そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

もしも、人生が今より充実したものであったなら

このブログっていつから始めたっけ?」と思って調べたら九月だった。もうすぐで一年だ! 意外と続いているものである。更新を思い切りさぼってる時期や、実際最近はあまり更新していないが、続けてはいる。なんとなく今回は近況をだらだらと書く回にすることにしよう。記事数を稼ぐのだ。

とりあえず、仕事は続いている。友達が「三ヶ月でやめる」と言っていたが、そのラインは突破したわけだ。俺を甘く見たな! しかし、仕事は続いているものの最近はなにもかもがよく分からない。この先は途方もないし、行為がもたらす結果も分からないし、なにかがどうなったりもしない。虚無感、と一言で言い表すこともできないし、そんな空虚なわけでもない。問題は生活における焦点があっていないことだろう。いや生活に焦点なんてないだろと突っ込みたくなるかもしれないが、それは正しい。良くないのは、僕がそう考えている「こと自体」なのだ。つまり、焦点というのは概念というよりも生活している上での「手触り」のようなもので、どことなくピンボケしているように「見える」のだ。当たり前の事実が嫌なものに「見える」から「問わざるをえない」ということだ。生活を、人生を、あるいは連続した時間上を生きることに意味などない。しかし、我々は普段感じることはない。それでも「ボヤケているかどうか」という基準はあるのだ。原理ではなく、認知と感覚、実感の総合的な判断として。茫洋とした人生は、原理的に我々には「そう見えない」ように出来ている。そのように「見え方」を操作する。誰が? 意味と常識がだ。結婚願望があるものにとって、結婚相手を捜すことは意味のある有意義な行為だ。少なくとも結婚の空虚さに気づくまで。意味は彼の人生を茫洋としたものから明確な形にへと型取りする。仕事が終わった後のビールは、仕事の苦痛を中和し、習慣的な快楽として人生の持続理由となりうるのだ。

 生きるということは、必死だ。なんとしても人生を続ける理由を見つけ出さなければならない。その理由がないと、僕のように「ピンボケ」する羽目になる。僕の友達に面白い奴がいて、心理学や英語を勉強しているやる気ある勢であり、仕事をやめて留学する予定だという。しかしこの前会ったらだんだんやる気をなくしていると言った。彼は結婚はしたいが嫌だという。結婚したらそのまま仕事を続けて配偶者と一緒に暮らして人生が終わるからだ。結婚は生きる意味として最上級に近いが、彼はそのまま人生を終わることをよしとしない、努力家とも変人とも取れる男だ。

 「ピンボケ」しているなら生きる気あるのかと言われそうだが、まずその質問が間違いだ。人生などその気があろうがなかろうが勝手に「生きる」ものだからだ。我々はベルトコンベアに載っていることを忘れてはいけない。心臓は勝手に動くのだ。しかし、ベルトコンベアの上で僕たちはなにをしていよう? なにを目印にしよう? 僕は、目印がないからボケているのだ。ただ、それでもやりようはある。こうやって文章にしてしまうのだ。そうすれば、感覚は相対化され、構造と前提が生まれ、僕はその前提を問い直す。「そもそものそもそも」というタイトルはなにも考えずにつけたが案外的を得ているようにも感じる。

「努力」なんて言葉は存在しない。何をしても何の意味もないからだ。生は空虚である。ただ生き、ただ死ぬ。それだけだ。でも、だからといって意味は欲しくない。生まれもって意味を与えられたら、それは束縛だから。ゆえに自由とは、甘さがないということなのだ。自由であるとは、他者から意味を受け取らないということは、自らの空虚を全て引き受けるということなのだから。大半の人間は、本当の自由など求めてはいない。意味に甘えていたいのだ。僕は意味に甘え「られない」から、そうなってしまっただけだ。繰り返すが生は空虚だ。同様に行為も事物も空虚だ(なんでも空虚じゃん)。だが空虚なのは生であり、事物であり、あなた自身ではない。だから、あなたは事物に価値をつけてあげる。サッカーを好きだと思い、赤色が嫌いで、ミステリーはたまに読むといい感じで、隣のクラスのA子ちゃんを見るとなんとも言えぬ胸の苦しみを感じる。あなたには、空虚なものを豊かに見れる力があり、社会的な妨害はあるかもしれないが、本質的にはなんでも好きになっていい権利がある。生は空虚だが、あなたは豊かなのだ。生きることは辛くとも、生きることを考えることこそが出来るのだ。だから僕は「自殺した人は自殺する勇気がある人」なんて論理は反吐が出る。死より楽な生などない。我々は環境や自らの力によって生を楽しく「装飾」してるのであって、生は虚ろであり、死と違って長い年月があるのだ(それに比べ死の豊かに見えることといったら!)。

 生が空虚なら、豊かにすればいい。これほど「言うは易し、行うは難し」ことはないだろう。豊かにしても、すぐ空虚さが顔を出す。僕たちはその顔を見つめる。しかし、だからこそ面白い。充実こそが、最も貧しいのだ。表現もそうだが、必要なのはギャップだ。絶望的な生が全体を包み込んでいるからこそ、僕たちがそれぞれに認める「価値」は。信じられないくらいの輝きを放つ。人生が辛く、果てなく、空しいとしても、自分がひたすらに「価値」を求め続ける限りは、素晴らしい「価値」との出会いをどこまでも愛する限りは、人生すらたじろがずにはいられない。

 

終わり。いつもよりシリアスなような。だらだら近況を書くって話はどこへ行った!