そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

面白いことを言うために徹夜するのか?

今日は5時に寝て9時半に起きたためやたら眠い。おかげででかいあくびが頻発する。あくびは脳が酸素を取り込むみたいときにしてしまうらしい。つまり、積極的にあくびした方が脳は活発に活動するはずだ。そのことを思いついたので、すげーペースであくびしまくっているが、いい感じに頭がさえる気がする。間抜けなのを除けばいいメソッドだ。
ただ、脳の健康の度合いがどれほどパフォーマンスを向上させるかは謎だ。偉大な表現者も徹夜したり不規則な生活を送っている人は多く、脳が不健康でもさりとて問題はないようにも思う。実験で徹夜すると作業能率が低下するのは実証されているようだが、創作行為には影響を及ぼさないものなのだろうか。単純作業のような注意力の要する作業と違い、創作行為は閃きが強く関与するからなのか。たしかに、疲労していると健康なときとは違う閃きが生まれるケースはありうる。「脳の思わぬ電気的結合」を意図的に起こすために、表現者は様々な状態を試して閃きを意図的に作り出しているのか? 境界性スペクトラム統合失調症の患者は独特の特徴が見られるらしいが、生活スタイルの違いも表現にある傾向をもたらすのだろうか。早寝早起きと昼夜逆転型のタイプ分けが一種の意味を持つのか? 暇な人は誰か考えてください。

おしまい。僕は日が変わるまでには寝て、6時には起きる健康優良児です。でもそのわりに不眠症になったりする。どうすりゃいいんだよ!!

過ぎたもの、刹那にあるもの、いずれ来るもの、一番大事なのは?

 「オタサーの姫~」シリーズのレビューをしたら作者にとりあげられていて、まあ嬉しい。僕も偉くなったもんである。三巻のレビューもしてやろうか(上から)。

 

 卒業製作が終わらない。製作に集中すべくブログを放置していたらこの様だ。今第三稿を出した余暇を使って書いている。それにしても、文章を書くのはなぜこんなにもめんどくさいのだろう。何を書くのか考えるのも、どのように書くかも、実際にどんな言い回しを選択するか、全部めんどくさい。創作行為自体が人間には手の負えないあまりに難解で複雑な処理を要求しているのは間違いないと思う。いくら理論を積み上げても、創作とは魚釣りのようなものだ。間違いなく面白くなる手順はない(しかし、ハリウッドやディズニーの製作理論やスタッフ編成を見てみるとたしかにある程度面白くなるように出来ていると思う。これは驚異的であり、人類の叡智と言っても決して過言ではない。「あの」表現をある程度解明したのだから)。そんなのに対してやる気が出たりする訳ないのだ。表現を鑑賞するのも、あんな意味不明なものは感じたくない。僕から言わせれば、東野圭吾の小説すら本来的には分析不能だと思う。そもそも分析という行為自体が表現の本質を壊しているのだから。

 でも、最終的にはまた執筆するハメになり、分かるはずもないテクストと向き合ってしまうのだ。現に今ブログを書いているのもそうだし。なぜそうしてしまうのだろう。少なくとも、僕の場合は逆に分からないからやっているのだ。ゼミの教授曰く、人は知っていることの方が知らないことよりやりたがるものらしいが、僕はむしろ知らないことにしか興味がない。知ってることは所詮反復運動でしかないとすら感じてしまう(ミニマルミュージックは大歓迎なのだが)。表現はその点いい。毎回違うものと出会えるのだし、書くときも新しい境地で望むことができる。その分クソ大変ではあるが、まあ楽しい。これは僕が極端に現在志向の人間であることも関係するだろう。今がどこまでも新鮮でありたい。その欲求だけで僕は生き続けている。面白そうなことが十生分くらいはありそうなのは幸いである。ただ、過去が好きな人は自分の過去を本当に活き活きとした語り口で話す。僕は記憶力はいいが、出来事をひたすら覚えているだけでどんな感じだったかはほぼ抜け落ちている。過去志向の人間は、過去の自分の情動を覚えているから、思い出を大事にしているのだろう。そういう見方で行くなら、僕にとって過去は残骸のようなものになる。こわっ。さすがこんなんじゃないぞ。面白いのだと、来世を信じている未来志向の奴もいた。未来の予測不可能性をポジティブに捕らえて楽観的に生きるスタイルが先鋭化したのだろうか。

