そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

どう表現に向き合ったものだろう?

 僕の周りで「君の名は。」の評判がいいのだが、なんとなく気が乗らないので「秒速5センチメートル」を観てみた。

 この手の作品はどうしても主観が入ってしまう。だが、表現としての評価に個人的な体験を入れるのは言語道断だ。好き嫌いと評価を分離するのが批評である。ただ、「秒速」のような個人的な共感がある程度作品の尺度になってしまう作品は確かに存在する。僕も強く共感することに終始していた時期はあるし、今もそうだと思う。黒歴史は現在進行だ。

 下らない作品に共感することは、どれほど下らないのだろう。西野カナが好きだろうか? 僕は嫌いだ! まあそれはいいとして、西野カナが好きな女子を嫌ってる批評家気取りの高校生って2年前にはクラスに一人はいそうな気がするが、果たしてビートルズのレットイットビーに中学の頃共感していた僕は西野カナ好きな女子よりも上なんだろうか? 共感という共通項の上では僕も女の子も一緒だ。レットイットビーの音楽性? たしかにメロディとポールの声に感動していように思う。だとしても、それは共感ありきの感情ではないのか?

 難しいのだ。たまに「いいと思うけどはまれない作品」(俺にとってはガレージロックがそれ)ってあるけど、あれは共感こそが先立っていることを証明しているような…… 売り上げ=クオリティという気もないが、共感を呼べることが一定のパワーを持つのもまた事実な気がする。なんであいたくて震えることに感動するのかはよく分かんないけど、世の中に溢れるポップスからそれが選択されたのはなんかあるはずだ。宣伝効果もあるかもしれないけど、ごり押ししたのに爆死したガルネクとかいたじゃん。

 結局個人的な共感はそう抜けないだろう。だから、いいと思うものを否定されるのはみんないやなんだろう。僕はだから議論するのは楽しいと思う。否定しあって否定しあって互いの感性を見比べて「確かそうな魅力」を発見していくのは面白い。肯定だけではそれは見つけられない。僕がブログに書く記事も雑談抜きには成立しえない。

 まあ、問題はそれを理解して付き合ってくれる人はあんまりいないことだよね。

他人&自分「こいつめんどくせえええええ」

 今までの記事で「生きにくさ」はよく取り上げられて来た。

 「生きにくさ」が存在するのは、大抵は他者や社会との関わりの中にある。当然といえば当然だが、社会や他社は切り離したくないし、切り離せない。あれほど自分自身をすり減らす存在であるにもかかわらず。ほんっとうにめんどくさい。こんなにいらないジレンマがあるのか?

 漫画「エルフェンリート」のヒロイン、ルーシーは異種族であるがために排除され、それを恨みつづけるが、本編中で人との関係の中で希望を抱いては違う人の行いに再び絶望するのを繰り返す。しかし、彼女は最終巻でいう。「どんなに嫌われても どんなにいじめられても どんなに虐げられても それでもやっぱり、一人は寂しいんだ」人間の持つどうしようもなさ。どれほど嫌気がさしても他者を求めてしまう矛盾。そういった温かみとも悪しき衝動ともいえぬこの心的欲求の本質を、この台詞はよく捉えている。なぜだろう? 嫌われ、いじめられ、虐げられたら他人などない方が幸せなのは目に見えている。ルーシーは「それでも」という。「一人は寂しいんだ」と言う彼女は主人公を膝に乗せ泣いている。それは間近にいる他者からの慈愛を受け止めた末の喜びのようでもあり、自分のどうしようもなさへの嘆きが含まれているようでもある。

 みんな自分ひとりで生きていく力がないと考えれば、人とのめんどくさいしがらみも、理解できる。だからこそ、「自分」と「他人」は共に「他者とかかわりたい」がために生きていることと同時に「他者に合わせることにうんざりしている」を自覚し、適切なコミュニケーションを取っていく必要がある。本来、大多数の人間に悪意はない。他者との交流の中で悪意を発露したら排除されるのは目に見えているからだ。他者への悪意を感じる瞬間とは、自分が悪意の目で見るからに過ぎない。だから、暢気に人を捕らえて、互いにうんざりしながも、適当に楽しく付き合っていこう。

 

 なんか道徳の話みたいになったけど、終わり。教科書に載らないかな!? 俺が中学のときに読んだら絶対感銘受けると思う。タイムマシンがあれば……!

