今週のお題「2017年にやりたいこと」、しかしやりたいこととはなんだろう
今週のお題「2017年にやりたいこと」
まず、今週のお題って機能があったことを知らなかった。なんて楽で、便利で、人を堕落させる機能だ。僕もネタに困って世間で話題になってることをブログに書いたりしたが、それは「ネタがないなりにどうするか」をしょうもないアイデアだとしても自分自身でひねり出して解決したわけだ。やはり、自動化は人の脳機能を低下させる。ツールによる効率化が重要なのは言うまでもないが、ある程度無駄な知的作業も必要なように思う。どうせ人間はどっかでサボるしな。
やりたいこと。中々難しいお題だ。箇条書きにしたら無数に挙げられるが、文章である以上論旨を絞って書く必要があろう。つまり、やりたいことを抽象化してしまうのが一番いいやり方になる。全てのやりたいことに共通する要素を抽出してしまえば、今の興味もあぶりだせる寸法になるのだ。しかし、やりたいこととはなんだろう。自分の意志で何かを選択すること自体が可能なのか僕は疑問がっている。結局、選択の作業には実現性を考慮した「絞り込み」が伴う。そうしてしまった時点で、自分の意志「らしき」ものに制限がかかり、「選ばされている」ようにも感じられる。まあ、選択肢を絞り込むのは当然だという反論もあるだろう。我々はそういう制限を受けることで利便性を手にしているのだから。
でも、僕には違和感がある。なんでたった今富士山を猛烈に上りたくなったとしても、僕はしないのだろう。今すぐにブログを書く機能を有したパソコンを破壊したくなったら、すりゃいいのに僕はまたしてもしないだろう。自由ってのは、やりたいことを好きにやるってのは、極限まで拘束を減らさなければならない。僕は自殺が嫌いで絶対にしたくないが、それでも自殺自体は選択肢に入れておきたい。「やらないこと」ではなく「できないこと」がある時点で自由は目減りする(なんで出来ないかっていうと、それは社会的な対面のようなものだ。ばからし)。そう、「たった今、この瞬間」「この場所で」「全てのこと」ができなくてはならない。そして、やりたいことは「やれること」ではない。つまり、「できないこと」を考慮する必要が無い。そうなると、やりたいことは以下のようになる。
つまようじを100万本買いたい。
一年間寝て起きるだけの生活をしたい。起きたら常識では考えられないほど長いあくびをしたい。
マクドナルドの店員にモスチーズバーガーを投げつけたい。
野良猫と話したい。
ししゃもを食べたい。
長椅子を買いたい。
僕の大学の橋に大量のサンドイッチを置いてみたい。多分面白い。
やってみて分かったことだが、恐らく僕のやり方は「やりたいこと」の本質に迫れるが非常に無意識的でくだらなくなる。このメソッドを試すときは注意しよう。