 最後に、この三つの志向をいい悪いでまとめるとこうなる気がする。

いい過去志向 現在から過去を汲み取り、過去から現在までの軌跡を追うことが出来るため、時間的に豊かで幅が広い。

悪い過去志向 相対的なものの見方しか出来ず、過去の体験より劣るとそれだけで価値が無くなる。ひきこもり的。

 

いい現在志向 今の判断と行動が全てなため活動力が高い。人生のライブ感が高い。

悪い現在志向 あらゆるものを切り捨てがちで貧相になる。即物的で短絡的。

 

いい未来志向 未来に対する意味のない不安を取り除ける。現在への不満を軽減できる。

悪い未来志向 未来の予測不可能性に頼って現在と過去から逃げ続ける。逃亡的。

 

一種の性格におけるアーキタイプっぽくなったが、あてはまるものはあるかな?

 

 

 

 

 

オタサーの姫と恋ができるわけがない。シリーズを二巻までレビュー

 君の名は。の感想を書くときは有名すぎるからそんなに力を入れて書かなかったが、今回の対象となるシリーズはそんな有名ではないから力をいれようと思う。一巻はそうでもなかったが、二巻は目を見張るものがあったのでレビューするに至った。

あらすじ。とりあえずアマゾンから一巻を引用。『神園心路は高校入学を機に“バカにされようともオタ充になる”という目標を掲げていた―「あのね、ヒメ、心路くんの彼女にしてほしいの」―って入学早々に告白イベント!?だが、相手は『オタサーの姫』として学内で有名な花咲百合姫で!?しかも彼女は“二次元以外ありえない”と昔フッてしまった幼なじみ!?そう百合姫は心路の理想のヒロインになるため、オタク修行して現役ラノベ作家にまで昇り詰めてしまったのだ。心路は彼女のお願いでニジケンの復興を手助けするのだが―「色々危険だから勧誘は女子限定な」「うみゅ、まさかハーレムを作る気なの!?」するとオタクな美少女が次々入部してきて!?』

これだけ読むと底が浅い作品のように思える人もいるだろう。が、オタ充(オタクでリア充)という言葉の意味合いが二巻で面白い成り行きを見せる。

 タイトルとあらすじから一見するとヒロインである花咲とハーレムでありつつも花咲が選択される、いわゆる正ヒロインとして選ばれる物語であるように見える。しかし、主人公の神園は花咲の「好きになってもらうためにオタサーの姫になった」ことに「それはどうなんだ?」と疑問を投げかける。もっと言うなら、そもそも異性として魅力をあまり感じていない。幼なじみという一点以外では全くヒロインとしての魅力を持っていないのだ。一方同じクラスでよく喋り、二巻以降は一緒に登下校することになる空野継未に神園は淡い恋心を抱く。しかし神園はもし隣の席にいたのが違う子だったらその子に対して同じように恋愛感情を抱いたろうと推測する。一方で神園は花咲に幼なじみであるがゆえの「唯一性」に惹かれる。幼なじみという事実自体の運命性に心奪われている。 