 僕は人付き合いにこだわらないタイプだから、逆に愚痴聞いてると「なんて真面目なんだ!」と感心する。だって僕は人に関心ないから嫌いになったりしないもん。そんな真摯に向き合って他人にエネルギーを割いてるのを見てるとまるでボランティアだ! って思ってたりする。まあ、真面目だから変にすれ違ったり、偏見を生んだりもするんだけどね。ちなみに僕はジュースかポテチをおごってくれればそれだけで気に入るので単純な奴です。だから誰かおごってくれ。

何者になるか、どの場所にいるか

「AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜」というライトノベルがある(僕が観たのは劇場アニメのため少し齟齬があるかもしれない)。中二病を患わせて中学生のとき全校生徒の前で大見得を切った主人公はいじめられて不登校になる。その後高校デビューして普通の学生になるが、魔法使いの格好をした女の子に出会う。その少女は異界からの調査をしている設定をガチで演じており、主人公は過去の自分と重ね合わせて複雑な感情を抱く。

設定と序盤のあらすじをまとめたものだ。ヒロインはラストシーンでこう嘆く。「世界は、狭量だ」それは自分の好きな設定を「痛い」と断じて許容せず、排除してくる世界への嘆きだ。だが、これは間違いなのだ。主人公がその後反論する通り、誰もが社会に折り合いをつけて生きている。エゴや欲望と体面をみなすり合わせて生きているのだ。
ただ、欲望の質による生きにくさの程度があるのは無視できない。少年ジャンプが好きな人は学校だったらそんなに気にしなくてもいいかもしれないが、女子のリコーダーを舐めるのが好きな男子学生は何かの対処を強いられる。変態辛みあるな。
サブカル女子といわれるマイノリティにこだわる人たちはなぜいるのだろう。マイノリティが個性的だということだろうか? しかし、マイノリティは結果的な状態を表すに過ぎず、性質ではない。例えば同性愛者という性質を持つものが性的マイノリティの状態になるだけで、マイノリティであることなんの個性も表明しない。で、僕はサブカル女子が個性的ではないと看破したいわけではないと言っておく。
注目すべきはなぜマイノリティに憧れるのか、空虚な個性になぜそこまで惹かれるのか、である。ネットでは度々カテゴライズが行われる。「ウェイ系」「サブカル系」「意識高い系」などのカテゴリは、社会とすりあわせるためのフォルムである。そして欲望に最も似合うフォルムを採択することこそが社会と主体における一つの妥協案なのだ。フォルムは所属と欲望を同時に表現する。しかし、カテゴリーとはマイノリティと同じく所属や状態を表す言葉にすぎない。カテゴリーに属することは欲望の表明と同時に没個性になる。「AURA」において主人公とヒロインは「ただの中二病患者」である。しかし、大衆の前でその姿を晒すのは相当な異端者でもある。そういう異端な欲望に社会が拒否反応をしめし、どう合わせればいいかわからず辛いのがマイノリティの生き様だ。対してカテゴリーに所属すると既に社会の中で居場所が担保される。しかし、それは同時に欲望の本来の形をねじ曲げることが要求されてしまう。すり合わせる「事実自体」に苦悩する。だからこそ、彼らは「本当の自分」というものを気にする。マイノリティは本当の自分がわかっても社会的に認可されないのに比べ、彼らはねじ曲げてしまった欲望の本来の姿が分からず苦悩する。彼らの自己嫌悪とは、そのために鏡を見てしまうがゆえに生まれてしまう。サブカル女子という熟語は、カテゴリーの所属と本当の自分を見つけているマイノリティへの羨望を同時に言明する。マイノリティに目をつける彼女らは察しがいいともいえる。だが、社会からの拒絶を恐れてもいるからなりきることができない。ジレンマに溢れた彼女らの感傷。このことを魅力的に感じるかどうかはあなた次第だ。

