そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

首を後ろに向けたとしても

 いい感傷性とはなんだろう。何回も何回も書いて考えたが、やっぱり最初の「幼稚なナルシシズム」が一番正確な気がする。こう書くと物凄い悪口に聞こえるが、僕からすれば最大限の賛美なのである。ナルシシズムとは、極限まで自意識過剰になることだ。自意識に向けすぎて、最終的に訳分からなくなっているところに感傷性の素晴らしさはある。例えば声。自分の声は客観的に認知できない、全く主観的なものだ。そのため、意識的に歌うとかえってつまらない。その際に、ナルシスティックに歌うこと、つまりはどこまでも自分の声に「酔いしれる」ことが(実際は知覚できてすらいないのに!)最も感動的な「歌唱法」足りえる。ビリーコーガンの声を聴いたことがあるだろうか? あんなに「あまあまでクサい」歌い方は無二だ。だがボーカルスタイルを突き詰めるメソッドとして、あれほど有効なものはない。それに、感傷性とはすべからく「あまあま」なのだ(最高級の誉め言葉)。僕がレディオヘッドの後期がそこまで好きになれないのは、段々演奏とトムヨークの声がちゃんとしてくるからだ。ザ・ベンズの、「お前ら自分が何してるのかわかってんのか」と言いたくなる程の自己陶酔が、この上ない美しさへと昇華するあの様が僕は気に入っているのだ。

文学及び(ストーリーのある表現全般)でも、感傷性は良いものだ。自己陶酔、自己性愛は、自己嫌悪の裏返しである。感傷とは、どこか過去を振り返るっている感覚がある。今起きている事柄ではなく、終わったものに対する郷愁に似た感情。セリーヌ「夜の果てへの旅」において、あのラストの途方もないエモーションに、どう説明をつければいいだろう。主人公フェルディナンの、ナルシスティックに過去に憧れつつ、とぼとぼ歩く様。ここには自分への嫌悪感と陶酔が一体となり、過去を見つめる無力な一個人の存在が鮮烈に描かれる。嫌悪と陶酔、どうしようもない現在と、どうすることもできない過去。文学の本質である両義性と矛盾を描出するのが感傷性なのだ。

 だから、悪い感傷性とは意識的であることに他ならない。ナルシシズムに「幼稚な」と付けたのは、自己に向かう自分とはいつだって幼稚だからだ。そりゃそうだろう。自分のことなんてくどくど考えてもなにも解決しないから無駄だ。中学生かよ。しかし表現において「くどくど考える可哀想なあたし」は、とても魅力的に映る。ただ、その条件は「感傷性の本性たる幼稚さが顔を出すまで徹底的に酔いしれる」必要がある。サブカル系の「ちょっと人と変わった僕の日常」みたいな作品がしょうもないのは、感傷的なのがうざいからではなく、その逆だ。「お高く止まっている」からである。本当の感傷はもっともっと安っぽくて甘ったるくてナルシーだ(ほめてるよ!)。だから、「恥ずかしいことを恥ずかしいと思うことが一番恥ずかしい」というのが僕の持論だ。ロックを見てみろ。なんてダサくてあまあまでこっぱずかしくてキメキメなんだ! しかしそうであるからこと、表現の本質をつく。ロックスターは「僕そのもの」と思わせるだけの魔力を持つ。そして、僕も恥を忍んで「恥ずかしく」文章を書く。キメキメのフレーズを入れていく。その恥ずかしい言葉遣いを使うことこそが表現として良いものになると信じ、誰かの胸を打つのだと確信しているのだ。

 

終わり、なんか第一部と全く変わらない気がするぞ。

第二部のテーマが分からねえ

 最近月2更新になってしまい、俺のやる気のなさが伺える。しっかりしよう。

 第一部完! なんて言ってしまったせいで、今まで違うことを言おうと画策しすぎてしまい更新が遅れた感はある。一時期今までの理論を活かしつつ、自分自身のことを主観的に書こうとも思ったのだが、想像以上に病的でかつ理解が一切得られそうにない上、面白くもないという史上最悪の結果になってしまった。新しい方向を募集中ですので、コメント待ってます。