 そのため、神園は空野に「リア充的な」三次元としての恋愛対象として魅力を感じるが、「オタク的な」唯一性、運命的な要素に欠けるため彼女が充実した人格を持っていてもそれが代替可能なように思えてしまい決定的な恋愛感情に至らない。大して花咲は「オタク的な」要素は十全に備えていても「リア充的な」現実の人間としての魅力が乏しい故実際に付き合えるかと問われるとまた別の問題になってしまう。このことから分かる通り、オタクとリア充は神園の中でジレンマと化してしまい、共存不可能である。つまり「オタ充」という言葉は、そもそも二つの単語の合体すること自体の矛盾を字面で体現している、呪縛である。当然ながら、オタクでなければ空野が選ばれるだろう。ここで作者が(恐らく意図的ではないにせよ)徹底しているのは空野と神園にはっきり恋愛感情を抱かせるためのイベントを用意しなかったことである。恋愛を創作するとなるとどうしてもそういう「ときめくための」イベントは必要になりやすい。特にハーレムものでは主人公の魅力をエピソードに凝縮して手っ取り早く惚れさせる(ここで惚れるとめでたくチョロイン!)手段が用いられる。しかし空野と彼においては「よく喋っていた」という事実が全てである。だとしても、現実の恋愛も恋愛感情を抱く前から大抵良く喋っているものであり、そこから恋愛に発展するのは違和感のあるものでもない。花咲との恋愛を幼なじみという「形式」だけで描くのに対し、空野とは実際の会話の積み重ねによる「実質」こそが肝になる。この対比も正しく二次元と三次元を表現していて、きれいに構造化されている。

 花咲の好きになってもらうためにオタサーの姫になることはストーカーじみている。神園はそれを感づいてか花咲の求愛活動が「理想的な二次元」であることを認めつつも「それはどうだろう?」と疑問を呈す。花咲は神園の欲望に答えたに過ぎないが、かといって断る権利は当然ある。しかし、神園は振った罪悪感から微妙な位置に花咲を置く。このことを神園と花咲の所属するニジケンの部員でありハーレム要因の雪村からバカと形容される。このとき神園に「――自分が選択した行動の全てに罪悪感を覚える病気。――自分が影響している森羅万象に、重圧を感じる病理。――言ってしまえば、中途半端にリアルと関わってしまったオタク。あるいは中途半端に二次元に拘っているリア充」と言っているが、本質を一筆書きのように描いた発言である。神園は中途半端すぎるから呪縛にあう。空野は二兎を追うものは一兎も得ずと例える。神園はそれに対し両方無理ならそのときは諦めると答える。空野は神園に現実的な対応策、「自分が彼女になること」を考える。自分の欲望も叶えられるから、正しく現実的なのだ。

 神園のオタ充の呪縛が最大限に発揮されるたのが二巻ラストである。花咲は小学生、一巻出だし含め三回目の告白をするも、振られる。花咲は言う。「ヒメが心路くんの理想を完璧に、再現できていたら……継未ちゃんと、噂になる暇すら与えなかったのに…… でも、ヒメはまだ、心路くんの理想のヒロインになれていなかった……」彼女は病的に「形式」にこだわる。そうでなくては、二次元になれないからだ。花咲は文化祭までお試しに付き合うことを提案する。「アニメでいうところのとりあえず3話まで視聴」とまるで現実感のない例えを用いて。神園は承諾する。ここで二巻は終わる。

 

斉藤環はオタクは二次元と三次元を切り離すこと特徴としてあげていたが、このシリーズは「現実では見ないような二次元引きこもり型オタク」が実際の恋愛をすることの苦難が描かれる。実際主人公のジレンマは現実では滅多に見られたものではないだろう。いくらロマンチストなオタクでも、それなりな着地点に落ち着くものだ。二次元的なデフォルメをされたオタクが二次元と三次元の両立を図る、しかし作品自体は当然空想であること、その「現実(我々の世界)内に作られた空想(オタサーの姫という作品世界)の中のオタク(しかし現実のオタクとの対応関係がない架空のステレオタイプなアーキタイプ)がオタク(形式的なもの、象徴としての花咲)とリア充(実質的なもの、象徴としての空野)の両立の矛盾と戦う」奇妙に入り組んだこのシリーズがどこに行くのか、僕は非常に興味がある。みんなも読もう!