終わり!
本当の自分などない、と僕は思うよ。人の前でつけてる仮面も自分が作ってるものだからね。

おすすめ記事で出てた話題を考える。パート2

 パート2! いい響きだよね。アニメとかドラマの二話ってすごい好きなんだよ。繋ぎにするか急展開を望むか、はたまたもっとスリリングななにかか…… 一話はインパクト勝負なのに対し二話はいろいろ出来るからね。多分、アニメで一番選択肢の多い回になりやすいから二話は面白いんじゃないかな?(おすすめはカブトボーグの二話かな。なんでああなるんだ)

 今回は「聲の形は感動ポルノか?」について。

 といったものの未読である。なのでこの話題が持つ一般的な問題点について考えようと思う。ちなみにこのシリーズにおいて読んだ記事のリンクは貼りません。別におすすめ記事からトピックを抜き出すだけで、その記事に対する批評じゃないからね。読まなくても分かるないようにはします。

 そもそも感動ポルノっていう言葉がおかしい。感動ポルノって三次元が対象でしょ。二次元の作品を対象にポルノ呼ばわりは児童ポルノ的な発想になってしまうからねえ。あくまで「差別的な作品」という言い方にすべきだ。しかもバズワードだからって使ってる感がむかつく。

 いじめを題材にするとこういう論議はよく起きると思うんだけど、これはいじめによるトラウマの普遍性を表していると思う。例えば家庭問題を取り扱っても論議は起こるにせよ、いじめほど主観的な意見が出ないように見える。家庭問題は具体的に自分の問題とリンクしないといけない(父と息子間の関係を書いた作品を女が見ても個人的な感慨はあまりないだろう)のに対し、いじめは「いじめられた」っていう一般的な言葉でくくれてしまうのが問題になる。あんまりいじめの内容って差異はないしね。だからいじめを取り扱うとトラウマを直接的に抉ってしまいやすい。

 表現の批評においては個人的な感情を抜かないといけない。前に書いたけど、批評とは客観性に憧れるものだし、そうでないと表現の普遍的な価値も担保されない。 

vitaldog.hatenablog.com

 

  いじめの問題ではどうしても主観的な問題が入る。だからって「この作品の感想には個人の体験が反映される」ってのは実感としては理解できるけどいったところで何も始まらない。聲の形ではいじめの加害者が喜ぶための感動ポルノ、という意見があったわけだけど、今回の問題にはいじめられるヒロインが聴覚障害者っていうところが変に問題を複雑にしている。この場合聴覚障害者だから悪質という論理が入ってくることになるんだけど、おかしい話である。いじめられる原因が障がい者だから、だろうとくさいから、だろうと性格が悪いからだろうと差がないのだ。そこで「障がい者」だからと言ってしまうとそれこそ差別に値してしてしまう。表現性の点でいえば、ヒロインが障がい者というのは作劇上のテクニックにしか関与しない。障がい者であることで描出できる内容のレンジが変わるだけだ。しかし、障がいという題材を扱うことの影響力は依然ある(それは、いまだに差別がはびこっていることの証左でもあるわけだけど)。だから二次元のものでありながら「感動ポルノ」なんて単語が使われる運びになった。そういう意味で、この単語を使った奴は悪質である。感動ポルノとは頑張っている障がい者に感動することを指す。しかし、聲の形ではいじめっ子賛美だから感動ポルノ、という論理にすりかわっている。完全に障がい者というファクターをダシにしていて、俗悪なことこの上ない。今後も「感動ポルノ」という単語に気を払わねばなるまい。言葉の汎用性が高いし、文字面の破壊力も高いから安易に使われて安易に影響力を提供しそうな匂いがする。

