。「りんごは赤くて丸い。」この命題は真だ。でも赤くて丸いはりんごの一要素でしかなく、りんごというものと赤さと丸さが全く等しいことではない(匂いがあり、味があり、赤さにもそれぞれの個体に微妙なディティールがあり……)。「りんごはりんごだ。」これもまた真。でもこれはなんの意味もない同語反復であり、馬鹿なおうむ返しだ。
だから物を考えるとき、捕らえるときは代わりのものでしか表現できない。「小学生のとき好きな女の子のリコーダーを舐めた」という典型的なキモいエピソードがあるが(中学生のときこの話をネットで見たときは人間の卑劣さに絶句したものだ)、これはただの縦笛から女の子の残影をなんで見出だせるんだよ! と普通思うだろう。
ただ、直接話すことで、触れることで彼女の本質に迫れるだろうか? 結局「彼女の本質は○○だ」と言い表すことはできない。そして本質とはなにか。客観的な物の本質は実在するのか。
ここまで言うと本質自体がないという風に持ってってるように見えるが、それは論理で考えるがゆえの語謬なのだ。ていうか、何かに魅力を感じることは本質に惹かれることに他ならない。今19以上の人は中学生高校生に感動した作品を思い出してみよう。あのときの、はっとしてその作品にひたすら釘付けになり終わったあとの心地よい余韻。それはメロディが良かったとか、ストーリーが良かったとか、役者の演技の迫力が、とかそんなちゃちなものじゃないだろう。もっと本質自体に引き寄せられる感覚があったろう。人間失格の良さは「人間失格が良かったから」と本当は言いたいだろう。でもそれを他人に発信しても意味がないから言わないだけだ。

だから、美味しいか不味いか、この映画はいいか悪いか、好きなのか嫌いなのかを語るときは常に客観性への憧れと本質自体からの乖離がつきまとう。あるはずのない客観的な本質を持たせようと論理を持ち込み、いかに冷静で知的かをアピールし、そして本質からは限りなく遠ざかる。皆客観性を手に入れようと躍起になる。あの手この手で好きなものを変形して言い表して、自分以外をねじ伏せようとする。そしてこれには終わりがない。考え続けても他人に本質を伝えることは叶わずに、死ぬ。だから優れた批評家とは本質の時点が既に論理的なんじゃねえかとも思う。

なんか単にポテチの美味しさを語ろうとしたらやたら堅苦しくなってしまった…… いやほんとにポテチとジュースが好きだからそれについて書こうと思っただけ「だった」。 信じて! まあ、実際カルビーは完成度はピカ一だが、出来が良すぎてつまらない感はある。ロックでいうならストロークスは素晴らしいけどいまいちはまれないのと似てるかな。
だからピザポテトを研究してたけど、あれはただただ俗悪であることに気付いてやめた。出来の悪くてひねくれてるやつには受けのいい変態小説みたいな感じ。
個人的にあみじゃがは傑作だと思うのだが、ポテチの軽やかな食感が失われてるのが痛い。だがあのじゃがいも感はかけがえがないと感じるところだ。カラムーチョは辛いもの好きじゃないから除外。僕にはリテラシーがない。なんだかんだ堅あげポテトに行き着く気もするが、それはそれでつまらないような…… ま、最後に論旨を語れたのでよしとする。