そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

うるさい、俺は感傷的なんだ!

中々自作のプロットが考え付かないので、ブログを書くとしよう。
2020年も4月だ。来月で僕も28歳である。28歳! 書いてみるとびっくりするものがある。人間として一番脂が乗っている時期にこの体たらく! 見過ごすことは出来ない! もう少し精進します(最近色々怠けていました)。びっくりはしたが、思ったより感慨はないものだ。去年27になったんだから、今年は28なんだろう…… くらいの気持ちである。とはいえ、年は取りたくないものだ。肉体も頭脳もこれからは下降線を辿る一方なので。
さて、ここのところは体調が悪くてぐったりしていた。こんな世の中では、こうもなろう。あまり鞭打っても仕方ないので、程よく自分を甘やかすことにしている。なんというか、そう思えるあたり僕も変わったものだ。かつてだったらもっと自分を責めていたような気もするのだが。多分、「時期を過ぎれば勝手にやりだす」と自分を信じているのだろう。確かに、奮起したところでどれほど効果があるか分かったものではないので、案外正しいのかもしれない。結局、どう思ったところで自分が変わったりしないものだ。行動に起こさぬ限り、変化が起きることなどありえない。そういう意味では、「いかに行動しやすくするか」には注意を払うようになった気がする。作業中はスマホをバックに入れたり、なるべく同じ時間に作業して習慣化したり、そういった形の工夫に力を入れるようになった(この辺りは社会心理学や行動心理学の本を読んだのも大きいな)。
ふと思えば、僕は前よりも思考や感情に興味をなくしているようにも感じてきている。さっき言った「自分を責めない」こととも繋がるの話だが、やはり自分を信頼するようになったからだろう。考えや思いは「ほっといても大丈夫」なのだと思い始めたのだ。アドラー心理学では無意識は信頼できる存在だと論じているようだが、それに近いのかもしれない。自分を自分の力でコントロールしようとする必要はなく、放置してもちゃんとやってくれるものだ。「人間こうあるべきだから、こうしよう」というスタンスはすっぱり抜け落ちてしまった。どちらかといえば自分のやりたいことに時間を注いだ量が、自己評価の全てになりつつある。手を動かせ、手を! という訳である。
めんどくさい理屈だが、僕が言っているのは「とにかく手を動かせ」ということではない。僕が思う「思考や感情をほおっておく」とは、「自分がそう考えるのならそう考えているのだし、そう感じるのならそう感じているのだろう」ということだ。これは現象学や哲学ではない。もっと感覚的な話であり、身体生理的で、主観的だ。悲しいのであれば悲しいのだろうし、嫌な気分なら不快感が確かにあるのだろうし、好きになれないのは自分の好みや価値観と反するのであろう。僕が言いたいのは、「こうあるべきではない」と断じて自分を封じるのは良くないということだ。そうやって最初に得た感覚的な体験を否定すると、逆に自分自身が把握できなくなりどこからが主観でどこからが客観かが分からなくなる。冷静な判断に必要なのは、論理的な思考と自らの個性の両方を把握しなければいけない。だから、普遍的な事実を追い求めるとして自己内省は重要なのだ。感覚を深掘りしていかなければ、自分がどこで論理を「自分好み」に捻じ曲げているか掴めなくなる。
そういう訳で、僕は一周回って感傷的になることも許容している。かつて言った「悲しいときは悲しめ」理論に近いが、もっと自分に甘い。あの時は「悲しみという感情」と向き合えという話だったが、今回はそれに加えて「過去への哀惜を持つ」ことも許している。いいんじゃなかろうか? 戻れない過去を懐かしんでも。それで時間を浪費しすぎたら問題だが、作業量を確保できているなら存分にやってくれ。僕が思った事なのだ、なにを恥じらうことがあろう? 僕は感傷的な男なのであり、いつだって嫌気がさしていて、寂しさと虚しさを抱えている。だが、それ以外も選べなかったのだ。そして、だからといって人生が満ち足りていない訳じゃないし、まあまあ愉快でもある。もちろん現状になにもかも満足していることはありえないが、かといってそんな自分を否定する意味もないだろう。個人的には、その方が責任があっていいと思う。しょうもない自分を「背負って立つ」方が、拒むよりかは潔い。
そんなこんなで、とりあえずはなにもかもを許容するようになった。ま、諦めの気持ちもある。どうせ自分からは逃げられないのだ。だったら、諸手を上げて迎え入れた方が得策でしょう。結局は惨めな気分で生きざるを得ないのだ。最早今更、ということである。だから、今でも思う。「もっといい方法はなかったのか、うまいやり方はなかったのか」と。ないのだ。僕は最善を尽くした。考えて、考え抜いて、徹底的に突き詰めて、悲惨な結果になった。そうである以上、これからを良くするしかない。ひたすらに生き抜いて、今までよりも上出来な最善を積み重ねていくことしか出来ない。当然、これからも後悔していくだろうし、失ったものが輝いて見えるだろう。悲痛な気持ちがこの身を吹き抜けるときもあるだろう。だが、そういった思考を肯定できるようになったことと比べれば、随分と可愛いらしいものじゃないか。