 今の時代はフラットな見地が求められる。しかし、人は主観的な体験でしかものを語れない以上、フラットなど矛盾に満ちた言葉だ。今の時代文章は読まれなくなっているが、価値があるとすればそこにある。映像や歌と違って文章表現には個人の知覚が入りにくい。ロックの歌詞に感動するのは、アーティストの声やメロディがもろに関与しているのは間違いない。それに対し、言語は言語という社会的な媒体を通す以上客観性がある。客観性を限界まで身につけ、世の中の矛盾を一つ一つめくりとっていく必要がある。だから、本を読もう!(あんま読まない人)

 

ここまで! ちなみに僕はいじめたこともいじめられたこともないです。友達からも「人間関係に興味なさそう」と思われていたことが最近発覚した。いや、人並みに友達いたよ? ただ毎回馬鹿な話か最近読んだジャンプとかそういう話しかしなかったから、誰々をどう思うかとか言ったことがなくて嫌いとか好きとかの蚊帳の外にいた。実際そういうのどうでもいいしね。次の記事ではいじめについて書こうかな、でもこのやり方楽だから、もっかいするかも。

 

雨についての雑感。

 雨。色々不便はあるだろう。しみじみすることもあるだろう。単なる水滴が降ってくる事実一つで!

 

 雨は好きだろうか? 僕は散歩しにくいのが不便、ぐらいだが個人的に大きい事実がひとつある。僕の母親は雨で濡れるということを病的に嫌うのだ。ただ濡れて帰って来ただけですっげえヒステリックに怒られるはめになる。そのせいか、僕自身は雨に濡れることは大して嫌ではないのだが、濡れるたびに母親の存在がフラッシュバックする体質になってしまった。同じ環境にいた兄も同様で、二人でネタにしている。

「雨の中、傘をささずに踊る人間がいてもいい。それが自由というものだ。」こんな名言がある。この格言に従うならば「雨の日は傘を差して濡れるのを防ぐ」ことが社会通念であり、皆その規律を守っていることになる。しかし、なぜ濡れるのはそんなに嫌なのだろう。その後単に乾かせば何の問題もない。濡れることとはなんなんだろう(ちなみに僕が真っ先に想像したのは「濡れるとエロい」だったが、なんか嫌なんで除外)。 濡れたくない。濡れることは構わない。むしろ濡れたい。濡れることを嫌がる人と嫌がらない人の違いはなんだろうか? 傘をささずに踊るとなぜ自由なのか? わからん。

 

ふとこの童謡を思い出した。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

 

見ての通り、「ぼく」は常に傘の範囲内にいる。そのため、ピッチピッチ チャップチャップ ランランランの箇所は常に安全な場所で雨を楽しんでいるだけで、自由を謳歌しているとはとてもいえない。三番では濡れてないている女の子が出てくる。濡れるということはそれほど精神的ダメージの大きい状態なのだ。「ぼく」は女の子に傘を貸し、母さんの蛇の目に入る。このあたりは精神分析の見地から見ると「ぼく」は子宮からの脱却が出来ていないことになる(大嘘)。

 面白いのは、女の子はたかが濡れただけで泣いたのだ。これは実感としては理解できる。突然大雨が降れば慌てて日陰を探すし、びしょ濡れはショックだ。濡れることってなんであんなにショックなのか。それは僕にはいまだわからない。ただ思うのは、雨に日に傘を差さないのは自由ではない。それを実行している人は、傘をさすこと、傘をさす人への反発心であることがほとんどだろう。本当に「濡れても一切問題ないから」という理由だけで傘をささない人っているのだろうか? 

ちなみに僕は雨の日のときは傘をさす。やっぱ濡れんのいやでしょー。

 

おすすめ記事で出てた話題を考える。パート1

タイトル通り。多分この形で記事にすんのめっちゃ楽そうだから続く気がするため見切り発車でシリーズ化。

 出た話題はベタに「貧困女子高生」と「4ヶ月で中退した若者のブログ」の二つ。

 最近、大学の準教授に言われたことがある。「最近の学生は何であんなに自己嫌悪してるの?」 確かに、僕の大学では実感としてある。それは学外の友達を見ても変わらない。「やりたいことがないからじゃないすかね。そしたら人は内省に向かうから自己嫌悪するしかなくなる」「つまり丁度いい暇つぶしってことだよね?」ざっくりいうとこんな感じの応酬になった。準教授も手痛いこと言うな……。