 次の方向性を考えることは確かに難しい。永野護の名作「ファイブスター物語」では「天才は名作のその先を見る!」みたいな(うろ覚え)台詞があったがその通りで、名作とはその方向性を極めつくしたから名作なのであり、天才は、名作の次を名作を作る時点で見ているのだ(名作を作った時点で天才というツッコミは置いといて。)僕の場合名作を作ったわけでは勿論ないが、一旦この方向性を取りやめにするのは確定してしまったので「その先」を見る段階に入ってしまった。しかしこれが難しい。思いつきはする。一つの作品をとりあげてレビューするとか、ちょいエッセイ風味なモノをだらだら書くとか、いくつか考え付くのだがなにかしっくり来ない。元々のスタイルとして抽象的なスタイルが好みなのだ。一般と抽象を考えるほうが性にあっているため、具体論、個別論が手になじまない。かといって抽象論は具体論を書くよりどうしても思考の量が必要になる。具体論とは一般性より特殊性が強いため、それぞれのケースを一つの記事という単位にまとめられるが、抽象論は具定例、いわば特殊ケース(個々の単位はいかなるカテゴリに入っていようと内容が全く同じことはありえないため「特殊」である。レヴィ・ストロースで勉強しました)をかき集めてそれらから共通項、つまりは体系としての本質を「抽象」する必要があるため、時間がかかりやすい。ほら、歴史を体系的に語るよりも、一つの作品の個性、いわば「特殊性」を語ったほうが手間で言うなら楽っちゃ楽でしょ? 

 とまあ話が脱線しまくったが、抽象論が今までの方向性であった以上、また抽象論でいいのか? という疑念もあるわけで。だったら内容を変えちゃえばいいのだ。これまでは、乱暴に言うなら「空虚と幻想と感覚と言語的認知」だった。この4項を全部取っ払ってしまえば抽象的な論でもいいのだ! というわけで、誰かいいアイデアあったら教えてください。すいません最後は他力です。リアル知人でしたらLINE(とかいうクソと等しいツール)に連絡でもいいす。僕は上記のネタで批評を考えているためそのことで頭が一杯です。それ以外に考えるキャパもありません。流石に無責任なので個人的に気になっていることを言おう。ジェンダーの話で書いたが、「女性らしさを排除しようとして、男性らしくなる」のはおかしい。元々の趣味嗜好が一般的に言う「女性的」なファッションであった場合、「女性らしさ」を押し付けられているかとうかの判断はどう決めていいか分からないからだ。ただ、「女性らしい女性」は「女性らしさ」に関する苦悩がないからその女性らしさが押し付けかどうかの判別が自分に出来ないともいえる。だから、「女性らしいスタイルが嫌いな女性」だけが「女性らしさ」を毛嫌いする羽目になる。そして人によっては「女性らしい女性は社会に洗脳されている」との言説も生まれることになる(もちろんそう思わない人も大勢いるだろう)。たしかに、〇〇らしいとは社会の押し付けもある。だが、自分の思うままに振舞ったらそうなってしまっただけの人もいるはずなのだ。そうなると、そもそも重要なのは「らしさ」から外れている人をきにしないようにしましょうね、で済むのだが行き過ぎた論理で「らしくしてる人はなんなの」的な発想も出てきてしまう。少数派の許容、多様性の確保は逆転して「多数派の否定、一般性の絶滅」でもある。ここで言いたいのは、「多数派は自覚的に振舞わない」ということだ。「無自覚の悪意」は罪だという人もいるが僕は反対はしないが疑問でもある。多数派は特に排外されないから、疑念を抱く余地がない。いやそこは抱けよ、と言いたいのかもしれないがはっきりいえば人間の出来はそこまで良くないし、大なり小なり皆気づかずに悪意をぶつけているものだ。いや、この言い方だと傲慢すぎる。そもそも、色んなことに疑念を抱くこと自体が一つの「生きづらさ」ともいえるのだ。無自覚に悪意を振りまき、なにも疑わずに生きるのが一番生きやすいのもたしかにそうだろう(映画「ヒックとドラゴン」はそこを描きつつ、多数派を否定しなかったのは凄い)。「多数派の無自覚」を僕はどうしても否定する気になれない。当然だが自覚できるきっかけはいくらでもある。でも、問題なく順応できている世界で自覚する必要も理由もないのだ。人によっては迷惑なのかもしれないが、はっきり言うなら多数派が少数派を理解する必要性はあまりない。僕も人間関係で大事なのは「いろんな人がいる」ことだと言ったが、そういうのは僕が少数派なのと少なからず関係しているだろう。

