そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

人生の意味とは、あなたの妄想です!

うわ、半年以上ぶりになっちゃった…… もはやいつも通りがなんだったのか覚えていないが、いつも通りいくぞ!

 

作品を一本書き上げたので、こうして舞い戻って来ました。元々は文章の練習目的で作ったブログだけど、昔と違って執筆が習慣的にできるようになったので今は羽休めの場所みたいになってしまった。ま、これはこれでいいだろう。あまり思想的ではなくなったので、語ることもそんなにないし。

こうしてブログを書いていると、一年も経っていないのにどこか懐かしさを感じる。僕ははてなブログの編集画面に直打ちで記事を書くが、いつもと違うインターフェースが特別感を演出させてくれる。心憎い奴め。調べてみたら最初の記事は2016年の9月だった。そうか、もう三年半経つのか…… ブランクは大量にあれど、意外と続いているものだ! 今は次の作品のプロットを練っている段階だが、あと一週間もすればまた書き始める気がするので、そしたらまた書き終わるまでおさらばだ。

懐かしい気分なので、サービスで昔よく取り上げた題材をもう一回話題にしようと思う。あんまり過去の再生産は好きではないが、作品を終えて頑張った自分へのご褒美としよう。テーマは、お決まりの「意味と無意味」である。どんだけこのことについて言及するんだって話だが、正直僕自身は興味がなくなっている。最近は実際に執筆する際の理論についてばっかり考えているので、話すことがなくお得意の話をするしかないわけだ。つっても、前よりは違った考えにはなってるんじゃないかな……?

以前僕は、人生の意味についてこう答えた。「生きる意味は人間にないが、生きていることに『価値』を与えることは出来る」記憶を頼りにした完全にうろ覚えだが、こんなことを言っていたはずだ(多分)。所詮自分の意志で生まれていない以上、意味はないだろう。しかし、人生を楽しく愉快にすれば自分の生に対して「価値づける」ことが出来る。今でも、この考えは間違ってないと思う。本質的に無意味であるのは事実だが、自分で良いと思えれば何の問題があろう? 

確かにこれは正解だ。だが、「そのことを承知したうえで、生きる意味を探すべき」だと今は思う。「生きる意味がないのになぜ探す必要がある?」と誰しもが聞くだろうが、その通りではある。だが、違う。いくつか理由を言うと、そもそも生きる意味がなしで人の生は成り立たないのだ。意味がないことは事実だ。しかし、意味のない人生は根本的に脆い。もし、快楽的に楽しい人生を送ることに価値を置いた場合、楽しくなくなったらその人の人生は藻屑と化す。価値の弱さとは、自分の価値を失った瞬間に全てが崩壊することだ。意味と価値の違いは、シンプルに言えば「意味は生きる意義を生むが、価値は意義を生まない」ことだ。だから意味を求めなければならない。意味がなければ「意義づける」ことは叶わない。意義がなければ、人生に影が落ちたとき救い出す手立てがない。とはいえ、意味がない以上見つけること自体が不可能だと思うだろう。そう、不可能だ。この世界に意味はない。そういったバラバラの不連続な現実に我々は住んでいる。しかし、それでいい。

僕は臨床心理について勉強しているが、トラウマを解決するのに重要なことに「意味を見つける」というのがある。例えひどい虐待を受けようと、悲惨な事故によって肉親をなくそうと、意味を見出さなくては解決は困難だ。父親に暴力を振るわれ続け、母親が無視を決め込んでいても、悪夢のような日々に対して意味を持たせなければならない。分かりやすい例をあげるなら、「両親にやられた分、自分の子供には過ちを繰り返させない」と固く決意して、経験として捉えていく方法がある。もちろん違った解決法はいくらでもあろうが、意味と解釈による治療法は快方へ向かう強い原動力となる。だが、ここでいう「意味」とは所詮幻想にすぎない。結局のところ、虐待にあわないのが一番いいに決まっている。もっと残酷な言い方をすれば、「自分に都合のいいように解釈」しただけだ。でも、そうでなくてはならないのだ。意味がなくとも、作り出した意味が幻想だろうとも、やらなくてはならない。意味がないというのは厳然とした事実だ。だが、僕から言わせれば「意味がない」と断ずるのは「簡単なだけ」だ。例え意味が存在しないと理解していても、世界が無意味であると実感していても、自分なりの生きていく意味をひたすらに探していく必要がある。僕が語っているのは論理ではない。客観的には間違っているからだ。ゆえに、僕の意見も間違っていると考えることもできるだろうが、僕からも一つ言えることがある。「自分の人生を生きる」とは、究極的に主観的なテーマだ。そもそも、そこに客観性を求めること自体が間違っている。自分がよりよく生きるためならば、いくらでも幻想を抱いていいのだ。嘘だと分かっても、満たされていればいいのだ。社会的な活動の際には客観性はあるべきだ。しかし、自分一人の世界に客観性などいらない。人から見たら間違っていても、「自分は正しく、この世界を生きるに足る人物だ」と断言できるのなら、そこには何一つ間違いはない。

僕たちに必要なことは、「自分と世界を区別する」ことだ。確かに、自分は世界の中の一要素だ。だが、自分自身の生き方とはいくらでも間違えていいのだ。「私はこれでいい」と思えるならば、それ以上に正しい答えは存在しない。個人的なことを言えば、僕は正しさという価値基準に興味がない。何が正しいかなんて僕にはさっぱりわからないし、正しいことをやり続けるのが正解とも思えない。無意味だと断じて踊り続けるのも、正しさだけを求めて途方に暮れるのも、もういいだろう? 虚しさと向き合い、不敵に笑ってみせるのも、もう疲れたろう? 本当に必要なことは、心から安心できることだ。穏やかな気持ちで、流れる風に安らぎを感じることだ。どんな人生を送っていても、安寧を得る資格がある。根拠もなく全てを認め、自信をもって世界と繋がることが出来る。そして、そのためならば、僕はどんな手段も選ばないだろう。

 

 

この辺で終わりまーす。久しぶりの割にはキレがある…… と思いません!?(凄いキラキラした目をしている)