 いうまでもないが自己嫌悪は無意味である。そもそも自分は複雑すぎて捕らえようがないのだから。自己がいかに複雑であるか(評価不可能であるのか)は、単純な事実なのだがそうであるがゆえに気づきにくい。自分は自分で知りえない。自分への評価など、自分を一面的に捕らえた評価だ。つまり、一面的な時点で過小評価になっているため自己評価はそれ自体が過小評価になりがちだ(一方で自己性愛者がいる)。他方自己の複雑さを理解すると否定はしなくなる。「自分って一杯あるじゃん! 頭とか心臓とか!」てなるわけだ。

 貧困女子高生はあれだけ批判を喰らわせる輩がいるのは、やっぱり暇つぶしだと思う。インターネットは本当に丁度いい暇つぶしだ。何時間でもやれる(僕も自殺したいくらい時間を無駄にしてきたし、このブログも書く習慣を身に着ける以外には無駄だ)。生産的な活動を行う条件は面白いことに、自分の好きなことを見つけるのと同時に自分に興味を失くすことが条件なのだ。自分のことを考えても何もでない。自分で自分を延々と掘り起こしてもそこからは石ころ一つ出やしない。自分探しは何の意味をなさない作業である。何かをすることは、外部へのアクションと等しい。外部へ興味を持たない限りやりたいことなど見つからない。結局ネットにおける批判的な言説は「批判的言説を行うための批判的言説」であるため、別になんだっていい。第一、本当に批判したければもっと違う方法の方が確実に賢い。恒心教は集団心理と組み合わさったその極みの1つだろう。貧困女子高生とは単にそういうワードが批判層の目に留まっただけだ。もちろん「なぜ留まるか」という原因論は価値を持つが、バッシングという行為自体が欲望が見つからないゆえのはねっ返りに過ぎない。自己嫌悪が裏返って他人を叩いているわけだ。実際文句しか言わない奴って現実でもろくなもんじゃないしね。

 「4ヶ月で中退した若者のブログ」の方は…… これはいってしまえばただの馬鹿だよな。もちろん「なぜブログにいくのか?」の疑問はあれど、根本的には合理性の問題。合理的に考えればそうはならんだろ、というだけの話。ただ例外は彼のやりたいことが自分の使命だと思ってる場合。僕は根本的には合理性など無視して欲望に素直に生きるのが人間のいい生き方だと思っているので、「一生かけてやって後悔しなければ」いいと思う。出来るわきゃないかもしれないけど、未来は誰にも否定できないし、彼の心情も分からんのも確かではある。まあ、それでも馬鹿だとは思うよ。ただの洗脳商法だしねー。

 合理性というのはこの二つをまとめるワードになりえる。そもそも合理的な場合批判しないし、ブログで起業したりしない、当然。最近はこの合理性があるかどうかで一種の線引きがなされている節がある。ある奴は最低限の楽しさは確保されて、ない奴ははまりこむ。合理的ならば自己嫌悪は「得しないからやらない」で一蹴されてしまうし。勘だけど、この合理性はゆとり教育によって低下した気がする。個性を大事にする教育は立派っちゃ立派なのかもしれないが、個性=感受性みたいになっているのがやばい間違いなのだ。この感受性という奴に引っ張られて「本当の自分(笑)」みたいなもんに囚われているように見受けられる。個性というのは、本来外部への思索によって獲得される。「これはなんだろう?」という指示代名詞を使ったこの気持ちこそが興味を呼び起こす。「これ」をよく調査し、自分の糧とすることで個性的な思考を、本来の意味の感性を得ることが出来る。「自分ってなんだろう?」との問いは同語反復にしかならず、思春期の消化作用としては機能してもあまり意味のあるものではない。何について思考すべきか、なにが自分を突き動かすのか、僕たちは今一度考え直す必要があるように思う。

 

以上。ブログ最長になった。このシリーズ楽勝じゃん! パート1だけどな!

