そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

世界と現実の差異、主体と人生における関係性と両者がナラティブを学修することで得られる永続性について

タイトルはかっこいいことをいいたいだけです、それではどうぞ。

 

どうにも、俺は盲目的になれない質のようだ。
 そう思うのは特別なきっかけがあるわけじゃないが(思考や行動に動機を求めるのは『不純』だ。現実は道徳の作文でも就活の『大学生活で学んだこと』でもない)、とにかくそう思ったわけで、そうなると考え続けずにはいられない。盲目的になれない理由ははっきりしている。俺は「絶対的な価値」を信じられないのだ。これまで書いてきたように価値なんてそれぞれが勝手に決めているもの、というのが大前提にあるため良いと思うものも「これは俺が良いと思っているだけ」という感触がつきまとう。比喩的に(もしくは本質的に)言うならば「神」を信じられないのだ。神=個々人における絶対的価値、と置き換えたときに信ずるものがないということだ。敢えて言うなら感覚が俺の中では「神」の座に最も近いが、それも結局は「感覚こそ各々が神を信奉するに至る論拠であり、であるからこそ絶対的でもある」というロジックに過ぎない。絶対性とは、もっと無根拠でなければいけない。「なぜこの神を信じているか」にいちいち理由を求めてはいけない。
 それが、どうしても嫌なのだ。なぜ何も考えずなにかを求め続けられないのだろう。いや、求めるのは出来る。ただそれは衝動性がもたらすもので、対象に対して愛着があるというわけではない。理由もなく好きといいたいのだ。訳もなく見蕩れてみたい。意味もなく後ろを振り向いてみたい。信じられないほど信じてみたい…… 僕は内実が信じられない。普遍的な真理は、構造にはあるかもしれないが思想には存在し得ないと考えるから。「その事象はどのように現実としてあるのか」は語れるが、「その事象はどんな現実であるか」は語れない。なぜなら現実は描写できないから。ゆえに内実は見えない。そうだ、だから最後には空っぽになるのだ。世界と僕の両方が。空っぽだ…… 

 

僕が何もかも意味がないと思うのはそこにあるのかもしれない。「理由なき好き」とは究極的に主観的だが、だからこそ主体の中で極限的に価値を持つ。いわばそれこそが、自分自身の「エリア」であるから。空っぽとは「エリア」が、幻想であったとしても内実が、中身がないということだ。そして同時に一貫性を失う。世界に対する位置づけを失い、意味のあるなしでの判断が封じられる。理由付けしか出来ない者は、世界「を」相対化できても世界「に対して」相対化できない。主体が世界に対して一貫性を持つときは、常に自分の中の意味による比較なのだから(物語もそうだ。そしてそれ以外に物語の意味はありえない)。ただ、僕はそれが嫌いになれない。「理由なき好き」とは主体にとっては最大の愛着だが、同時に最大の呪縛だ。「好きになれずにはいられないし、嫌いにもなれないの」だから。何もないとは、何をしてもいいということでもある。脅迫も恫喝も存在しない世界なのだ。その代わりなにをしても無意味だ。一昨日、友達が「俺は意味のないことをしたい」と言っていた。そのとき例示したのは、終電を逃してしまい、深夜に17キロ歩いた後背中から朝日が上がった瞬間についてだった。確かに素晴らしい。だがそれをしたい時点で意味があるのだ。少なくとも有意義だ。

 じゃあ僕はしたいことがないのかというと、流石にそれはない。このブログを一年以上続けたのだし、そこは「したかった」のだろう。ここで僕は自分に問うことになる。他人にはその意味が分からない、「エリア」のなかの問い。僕は、表現が好きなのだろうか。一般的に見たら好きなんだろう。音楽と文章に関しては、明らかに鑑賞しているほうではある(一日平均30分も読まない奴が、本当に? と思う方は「一般人」の世界を知らない人です)。だが、ここでは一般論は意味がない。僕の話だ! さてどうだろう。好きか、と言われると答えに詰まる。昔なら断言していただろう。今はなんだろう。他にやることがないだけ、だから? そうともいえる。逆にみんなはなにをしているんだろう。暇つぶし? なにを以って暇と呼ぶかによるが、退屈しのぎになるのは確か。救われるから? 表現は、結局僕を救っているんだろうか。僕は表現に救われているんだろうか。数々の作品が僕の心を動かしてきた。ドフトエフスキー、エヴァンゲリオン、R.E.M、ペイヴメントカフカ機動戦士ガンダム、今ならシェイクスピアモデストマウス。こいつらは僕を救ったか? こいつらなしでも僕は人生を運営できるんじゃないか? 本当にお前らは価値があるのか? 今書きながらレディオヘッドのハイ・アンド・ドライをレコードで聴いているが、救ってくれたのかは分からない。だが、やはり素晴らしい。ここまで僕を痺れさせるものはそうない。だが痺れさせることの意味は? 痺れるっていいことなの? 無限の問いに答えてくれる者はいない。問いが、どこまでも空虚にしていく。価値を藻屑へ変える。だが、それは言語にするからだ、「痺れる」とかいう言葉を使うから悪い。感覚はそんなこと言ってないし、言わない。「今感じているこれ」はいいものだ。言語を封じ込めるのは、いつだって非言語ということだ。そうだ、表現は救いも痺れさせたりもしない。ただ「感じさせる」のだ。それにとやかく言う必要もないし、そもそも言葉でないから口出しは出来ない。だがそうであっても「理由なき好き」とはまた違うものだ。世界に対する相対化の機能も、意味と無意味の線引きもしてくれない。ただただ、情動的な情報。究極の幸福であり、地獄の空虚。僕はそこに価値付けられない。ある意味では絶対性の極地であるが、ただのゼロでもある。

ここまで書いて思うのは、僕が思うことは、表現は僕を救ってくれなくとも、僕に世界を見せてくれるのは表現だけだということだ。脳科学者ラマチャンドランは、表現とは現実をディフォルメすることで現実よりも現実らしくすることだと言った。僕は論理レベルではなく、実感としてよく分かる。現実は何一つ取り留めを持たない。無秩序だ。だが、表現には理論があり、要素を操作していく物なのでまとまりを持つ。そのスコープを通したとき世界を、人生を理解できるのだ。そのことにどんな価値があるか分からない。別に理解する必要性はないとも言える。でも確かに、僕がよく分からなくなったときに、理解が何もできないときは、表現が教えてくれた。感覚を通じて感じるままにいることと。そしてそのとき見たものは、描かれていた景色は、言語を失したなにかこそ、僕の心を読んだかのような「答え」だったのだ。

 

 

 

終わり。人生なんてくそくらえだ!(なぞの怒り