 ふと書いてみたが、面白いテーマだな。「多数派にとって、世界は常に異常なし」なんだから多様性を認めたくないのではなく認める必要がない、というのは確かにそうだ。じゃあなんの意見もなかったらこれで行きますんで、待ってますよ!

 

終わり。ファミマの肉まん90円セールが最高すぎて2日で5個食べてしまった。

第一部完!

散々書いてきた、無意味と空虚の問題。生に意味がなく、全ての行動は客観的な価値を持たない。極限の空虚こそ人生であり、その中で人は主観的に価値をつけていく。例えそれが幻想であっても、自分の目には「そう見える」。なら、それでいい。そうとしか見えないなら、自分の目には真実の美しさとしか映らないなら、幻想でも構わない。

 すっげえ適当な要約である。これを読めば一年近く続けたブログの全容が掴めます(内容が薄すぎでは?)。今回潮らしく要約したのは、じゃあなにを俺は言いたいのか? ということをふと考えたからだ。ざっくばらんながらもそれっぽく語り続け、結局のところ?というわけだ。形式上散発的に記事を書いてきたため、思考のまとまりに欠いている(ブログというのは散文的なものであるのだから本来気にする必要もないのだが)のがむかつくのだ。小休止であり、縮約であり、結びであり、新たな問いの始まりである。

 上記の要約の通り、客観的に見た世界は空っぽだ。当然である。目の前にあるものの価値は自分がつける。コップ一つとっても、「コップを意味付ける人物」がいなければコップと名指せないし、容器という機能もないし、ただ鎮座するのみなのだ。なんの情報を持たない空っぽのXでしかない。我々がいることでXはコップになり、僕はそれにコーラを注ぐ。空っぽなのはものだけでなく行動もだ。さりげない気遣いも、絶え間ない共感も、嫉妬も、暴力も、なんの意味をなさない。ただ行われただけだ。人が滅びようと、客観的な世界ではなにも影響ない。問題だと思う主体がいないのだから。人が孤独を嫌うのは、自分を価値付けてくれなくなるからだ。自分で自分に価値をつけることもできるが、あまりに難しい。

 空っぽな世界だから、人は価値をつける。これは嫌いで、これは好き。やりたくないことと、したいこと。それを決める基準は世界が空っぽである以上、完全に自分本位だ。そうであるから、コミュニケーションは難しい。他者の価値観と自分の価値観を擦り合わせなければいけない。他者に合わせすぎると楽しくない。自分の価値観で話すと理解されない上、相手からするとその話をする相手が自分である必要を感じない。自分の持っている価値観は、絶対に理解されない。なぜなら、自分で勝手に決めた価値だから。だけど、人間の持ち物とはそれしかないのだ。自分で決めた好きと嫌いをなくしたら、それこそ空っぽでしかないから。幻想だとしても、幻想だけが人を前に進ませるものだから。