なんか毎回やりたいことやれ論になってる気がする…… でも、一番合理的な気もするんだよね。単に好きなことをやれれば、それがいいに決まってるさ! そのために僕はポテチとジュースの新商品を買うのだ。今日マイクポップコーンの高くて量少ない奴、オーソドックスなバターしょうゆがランクアップしたようなのを食べたが、印象は「20円のうまい棒みたいだな」だった。すっげえバター濃くてジャンクの領域に片足突っ込んでるからマニアは食っとけ!

いつダンスするー?

ベックはこう言っている。

「人生はダンスなんだよ。這うためにあるんじゃない。音楽はそれを高める作用があるんだ。ほら、音楽がないと踊れないだろ? 人間を踊れないと、這うしかない生き物なんだ。だから、今もピエロや道化師、ミュージシャンが存在するんだよ。ファサードなんだよ。どれも重苦しさを排除して、この瞬間を楽しむために存在するんだ。そう、音楽は今の瞬間に戻ってくれるのを助けてくれる。精神的なごたごたで自分を見失うのを防いでくれる。自分が誰でどこに行こうとしてるのかを実感させてくれるんだ」

 どういう意味だろう。この発言はダンスロック・アルバムである「mignite vultures」に収録されているため、そのためのリップサービスという可能性もあるが(それにベックは適当だし……)、考えてみよう。

 なぜ、ベックはピエロと道化師とミュージシャンを並置したのだろう? それは、全員肉体を見せるからではないかと思う。自分の肉体を晒すことの恐怖、そして全力でパフォームして期待する観客を楽しませるということ。ジョンケイルはサングラスを付けている理由は観客を見たくないからだといっていた。自らの肉体を晒してパフォームする。それは正しくダンサーも一緒である。音楽がないと踊れないのと平行して、アーティストもまた踊り続けている、自分の音楽に酔って。観客の前で見世物であり続けるのだ。そうなると、作家や画家は肉体を見せるわけではない。美術的なパフォーマンスや朗読は別にしても、肉体を見せる必要がない。

 最近亡くなった松智洋さんが僕に凄い迫力で言ってきたことがある。「小説は読者の前で裸踊りすることなんだよ!」作品と作者はリンクしない。当然である。エロ漫画を女性が描いてるからって、描いてる通りの願望があるわけあるまい。だが、どれほど冷静に論理を組み立てていても自分の思想が恐ろしいほど出ているときにふと気づくときがある。それは正に「裸に」なっているかのようであり、今すぐにでも削除したい代物だ。作者はそれを消さずに提出しなければならない。10万字だったら10万字分踊らなければならない。作家や画家もまた踊っている。

 表現者でなくとも、なにかを決断して行うことは踊ることである。それはなんだってそうだ。友達と仲直りするとか、何かをプレゼンするとか、そういうこと。なにかをやることは間違う恐れがあり、失う恐れがあり、そして間違いなく見世物になることである。だが、そうでなければ這うだけなのだ。リッキー・ヴィンセントが日常にもファンクがあるといったように(それは「midnite vultures」がファンク色の強いアルバムであることと繋がる)、やはり人生はダンスである。踊りを見て楽しむと同時に、自分も踊らなければ始まらない。他人の生み出すものが自分の今を切り取ってくれ、自分はその切り取ってくれた今を踊るのだ。今この瞬間こそが、ファンクネスなのであり、唯一のステージである。

 

以上。ベックは素晴らしいアーティストだよね! 天才だと素直に思えるひとだ。この人は発言にも切れ味があって色々凄いことを言っているのだが、そのへんは他の記事で紹介することになるだろう。インタビューを見ると彼は非常に客観的な人物なことが分かる。なんていうか、いい曲を作る理論って誰でももってると思うんだけど、大抵はアウトプットできなくて苦しむんだよね。ベックは客観性を持ってそのままアウトプットできる人、って印象がある。だから外れがない。ただ、ランダム性がないからちょっと堅すぎるかもね。それでも、まあいいのである。とりあえず、聴いて踊ろう!