 

終わりー。終わり! 早く寝て免疫力を付けるのよ!

人生の意味とは、あなたの妄想です!

うわ、半年以上ぶりになっちゃった…… もはやいつも通りがなんだったのか覚えていないが、いつも通りいくぞ!

 

作品を一本書き上げたので、こうして舞い戻って来ました。元々は文章の練習目的で作ったブログだけど、昔と違って執筆が習慣的にできるようになったので今は羽休めの場所みたいになってしまった。ま、これはこれでいいだろう。あまり思想的ではなくなったので、語ることもそんなにないし。

こうしてブログを書いていると、一年も経っていないのにどこか懐かしさを感じる。僕ははてなブログの編集画面に直打ちで記事を書くが、いつもと違うインターフェースが特別感を演出させてくれる。心憎い奴め。調べてみたら最初の記事は2016年の9月だった。そうか、もう三年半経つのか…… ブランクは大量にあれど、意外と続いているものだ! 今は次の作品のプロットを練っている段階だが、あと一週間もすればまた書き始める気がするので、そしたらまた書き終わるまでおさらばだ。

懐かしい気分なので、サービスで昔よく取り上げた題材をもう一回話題にしようと思う。あんまり過去の再生産は好きではないが、作品を終えて頑張った自分へのご褒美としよう。テーマは、お決まりの「意味と無意味」である。どんだけこのことについて言及するんだって話だが、正直僕自身は興味がなくなっている。最近は実際に執筆する際の理論についてばっかり考えているので、話すことがなくお得意の話をするしかないわけだ。つっても、前よりは違った考えにはなってるんじゃないかな……?

以前僕は、人生の意味についてこう答えた。「生きる意味は人間にないが、生きていることに『価値』を与えることは出来る」記憶を頼りにした完全にうろ覚えだが、こんなことを言っていたはずだ(多分)。所詮自分の意志で生まれていない以上、意味はないだろう。しかし、人生を楽しく愉快にすれば自分の生に対して「価値づける」ことが出来る。今でも、この考えは間違ってないと思う。本質的に無意味であるのは事実だが、自分で良いと思えれば何の問題があろう? 

確かにこれは正解だ。だが、「そのことを承知したうえで、生きる意味を探すべき」だと今は思う。「生きる意味がないのになぜ探す必要がある?」と誰しもが聞くだろうが、その通りではある。だが、違う。いくつか理由を言うと、そもそも生きる意味がなしで人の生は成り立たないのだ。意味がないことは事実だ。しかし、意味のない人生は根本的に脆い。もし、快楽的に楽しい人生を送ることに価値を置いた場合、楽しくなくなったらその人の人生は藻屑と化す。価値の弱さとは、自分の価値を失った瞬間に全てが崩壊することだ。意味と価値の違いは、シンプルに言えば「意味は生きる意義を生むが、価値は意義を生まない」ことだ。だから意味を求めなければならない。意味がなければ「意義づける」ことは叶わない。意義がなければ、人生に影が落ちたとき救い出す手立てがない。とはいえ、意味がない以上見つけること自体が不可能だと思うだろう。そう、不可能だ。この世界に意味はない。そういったバラバラの不連続な現実に我々は住んでいる。しかし、それでいい。