 ここまで書いて僕はふと立ち止まる。じゃあなにがあるのか? 無意味で、好きなものも幻想である。虚無と見せかけで打ち立てられた現実の中、最後に残るのは「感じる」ということだろう。如何に空虚だろうと、彩るものが幻想だとしても、我々は「感じる」のだ。楽しいと思い、悲しいと思い、素晴らしいと思うとか、そんなことではない。言葉にできない意識体験があるだろう。言葉で伝えることなど到底できない豊かな情緒的な刺激があるだろう。なにもなくても、やっぱり楽しいものは良く感じるのだし、つまらないものは悪く感じるだろう。人はそうやって価値を決めていく。作り上げたものが幻想でも、感覚の中ではやはりリアルだ。「そう感じる」ことだけはどこまでいっても真実なのだから。価値は幻想でも、エモーションは人に伝えられないだけでたしかにある。世界などつまらない。なんの価値もないから。だが自分は面白い。こんなに豊かに「感じる」のだから! 人間は人間であることをもっと誇っていい。「溢れんばかりの受け皿」なのだから。「感じることができる」ことこそ、人間唯一の持ち物だ。より文学的に言うなら「感じざるを得ない自分」こそ、人間が本当に大事にすべきものだ。だから僕は利己的であることを肯定する。「感じること」以外に、自分にとって正しいことなどありえないのだから。感覚に全てを捧げることが人生の本質であり、感覚とは現在にしかない以上切れ目のない刹那の連続なのであり、ゆえに刹那に対して僕らは全身全霊で望む。いくらだって途方にくれ、生きることの空虚が頭をよぎる。だが、生の中にしか感覚は存在しない。人が自殺してはいけないのは、感覚を失うからだ。

 豊かの感覚のために、空虚な生を進んでいく。人生の持つ最大の矛盾は、ここだ。僕は感覚を賛美するから、生き続けていたい。どれほど苦痛になろうと、全く違って全く素晴らしいエモーションを見つけたい。そのために一生を費やしていきたい。いや、一生では足りない。本当は無限に生きたい。無際限に供給される感覚をいつまでも楽しみたい。僕は、人間で良かったと心から思う。だから、あなたにも自由に生きてほしいと願うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第一部完! 一つの幕が終わりましたよ!

今まで読んでくれた人はありがとう。ちょっとだけ配慮していつもよりスペースを空けてみた。

 

もしも、人生が今より充実したものであったなら

このブログっていつから始めたっけ?」と思って調べたら九月だった。もうすぐで一年だ! 意外と続いているものである。更新を思い切りさぼってる時期や、実際最近はあまり更新していないが、続けてはいる。なんとなく今回は近況をだらだらと書く回にすることにしよう。記事数を稼ぐのだ。

とりあえず、仕事は続いている。友達が「三ヶ月でやめる」と言っていたが、そのラインは突破したわけだ。俺を甘く見たな! しかし、仕事は続いているものの最近はなにもかもがよく分からない。この先は途方もないし、行為がもたらす結果も分からないし、なにかがどうなったりもしない。虚無感、と一言で言い表すこともできないし、そんな空虚なわけでもない。問題は生活における焦点があっていないことだろう。いや生活に焦点なんてないだろと突っ込みたくなるかもしれないが、それは正しい。良くないのは、僕がそう考えている「こと自体」なのだ。つまり、焦点というのは概念というよりも生活している上での「手触り」のようなもので、どことなくピンボケしているように「見える」のだ。当たり前の事実が嫌なものに「見える」から「問わざるをえない」ということだ。生活を、人生を、あるいは連続した時間上を生きることに意味などない。しかし、我々は普段感じることはない。それでも「ボヤケているかどうか」という基準はあるのだ。原理ではなく、認知と感覚、実感の総合的な判断として。茫洋とした人生は、原理的に我々には「そう見えない」ように出来ている。そのように「見え方」を操作する。誰が? 意味と常識がだ。結婚願望があるものにとって、結婚相手を捜すことは意味のある有意義な行為だ。少なくとも結婚の空虚さに気づくまで。意味は彼の人生を茫洋としたものから明確な形にへと型取りする。仕事が終わった後のビールは、仕事の苦痛を中和し、習慣的な快楽として人生の持続理由となりうるのだ。

 生きるということは、必死だ。なんとしても人生を続ける理由を見つけ出さなければならない。その理由がないと、僕のように「ピンボケ」する羽目になる。僕の友達に面白い奴がいて、心理学や英語を勉強しているやる気ある勢であり、仕事をやめて留学する予定だという。しかしこの前会ったらだんだんやる気をなくしていると言った。彼は結婚はしたいが嫌だという。結婚したらそのまま仕事を続けて配偶者と一緒に暮らして人生が終わるからだ。結婚は生きる意味として最上級に近いが、彼はそのまま人生を終わることをよしとしない、努力家とも変人とも取れる男だ。