光だって闇だってきっとー、はやっぱかっこいい

アジカンバンプはいいバンドなのだろうか? 僕は好きだ。だけど、何がいいかと問われると答えにくい。メロディ? リズム? プレイヤー? どれも言いたいことはあるがしっくり来ない。
しばしばアジカンとかバンプは「漫画、アニメ的」と言われる。なぜだろう。それはアニメのタイアップが多いからではない。そのことは結果的にそうなだけで原因ではないのだ。そして大塚英志を採用しても仕方ない。(リアリズムと音楽は関係が希薄)じゃあなぜ漫画アニメ的だと感じるのか。それはフェティシズムではないのかと思う。つまり、かっこよさがこちらの感性を刺激することだ。
彼らの疾走感や独特な声、ちょっとした深刻さは個性的な世界観を立ち上げる。その「イカした感じ」が、なんかかっこいいのだ。もちろん、音楽として優れているかとは別物である。だが、思い出してほしい、漫画やアニメはかっこよければ、可愛ければ成立するものなのだ。カウボーイビパップは監督自身が中身がないと明言しているが、かっこいいからいいのだ。アニメとはそういうものである。それに、個性的な世界観とはそれだけである程度魅力になる。彼らにしか出せない音が好きなら、彼らを聴くことは当然なのだ。音楽的に優れているとはなんだろう。アジカンの雰囲気に呑まれることは悪いことなのか。そもそも雰囲気とクオリティは関係がないのか。彼らにはまだ研究の余地が残されている。音楽性ということの意味を考える上で、面白い素材になりうると僕は思っている。

男らしくなれない男たちの明日はどっちだ!

 僕は男だが、男らしいとは言われない。かといって中性的なわけでもなければ女性的とも思われていない。僕も生物学的に男であると認知はしているが、あまり男らしさにこだわった経験もない。というより、かっこいいとかかっこ悪いとか、洒落てるとかださいとか、そういう感覚的な尺度で物事を選択するタイプじゃない。単に面白いか面白くないか、だけである。だからイタリアのプログレとかもダサいと思わず普通に聴くし、ポーもすげー! って純粋に喜べる。小中学生的な審美眼である。

 しばしば言われる「男らしさ女らしさは押し付けられたもの」という概念。僕は特に精査してないからこれの真偽は分からんが、とりあえずこの考えが流布されて「社会から押し付けられた性から解放されて自らのいきたいように生きる」ことが一定の普遍的な価値を持つようにはなっている。僕としてはそういうのにこだわりはないのでご自由にどうぞ、くらいの気楽な気持ちで特に気にせず生きるのみであるが、このスタイルは一つの否定を生む気がする。

 もし女性らしくあることが社会的に押し付けられたものであるにせよ、押し付けられた女性らしさが女性にとって不利益をもたらすかはまた別の問題である。別に女性性とか関係なく専業主婦をしたい人もいるし、自主的にキャピキャピ(意図的に死語を使ったが、なんてダサい響きだ)した衣服を着たい人もいるだろう。だとしても、女性らしさから開放されることが至上命題なグループからは前時代的な思想にしか見えないだろう。抑圧からの開放の志向性は、常に抑圧から遠ざかることだけが念頭に置かれる。しかし、抑圧された状況こそが自分にとってフィットする環境であることは否定できない。だがそうであっても外部からは抑圧されたままでいる人として受け入れられてしまう可能性が高い。この問題は根深い。生きる上で選択するスタイルが他者から見れば押し付けられているように見えても、実際は違うケースはいくらでもありうる。奴隷という階級からは開放されてくても、奴隷としてこなしていた仕事は自分の適性に沿うものであるのかもしれない。

 最近ってこういう非抑圧的な立場、少数派や弱者を平等に持ってく運動が盛んだが、クイア理論にもあるように運動が盛んになるとその分反発も盛んになるジレンマを抱えてしまう。フェミニズムの一方で女子力って言葉が出来てしまうのは妙にシニカルだ。ていうか女子力って言葉ほど差別的な用語もないと思うんだが。女子力が高いってもはや女性性の数値化以外の何者でもない、最も非道な計量器である。それを女が日常的に使うってのが……(どんくらい流行ってるのか知らないけど、少なくとも僕の周りの女性で使ってる人はいる) 面白いのは女力なのではなく女子力なことだ。子である必要がある。少女でなければいけないのだ。