僕は臨床心理について勉強しているが、トラウマを解決するのに重要なことに「意味を見つける」というのがある。例えひどい虐待を受けようと、悲惨な事故によって肉親をなくそうと、意味を見出さなくては解決は困難だ。父親に暴力を振るわれ続け、母親が無視を決め込んでいても、悪夢のような日々に対して意味を持たせなければならない。分かりやすい例をあげるなら、「両親にやられた分、自分の子供には過ちを繰り返させない」と固く決意して、経験として捉えていく方法がある。もちろん違った解決法はいくらでもあろうが、意味と解釈による治療法は快方へ向かう強い原動力となる。だが、ここでいう「意味」とは所詮幻想にすぎない。結局のところ、虐待にあわないのが一番いいに決まっている。もっと残酷な言い方をすれば、「自分に都合のいいように解釈」しただけだ。でも、そうでなくてはならないのだ。意味がなくとも、作り出した意味が幻想だろうとも、やらなくてはならない。意味がないというのは厳然とした事実だ。だが、僕から言わせれば「意味がない」と断ずるのは「簡単なだけ」だ。例え意味が存在しないと理解していても、世界が無意味であると実感していても、自分なりの生きていく意味をひたすらに探していく必要がある。僕が語っているのは論理ではない。客観的には間違っているからだ。ゆえに、僕の意見も間違っていると考えることもできるだろうが、僕からも一つ言えることがある。「自分の人生を生きる」とは、究極的に主観的なテーマだ。そもそも、そこに客観性を求めること自体が間違っている。自分がよりよく生きるためならば、いくらでも幻想を抱いていいのだ。嘘だと分かっても、満たされていればいいのだ。社会的な活動の際には客観性はあるべきだ。しかし、自分一人の世界に客観性などいらない。人から見たら間違っていても、「自分は正しく、この世界を生きるに足る人物だ」と断言できるのなら、そこには何一つ間違いはない。

僕たちに必要なことは、「自分と世界を区別する」ことだ。確かに、自分は世界の中の一要素だ。だが、自分自身の生き方とはいくらでも間違えていいのだ。「私はこれでいい」と思えるならば、それ以上に正しい答えは存在しない。個人的なことを言えば、僕は正しさという価値基準に興味がない。何が正しいかなんて僕にはさっぱりわからないし、正しいことをやり続けるのが正解とも思えない。無意味だと断じて踊り続けるのも、正しさだけを求めて途方に暮れるのも、もういいだろう? 虚しさと向き合い、不敵に笑ってみせるのも、もう疲れたろう? 本当に必要なことは、心から安心できることだ。穏やかな気持ちで、流れる風に安らぎを感じることだ。どんな人生を送っていても、安寧を得る資格がある。根拠もなく全てを認め、自信をもって世界と繋がることが出来る。そして、そのためならば、僕はどんな手段も選ばないだろう。

 

 

この辺で終わりまーす。久しぶりの割にはキレがある…… と思いません!?(凄いキラキラした目をしている)