 「ピンボケ」しているなら生きる気あるのかと言われそうだが、まずその質問が間違いだ。人生などその気があろうがなかろうが勝手に「生きる」ものだからだ。我々はベルトコンベアに載っていることを忘れてはいけない。心臓は勝手に動くのだ。しかし、ベルトコンベアの上で僕たちはなにをしていよう? なにを目印にしよう? 僕は、目印がないからボケているのだ。ただ、それでもやりようはある。こうやって文章にしてしまうのだ。そうすれば、感覚は相対化され、構造と前提が生まれ、僕はその前提を問い直す。「そもそものそもそも」というタイトルはなにも考えずにつけたが案外的を得ているようにも感じる。

「努力」なんて言葉は存在しない。何をしても何の意味もないからだ。生は空虚である。ただ生き、ただ死ぬ。それだけだ。でも、だからといって意味は欲しくない。生まれもって意味を与えられたら、それは束縛だから。ゆえに自由とは、甘さがないということなのだ。自由であるとは、他者から意味を受け取らないということは、自らの空虚を全て引き受けるということなのだから。大半の人間は、本当の自由など求めてはいない。意味に甘えていたいのだ。僕は意味に甘え「られない」から、そうなってしまっただけだ。繰り返すが生は空虚だ。同様に行為も事物も空虚だ(なんでも空虚じゃん)。だが空虚なのは生であり、事物であり、あなた自身ではない。だから、あなたは事物に価値をつけてあげる。サッカーを好きだと思い、赤色が嫌いで、ミステリーはたまに読むといい感じで、隣のクラスのA子ちゃんを見るとなんとも言えぬ胸の苦しみを感じる。あなたには、空虚なものを豊かに見れる力があり、社会的な妨害はあるかもしれないが、本質的にはなんでも好きになっていい権利がある。生は空虚だが、あなたは豊かなのだ。生きることは辛くとも、生きることを考えることこそが出来るのだ。だから僕は「自殺した人は自殺する勇気がある人」なんて論理は反吐が出る。死より楽な生などない。我々は環境や自らの力によって生を楽しく「装飾」してるのであって、生は虚ろであり、死と違って長い年月があるのだ(それに比べ死の豊かに見えることといったら!)。

 生が空虚なら、豊かにすればいい。これほど「言うは易し、行うは難し」ことはないだろう。豊かにしても、すぐ空虚さが顔を出す。僕たちはその顔を見つめる。しかし、だからこそ面白い。充実こそが、最も貧しいのだ。表現もそうだが、必要なのはギャップだ。絶望的な生が全体を包み込んでいるからこそ、僕たちがそれぞれに認める「価値」は。信じられないくらいの輝きを放つ。人生が辛く、果てなく、空しいとしても、自分がひたすらに「価値」を求め続ける限りは、素晴らしい「価値」との出会いをどこまでも愛する限りは、人生すらたじろがずにはいられない。

 

終わり。いつもよりシリアスなような。だらだら近況を書くって話はどこへ行った!

気まぐれの果て、僕が立っている(リアルに感じるときはいつも、僕は他人に唾することができる) 

 うーん、最近よくわからん。なんかもやもやした感じがするのだ。怠け気味だが何もしていないほどではなく、かといっていつもよりは冴えていない、微妙な感じだ。たんに疲れているのもあるだろうが。なんとなく今の底流にあるのは、「途方もなさ」な気がする。途方もなくなったのは社会人になったからだ。

 学生の頃は常にポイントがあった。一年になり、二年になり、最終学年になり、卒業していく。入学した瞬間に、数年で出て行くことが約束されるのだ。学生ではなくなると、そういった段階はなくなる。果てもないその後だ。「俺はこのまま仕事を続けて年取って死んでいくのか」的な、脱サラしそうな人の発想とは違う(実際にこんな人いるのだろうか?)。純粋に区切りがないことに圧倒されているのだ。こんなこと言うと目が血走っている奴からキャリアプランとかライフプランを作ることを提案されそうだが、そんな問題ではないのだ。40まで〇〇をする、みたいなのはポイントとは言わない。区切るとなりうるのは、目標ではありえない。常に一つの「終わり」でなければありえない。ひた走る小学校の終わり。自問する中学校の終わり、うつむき歩く高校の終わり、一夜のお祭りのような、大学の終わり。この際の目標と終わりの違いは、始点と終点を自分で決めているか否かだ。目標は、自分で設定して自分で閾値を決定する以上任意に「終わらせる」こともできてしまう。区切りとは、自分で終わらせられないから区切り足りえるのだ。卒業は決まっている。留年はあるが、留年の基準は自分のものではない上、自主的に留年するのはそもそも区切りを大事にしない人の発想だから除外される。ていうか留年するな。ずるいぞ。

