そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

夢という夢が虚しく消えていく、そしてメジャーリーグが勃興する

今回はブラック企業にいる大学の友達に向けて書いた。最終的に誰に向けて書いてるのか分からなくなったが、まあ良い。じゃあ行こう。

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無思考のための思考。非理性のための理性。空前と広がる、霞ばかりの砂原と内的世界。


われわれは、現実のために如何なる手段が取れるだろう? 自己を社会という「鋳型」にフィットさせるために、どのように変型させていけばよいのか? 悪質な企業は、非常に厳密に「鋳型」に合わせられた人間を作成する。決められた形状から寸分も離れることは許されていない。歪は、破滅的なものであると解釈され、人間は溶解され液状化し、鋳型どおりに固められる。身を溶かす熱に耐えられない場合、早々に逃走する。溶解は、企業にとっての「ふるい」である。落とされることは一つの結果に過ぎず、想定外ではない。溶かされたものはある程度の耐熱性、順応性を備えているが、同時に意志亡き者である。彼らは思うがままに作り変えられ、企業によって設計された「美しい造形物」と化す。少しの歪みのない、滑らかなオブジェへと。しかし、何一つ面白みはない。あるのは極端な順応性と完璧なフォルムだけである。ゆえに、神が創ったにしてはあまりに不自然で退屈な無機物なのだ。
 さて、ここまで二つのタイプが提示された。もう一つある。溶解の灼熱に耐えた上で、「鋳型」にはまることは拒否できないタイプだ。これは非情な矛盾に満ちている。忍耐力があるが、同時に意志を殺すことも不可能だったのだ。そのため、留まることはできるが常に苦痛を味わう。溶解されたまま、液状化したままでいるのだ。肉体がとかされ、企業に従属する作業員が「鋳型」にはめこもおうとしても、「鋳型」によって完成される自分を受け入れられないのだ。彼は液体のまま彷徨う。固体として確固とした姿形を持つことも許されず、溶かされたまま…… 
 だから、彼が行うのは「無思考のための思考」なのだ。「美しい造形物」のような無思考にはなれない。逃げるほど弱くもない。なら「考えないように考える」しかない。当然ながら、矛盾である。考えを止めた瞬間考え始めている。考え始めた自分に気づき考えを止める。その瞬間考えが始まっている。照明のスイッチを無限にオンオフし続けているかのような光景が展開される。思考が無思考を飲み込み、無思考の思考が思考を瞬間的に切断する。だが、刹那であっても思考を停止させなければならない。まるで、コンピューターゲームの最中に突然コンセントを抜くことでデータを保存させないように。そこではプレイするのもコンセントも抜くのも自分である。思考によって得られた財産を、自分自身で捨てるのだ。それは効果的ではある。だが、空虚だ。生産し、放棄し、何も残らない。固体として存在することもできない、液状化された意識がズルズルと徘徊する。
 空虚はどうやったら消えるのか? いくつか考えられるだろう。まず徹底した依存だ。なにかに寄りかかり続けることで、形を保ち、空虚で「ないように」見せる。問題は、依存対象によって社会的、経済的に破滅する可能性と、大抵依存先を次々と変え続け、比例して心が壊れていくことだろう。次に逃げるのも考えられる。やめてしまえば手っ取り早い。もちろん相応のリスクはある。が、低リスクなやり方でもある。少なくとも崩壊は免れるからだ。他には結果的に洗脳されるのもある。単なる無機物に成り下がるので、空虚ではなくなる。だが、完全に無機物になるのは人間の脳機能的に不可能なのも事実だろうから、常に崩壊のリスクは潜む。
 これらに最適解などもちろんない。僕たちは、なぜこうも苦境にいるのだろうか? 行動してしまえば、全ては終わる。だがどう行動すれば正解なのだろうか? 手持ちの情報があまりにも少なすぎるのだ。唯一つ分かるのは、今歩いている方位に歩くことが一番楽なことだ。自分の見えている世界ならやり方は分かる。例えそれが辛かろうと何だろうと、やりやすいのだ。一般論とは裏腹に、可能性というものを人間は欲しがらない。未知は膨大な可能性を提供すると同時に巨大なリスクももたらす。そして、人は可能性よりもリスクを怖がる生き物である。それは社会の中ではより顕著になる。自分の行動で社会まで影響が及ぶのだから。個人的にはリスクを恐れず可能性をとれ、とも思えない。そういう生き方が良いと説く人は成功した人で多いが、つまるところ彼らは「可能性マニア、もしくは中毒」であるからそう思うだけだ(僕もその節はあるが)。人生は、他人の言葉を鵜呑みにする場所ではない。だからこの文章も信じなくて一向に構わない。だが、読んだあなたにこの文章はなんらかの影響をもたらすのも事実である(表現とは『挑発』なのだ)。人間は経験から有無を言ぅこともできぬまま影響を「もらう」。だが、もらった影響に対して咀嚼することは可能だ。そして、本当にピッタリくる影響もない。どれだけ共感しても、本当にそのままそっくり自分の意見なはずがない。だから行動することにおいて、人生には所詮自分しかいない。誰がなにを言おうとやろうと、参考程度にしかならないのであり、自分がしたこととはどうであっても「私が考えてやりました」となってしまうのだから。自分が自分を考えるのは、だから途方もない。どんな周りの意見もしっくり来ない。自分を考えるのは「最初であり最後」なのだ。だからといって無思考になるのも否定するわけでもないし、鵜呑みにするのも悪いとは言わない。自分で選んではいるのだし。ただ、やはり空虚なのだ。自分がそこにないから、おかしな空白を抱えてしまうことになる。ただそうは言っても、人間などどうしても空虚だし、くだらない。主観的に見ればそれはどうしようもないことでもある。だから唯一つだけ、僕は僕が考えることとして、他の誰でもなく「自らの空虚」と向き合うことを選んだのだし、それが一番面白いとも思えたのだ。

 

終わり。まあ僕は「空虚マニア」なんだと思うよ。