物語と私(前篇を読んでから見てね)後編

こうやって、机に座り文章を書く。書くこともないのに、書ける時間は(今現在)5分もないのに、体調も恐ろしく悪いのに、とりあえず書く。ここになんの意義があるだろうか。実益がそこにあるのだろうか。いや、逆なのだろう。書くことでしか、解決ができないということなのだ。原理も原因もわからないが、直感的にはそう思える。連続的に意味を連ね、論として構成するやり方が自分の性にあっているという、ただそれだけなのだろう。メダロットでは全てをロボトルで解決するように、ポケモンならポケモンバトルで、遊戯王ならデュエルで、僕ならばこうやって書くことで、という感じである。吐き出さなければ、感情は閉塞されたままで行き場を失い、毒として体を滞留する羽目になる。であるなら、ロボトルをしなければならない。全ての決着ガンダムファイトでつけるしかない。創作行為はアートセラピーとして臨床でも使われるが、確かにカウンセリングに似ている。セルフカウンセリングは本来なんの効果もないのだが、創作においては「表現理論に則り創作をするエンジニア(あえてアーティストとは言わない。ここでは創作行為を理論の体現と主観的感情の発露とで分ける必要があるからだ)としての自己」と「主観的な価値観や情動を伴った主体」が分離し、対話的な作用を発揮するのだ。分析することで原因を知り、ときには強引に全てを意味付ける。
我々は理由がない状態に耐えるのは困難であるから、妥協的に新たな価値を、希望を生み出すしかない。完全な実益の元に生み出される、人生の意味。前に進むために偽造される、前向きな思考。しかし、そうやってごまかすことは許されていないのであろうか? 僕たちは本物であるべきだろうか? 真実を追い求める求道者たるべきだろうか? 書くときに、僕は嘘をつく。思ってもないことを綴り、考えてもいないことを堂々と語り、断ずる。嘘に満ちた、真実を小馬鹿にした、見事に劇場化された、物語。なにが変わったろうか? 一雫でも得るものがあったろうか? 真実に固執すれば、もっといい未来があったろうか? 物語よ、一体お前は何を語るのか? 出会えたことに、慣れ親しんだことに、一欠片の後悔もなかったならば。ここにいる全ての原因を解き明かしてくれたら。僕の物語を、お前が語ってくれたら!
語ることでしか、伝えることはできない。言葉を用いなければ、思うことはできない。そろそろ終わりにしよう。洒落たとんちは懲りたろう。また、物語を書かなければならない。無感動なお話を始めよう。打ち明け話と、褪めきった思い出を情熱的に披露しよう。全ては昨日のつづき。移ろいゆくも、全てが模倣に見える毎日。だから、きっと書けるのだ。今日書けなくとも、いつかはやってくれる。苦痛の中で、苦痛が悪くないと思える瞬間が来る。狂おしい時の流れは故郷すら洗い流し、否が応でも僕たちを癒す。複製された日々でも、ここぞという刹那がある。物語は何も語らない。だから僕は嘘をつく。その嘘がまるで真実にしか見えないように、朗々と語る。生きる意味が幻想だと思えないよう、物語であることを演じる。





うむ、終わりだ。以前友達に「俺の人生は百戦して百勝する人生だ」と言ったことがあるが、こうして読み返すとそんな感じはするな

物語と私(いかにも国語の教科書的なタイトル)前編

今から書くことは愚痴とか弱音の類であろうと思う。
笑えることに、書く内容もよく決まってはいないのだが。
だが、これより綴る文字を無根拠ながら公開したいと判断したのは確かだ。