 この、二十中盤の僕は、どこに次のポイントがあるだろう。曲がり角は目視できているのだろうか? 高校の場合は、一年経ったら三分の一だ。今僕が一年経ったら、分子と分母はいくらだろう? 次の「終わり」はいつくるのだろうか? 僕が今問題にしているのはもちろん自分の将来についてではない。この先がどうなるかわからないから不安なのではない。この先を「区切れない」から途方にくれているのだ。別にこの先どうなたっていい。嫌なのは、先が「どれくらい」なのか計れないからやりようがないのだ。今をひたすら楽しめばいいと、ポジティブな人は言うだろう。しかし、僕はいつだって現在志向だ。だからなのだ。僕は現在を楽しみたいから、続けすぎたくない。余分な荷物を持ちたくない。時が経ったら、色んなものを捨てていきたいのだ。年を取るのは怖いが、それは必然だ。ほんとに嫌なのは、持ちすぎてしまうことだ。そして一番恐れているのが、もう捨てられなくなってしまうことだ。「友達だから」という言葉はなんて空虚だろう。「友達」とは、自分にとっての他者の「所属」に過ぎない。友達だから大事にするんじゃないだろう。そいつが魅力的だから、他にはない煌きを有しているから、一緒に遊びたいと思えるのだろう。僕が嫌うのは、「関係のための関係」なのだ。人間はそのような傾向にある。最初魅力的に見えて、今魅力を失っても「友達だから」で済ませるときがある。代替不能な魅力を、一般名詞的な所属へと貶める。コミュニティの罪悪とはそこにある。所属しているから、などと思わせてしまう。人間はもっと突き詰めていいのではないか。ずるずるとつまらない付き合いをするよりも、自分の楽しさを考えていく必要があるのでは? 僕は、だから捨てられるときには捨てられるようになりたいのだ。それが、自分を大事にするとということの本義なのだから。

 もやもやは晴れない。でも、書いたら少しは分かった気がする。なにかに所属するとは、歴史化していくということだ。コミュニティの歴史と自分の歴史が連動していくということ。それは、自分と時間が同期していくということだ。しかし、所属していかないと歴史はなくなる。ただ捨てていき、先にはなにもない。どこにもいないから、時間と切り離されていく。「あの頃」を共有することがなくなる。だったら僕は、まだ捨てられるようだ。前の記事で僕は自分を「賎民」と称したが、僕は本質的に貧しいのだ。時間の中で生きることも、所属の中で生きることも嫌う。現在への過集中は、なにもかもを失うのだ。そこにあるのは感覚だけだ。知覚していることと、それに動かされる自分の情緒、ただそれのみ。過去の厚みも、未来の豊かさもない。だがそこには「閃き」がある。一瞬間の中で、全てを忘れるのだ。だとしても現実には時間がある。一瞬間にあとには、「途方もないほどの途方もなさ」が待ち構えている。極貧もいいところである。しかし美しいものは常に瞬間に宿る。例え永遠があるとするなら、それは正に、鮮烈なほんの一時にしかない。

僕は正しいことをしているんです!