 一方草食系男子というよくわからん流行語もあった(僕はロールキャベツ系男子だけは結構上手い言い回しだと思っている)。もちろん本当に斯様な男が増えていたのかは知らない。ただ、こういった言い方が出来るということは印象的には増えていたのだろう。恋愛に興味のない男友達は何人かいるが、なんとなく、彼らは自らのセクシュアリティをどう取り扱っているか分かりかねている印象がある。ジェンダーというものが曖昧になっていく中というのは、性欲というものが対象を失う過程でもある。男と女がはっきりいれば、その二極が交接すればいい。今の若者が恋愛に積極的でないのは、二次元があることよりも、臆病なよりも、金がないこと(僕も本当に金がないっ!)と性が方向性を失っていることの方が本質を突いている。彼女が要らないというよりも、「友達ではなく彼女という異性でしかありえない関係の中で自分の身をどのように置けばいいのか分からない」というほうが正確であろう。異性らしさが失われたのに、異性としての付き合い方が分からなくなるパラドックスが発生しているのは中々に面白い。女子力を付けるという言い回しが良くなされるが、より女性らしくありたい発想が男側からは理解不能なのだ。男が男らしくあることは、どこか亭主関白で家父長的な前時代のイメージが濃くつきまとう。そうである以上、男は今の時代男らしく生きにくすぎる。「男らしくありたい男」は男性性と女性性ににおけるタイプの中でもかなり強く抑圧を受けている。そして男の難しいところは、ユニセックスなファッションが出来ないところがある。ボーイッシュな女は違和感がないのに対し、女っぽい男はどちらの性からもキモがられる(おすぎとピーコの罪は重い)。宝塚は女だから成り立つのだ。風男塾もそう。僕は今チノパンに縦ストライプの襟付きシャツを着ているから女でもそんな違和感がないが、これくらいが男の限界だろう。いずれにせよ、男は男らしいから外れると服飾の選択肢が減る。これは無視できる問題ではない。服装は自己表現の手段であり、そう見られる以上は。男はある意味で女以上に選択が狭く、ジェンダー上の迷子になりやすい。男らしい格好がいやなら女っぽい格好をすることは男では出来るにせよ恐ろしくやりにくい。もしかすると男性こそがジェンダーの狭間で揺れ動いているのかもしれないのだ。

 

以上。適当に書いてたけど意外とそれっぽく…… なった? 読み返すと序盤要らないね。僕は常々思ってるけど男もスカートをはくことに違和感がない時代が来ねーかな。ファッションの選択肢がそれだけでかなり広がるじゃん。ワンピースとかも着れるし(俺が着るとキモイのは当然だけど、それは先入観の問題であってね……)。書いてるうちに思っんだけど、アニメでボーイッシュな女が実は誰よりも乙女チックって設定、やめにしませんか? 

昨日の記事補足

 ラストシーンの必然性だが、実際はそんな意味のあるものでもない。必然=妥当ということであり、最後のシーンってみんなわかっていたことを具現化する、所謂サービスだよね。東浩紀への反駁が含まれていたから言っただけな感はあった。ただ、記憶を失ったのに何で覚えているんだっていうリアリティの問題は残る。もちろんこの作品にそういったリアルを求めることに意味があるのか、という疑念はあっても、記憶が作劇上で恣意的にコントロールされていたように感じられたのは否めない。「君の名は。」における問題点の一つだろう。僕も若干気にかかりはした。というか秒速五センチメートルもそうだけど、作劇っていうものを優先しすぎてリアリティが失われ(同時に作画によって現実感を補填していくのが新海のやり方のような気も)キャラクターが駒になっている感じはある。僕が言の葉の庭が好きなのは、最後雪野先生が今までの態度から反転して醜く泣くからである。この作品においては背伸びをやめることこそが彼女にとっての成長の証であり、弱さを露呈することで自分が前に進んでいくこと、しかし前に進むためには主人公という「靴」がいることを素直にいえたこと、同時に弱さを共有することで主人公の弱さをどこまでも許容するということ、そして何より彼女は晴れであっても構わず泣きはらしたこと、ラストシーンの号泣にストーリーの帰結、象徴的な成長の意味づけ、そしてあれだけ神秘的に、生活感のないキャラとして描いた後になりふり構わず行動すること、つまりそれがキャラクターが躍動することであり、新海の映像表現もあいまって感動的に写る。この瞬間我々はこの物語が彼女のために用意されたのだと分かるのだ。