 良いものとはなんだろう。誰にとって良いものだろう。なぜ良いものなのだろう。なんで良いものなんだろう。それは客観的に良いのか、主観的なのか。

 今回考えることである。一体、良いこととは、良いものとはなんなのか。幸福な状態にさせてくれるものなのだろうか。今回のきっかけは、友達とマックに行ったとき(行き過ぎな気がするがまあいい)である。友達はこう言っている。「美味しいものを食べるのは幸福である」と。僕はそうでもないと言うと、これは真理なのだといった。あまりにしょうもない導入であるが、ここから始めてみよう。美味しいものは幸福をもたらすか。もちろん、真理なのだから誰にでも。いやそんなはずはないだろう。実際僕の兄は食べ物はコスパと栄養価でしか考えていないと断言している。と結論づけるのは可能だが、そもそも彼は何を持って真理と言っているのだろうか。その後彼の言動をみる限り、みんなそうだから真理なのではないのだ。彼にとってはみんなが「そうあるべき」だから真理なのだ。そんな真理はあるのであろうか。たしかに、正しさとは、良いとは何か分からない。正しさのために人には変わる必要性はあるのか、それとも今正しいと思うことが正しいのだからそのままでいいのか。人はそこで延々と迷うはめになる。自分をどのように変えるのか。どういうときに変えるのか。

 僕が興味深いのは、真理なんて言葉を使って主張する意味だ。なぜ、真理だと思い、真理だと確信したのか。僕だったら使わないだろう。なぜなら、自分が正しいとは思えないし、それ以上にそこまで人に対して「そうあるべき」と思えない。ていうかなぜ思うんだろうか。「そうあるべき」と思うのが傲慢だからではない(個人的には傲慢は限定付きで肯定される)。僕からしたら、そんなにしてまで人を変えたいと思えないからだ。僕はその辺が変わっていて、自分以外のことしか考えないがその考えを洗練させていくだけで他者には向かない。だから、逆なのかもしれない。自分のことを考えるが故に、他者に向かって行くのが、人間というものなのだろう。精神の構造よりも、自分の物の見え方の方に注意がいくから、疑いがない。これは悪い意味で言っているのではない。主観的な知覚や感覚もまた、非常に重要である。ただ、人と人の関わりの中ではデメリットになりうる。自分と他人の感じ方は違うからだ。

 僕の大学の先生が「今書いてる批評で言いたいことは『小説にもいろいろある』ってことだね」と言っていたが、本質的である。一面的な評価で表現は語れない。そしてこれは人間にも当てはまる。本来人の関わりの中でしっておくべきことはたった一つだ。「人にもいろいろいる」ということだけなのだ。人間の持つ究極の相対性はそこからなる。好きな音楽も、食べ物への態度も、食器の趣味も、全部違う。同じと思うことがあったとしても、全くの同一ではない。結局、「そうあるべきこと」とは、「自分には世界がこう見える」ということに過ぎない。僕にとって食べ物は幸せも大きな感動ももたらさない。そういう見え方なのだ。そして、それが変わったりしないだろうし、困ってもいない。

 正しさは本来存在しない。ただ自分の感覚の中ではそう思わざるをえない。「そうあるべき」ことも、存在はしない。ただ他人を変えたいとき、関わりたいときに創出される。そのように思えるのは少しうらやましい。なぜなら、自分と同じように他人も感じているだろうと思えているのだから。自分とと他の人は違うことをわかってるし、「実感」してるから(中二病かよ)、どうしても正しさを標榜して生きられない。いわば賤民なのだ。友人は「美味しいものを食べることは幸福だ」と言っていた。正しさとは、あるべきこととは須く幸福のためにある。正しいことこそ、自分の中の幸福要件なのだから。そう考えると、腑に落ちるものがある。正しさを「そうあるべき」と考えるのは、自分の幸福要件を他者と共有し分かち合いたいのだ。傲慢だが他己的だ。でも前提である正しさ自体が幻なのだ。だから苦しむ。ときには怒り、嘆き、自他を線引きする境界線を眺めながら今日も明日も生きていく。

 

自分は表現である。

表現を作ることで自分が救われる人がいる。僕もそうだ。でも、なんでそうなのかはいまいち判然としない。ちょっと考えてみよう。smashing pumpkinsの「today」は出だしが「今日は最高の日、明日のことなんて信じられない」である。意を汲むと「明日に意味を見出だせないから死にたい」になる。実際作詞のビリー・コーガンは鬱々としていたらしい。だが、世間は今を肯定する曲だと捕らえた。僕もそう思ったろう。異様なパワーと美しさを持っているからだ。面白いのは、結果的にコーガンはこの曲を作ったらなぜか救われたことだ。

 もうひとつ見てみよう。懐疑主義者だ。懐疑主義とは、なんでも疑うスタンスである。究極的には、「今見ている現実は嘘かもしれない」まで行き着く。非常に絶望的な考えとも言えるが、懐疑主義者の中にははこのように「懐疑」していくことで救われるものもいるのだ。

救われるときは、一般的にはネガティブな表現の方が多い気もする。ハッピーなものでは却って効果がないようだ。この辺りは、悲しいときに明るい音楽を聴くより暗い音楽を聴く方が悲しみが薄れることと関係あるのかもしれない。いずれにせよ、自らの悲観を描くこと、もしくは誰かの悲観を体験することは対象化されるから悲しみから救われるのだろうか。なにか違う気もする。表現とは、操作である。伝えることのできない自分の気持ちを、表現のシステム(音色、色彩、構図、文体といった表現各々の持つ特性、性質)を通すと、なぜか鑑賞者は言葉によって気持ちを説明よりも遥かに気持ちが「分かる」。ただ、分かるのは勘違いではある。表現によって作者の考えが鑑賞者にダイレクトに伝わるはずがない。表現のシステムは複雑過ぎるし、理論化が進んだとはいえ解明できているとは全く言えない。伝わるはずはないのだ。だが感じるのだ。そこに理屈はない。そして、自分にとって素晴らしい表現は神の啓示と等しい力を持つ。表現から作者の考えは読み取れないのに。それはなぜ? 恐らくは、違う形で作者が「露出」しているのではないだろうか。表現を通して作者の考えはねじ曲がる。同時に、作者にも創作とは制御不能だ。そこから「なにか」を作者自身も読み取る。創作行為とは、自分の「なにか」と向き合いながらひたすら自己とやりとりしてくのだ。そのときの作業は言語を(文章創作であっても)超えている。意識的な思考の範疇を超え、表現のヴェール越しにいる自分を見続けるのだ。

 しかし、「today」の美しさはほんとに信じがたい。コーガンはなぜ救われたのか。それは、表現と自分がどこかで近しいのだと思う。コーガンの場合音楽に、つまりはメロディやリズムなどの音楽的要素を考えることが、自分を考えることにつながっている。この場合の自分を考えるとは、先ほど言ったように非言語的な思考だ。だから傑作とは無意味で、非言語的な体験をさせてくれる。表現の快楽とは言葉のない世界につれていってくれる「最高の旅」に他ならない。ほんの一時、言語という当たり前過ぎて感じることすらない、つまらない現実認識を取っ払った「ときめき」に出会える体験装置。言語や社会の決めごとから放たれた、無垢な草原のような領域。そこでしか出会えない自分がいるのであり、他人もいたりして、少しずつ自分の「どうしようもなさ」を解消していく。

よく分からない自ら。人によって様々な言い方があるだろう。不幸、不満足、拘束、なにかが足りない、悲しみ、漠然とした不安、下らない世の中、最高の人生……打ち消す方法も様々だろう。救い、依存、嫉妬、創作、破壊行為、自傷、自己拘束、神経症による疾病利得、泣くこと、すがること、死に絶えること……

表現は、僕たちの無意識を代弁する。衝動を言い表す。なぜそうなのだろう。それは、「美しい」からなのだ。あの激しさ、優しさ、愛しさが美しい。克明に引かれた線と色が、言葉からこぼれ落ちる言葉の思いが、常世から遠く離れた打鍵からなる響きが、美しくてたまらない。そこに思いはない。だが、あの美しさに「宿っていないはずがない」。だから、傑作とは生の力なのだ。ジャン・コクトーは「傑作とは、死に打ち克つことである」と言った。正しい。どれほど暗澹とした作品だろうと、傑作は僕たちを生きさせる。あの「美しさ」を前にして、死のうと思う訳がないから。素晴らしい表現は、いつでも味方であり続けるのだから。

 

終わり。そろそろ長い文章かかないとなー。