 

こんくらいか。補足を書こうとしたら言の葉の庭の批評になったが、まあ良い。

「君の名は。」感想

 昨日「君の名は。」の話をしていた。

 友人は東浩紀を引用してきた。どうも彼曰く、「ラストの二人が出会うのシーンは運命の人と結ばれることを描出しているのではなくなぜ運命の人に出会ったと思いこむのかの理由を描出している」らしい。確かに、ラストシーンは彼の言うとおりキャラクターの描写にも妙な現実感があるようにとれる。ただこの批評はいまいち意味の分からない点も多いような気がする。確かに二人は互いを知らないから、出会いはただのインスピレーションのレベルでしかない。つまり片方しか思ってなければストーカーである(恋愛というのは全く同じ行為でも双方向か片方向かで意味合いが真逆になることでえお示唆している)。つまりラストシーンまでのことはなんも彼らの記憶にないわけで、二人にとっては運命的に感じられることの原因を知っているのは視聴者のみである。だからこそ二人が意を決して「君の名は。」って言うシーンで「よく言った!」みたいな決断に対するカタルシスがあるわけであり、そこから二人の始まりが、彼ら二人にとっては正に今から積み上げられる関係の始まりとして表現される。

 まあ、徹底的に俯瞰して考えられているといえる。相手がどう思っているか分からないという恋愛の確証性のなさとそれでいて我々はその縁をしっているもどかしさ、何も知らない相手でも思い切って喋る決断の素晴らしさを描く上でこの批評はそれなりの説得力を持つと思う。ただ、僕は異論を言いたい。

 僕にとってこの作品の面白さは単純に「死んだ人間を現代に引き上げて出会うことのダイナミズム」じゃないかと思う。三葉は実質的には蘇生といってもいいわけだが、彼らは実際にあったわけでもなく、死それ自体は三年前の出来事である。だから、(比喩に頼ってしまうが)天の川をはさんでいるような断絶された環境にある。それでも「昔に死んだ会ったことすらない田舎に住んでる彼女」に対し主人公の「今を生きてる彼女に会いたい」という今⇔昔 田舎⇔都会 会ったことがない⇔会いたいという風に全部を乗り越えていくこと自体の面白さじゃないかと思う。だから、片割れ時に二人が会うとき二人は声を頼りに違う時空を同じような身振りで「手探りに」求め合う。忙しないカメラワークの中で。違う時空でも、会ったことがなくても、組紐の「結び」と劇中にあったように「私の中に君がいて、俺の中にお前がいた」というある意味では最も強烈なつながりを頼りに二人は出会おうとする。そういう意味では、僕の中でラストシーンは妥当なのだ。秒速5センチメートルと違って「過去の君を現代の東京に」引き上げることが出来たんだから。だったら「君の名は。」って呼びたくなるじゃん! 多分それは記憶がなくても決断することなのではなく、巧みな作劇がもたらす必然性なのだ。そう、やっぱりハッピーエンドだ!

 

おしまい。僕自身この文章書くまでは「言の葉の庭」が一番好きだったけど、案外「君の名。」もよく見えてくるな。ちなみに一番すきなのはテッシーだよ。