 去年の今頃から物語を鑑賞しなくなった。
 全くという程ではないが、三か月に一遍友達の作品を読むとか、その程度のものだ。これは小説のみならず、漫画、アニメ、ゲームといったストーリーのあるものすべてを指す。ちなみに本は読んでいる。ただ、臨床心理とか神経科学とかの学術的な研究の一般書をひたすら読んでいるだけだ。物語はひどく興味がなくなっていった。つまらない訳ではないことを知ってはいる。面白い物語がまだまだこの世にあふれていることも知っている。だから俺が読まなくなったのは理性的な問題ではないのだろう。趣味嗜好の変化だとか、(メカニズムはわからないが)生理的に拒否反応を示すような感じなのではないか。それでも、「理性的」に物語を語ることを許してほしい。
 数年前、大学生だった俺は物語が好きだった。前衛的な文書に恋い焦がれた時期もあったが、やはりストーリーは前提としている、という結論にその時は至った。それで書く文章もストーリー性を持たせるようになった。芸術系の大学だったのでそういうことを考える機会は多かったわけだが、そもそも俺は小さい頃から物語が好きだった。2歳くらいの時は母親に読み聞かせしてもらって、一行飛ばしたら文句を言っていたらしい。4,5歳になると自分から本を勝手に読みだして、今まで読書の習慣が絶たれたことはなかった。そのせいか文章は好きか嫌いかというより、もっと習慣的なものとして捉えている。
 大学生の頃は、キャラクター論もよく考えていた。長い文脈から構成される厚みのあるキャラクター像とは、なんと魅力的な存在であることかと思ったものだ。サブカルチャーと絡めて東浩紀大塚英志も読んだりした。知識を深める度に、キャラクターと物語が織りなす構造の美しさ、その精緻さに心を奪われたものだ。なぜ冷めてしまったのだろう? かつての興奮が嘘のようだ。
 なんとなく、いつからか思う時があった。物語は、キャラクターの関係性に帰結しすぎると。当たり前といえば当たり前なのだが、問題は構成要素の中でも影響力が強すぎることだ。バトルでも、ラブコメでも、四コマでも、スポーツもので全てはキャラクターの変化が主眼となる。物語の性質がいくら変わっても、「キャラクターをどう動かすか」に終始する。そして、そんなことは誰もがわかりきっている。だけど、そのことがひどく気にかかるのだ。俺が正しいとしても、だからとって物語がつまらなくなったりしない。そういった構造を有した上でも素晴らしい作品は作りえる。それも分かってる。だから俺自身の問題に過ぎないということでもある。俺自身の問題だということも、最初の時点で分かり切った話であろう。であればこの文章は何ら意味をなさない。じゃあなぜ書いているのかというと、物語を楽しめなくなったことが、たまらなく悲しいからだ。悲痛で、悲痛でしょうがない。楽しみたいのは本音だ。だが、感覚が言うことを聞いてくれない。上述した考えが、頭をよぎっては文章を無機物化する。何より嫌なのが、最近はこの思考が一過性でないように思えてならないのだ。一年経っても消えないどころか、感覚はますます確信を得る。だから、自分自身の問題でありながら、なぜ俺はこうなるのだろうと嘆くことに逃げるしかなくなる。そう、困っているのだ。楽しめたものを、楽しめないことに。違う楽しみを得てはいる。更に言うと、その楽しみは物語すら超えるほど楽しくもある。だからといって、代替物にはならない。多分そこには、ノスタルジアも含まれている。人生のほぼ全てを通底していた、誰よりも長い付き合いだった存在が、もう何も目を惹かなくなってしまったのだ。こんなに分かっているのに、こんなに愛しているのに!
 ……まあ、もうよそう。十分喋ったし、気も晴れたろう。賢者タイムだ。しかし不思議なこともあるものである。単に俺が病んでるだけだからなのかもしれないが、深く考えるのはよそう。俺は賢者だ。思考は一度捨て置け。
 そして今綴られたこの文章に、なんの価値があるだろう。書くことで何かが変わったりしただろうか。暴露的な文章を書くことの医療的効果はどれほどだろう。簡単だ。価値もあるし、きっと何かが変わったし、効果もあっただろう。人は書くことで救われたりはしない。でも、書いてみるしかなかったのだ。物語が色褪せたなら、色褪せた物語を語るしかない。埋葬的な手続きの中で、我々は真実を知る。セピア調の回想録が無意味だったりはしない。だから俺は書くしかなかったのだ。深い悲しみに、墓標を立てることを。長いまどろみが、いつまでも続くよう願うことを。

人並みな幸せから繰り出される健康な人生

 久しぶりだな! 作品が終わったので戻ってきたぞ!

  プロットのストックがないので、1作品書き終わると手持ち無沙汰 になってここに舞い戻ってくる羽目になる。 次の作品はプロットを綿密に書いてみようと思ってるからブログは 結構書くかも。ここは作品がすぐ書けないときの逃避先なので。

  愚痴になるが、今回書き上げた作品は出来が良くない気がする。 前回も微妙だったし、なんだかなあ!  流石にしんどいといえばしんどい。能力の低さに嫌気がするし、 作り上げられた作品達にも申し訳ない。こんな親でごめんよ。 音楽方面も中々上手くいかんし、 流石に俺でも打ちひしがれるものがある。とはいえ、 どうせまた書くのだろう。今も書いてるし。 昔はやるべきこととか、 頑張ることに意味はあるのか悶々としていたが、もう違うぞ。 別に過去疑問に思っていたことが解決したわけではない。 やるべきことは特段ないし、頑張ることに意味もない。 それでも俺はまた書くのだろう。最近わかったことはそこなのだ。 色々うじうじ考えても、また机には向かっていくのだろう。 なぜなら、結局どこまで言っても俺はオタクなのだ。 それ以外にやることもない、暇で悲しき生き物なのだ。 根っからのオタクがいくら自問しても意味がない。最終的には「 オタク活動」に終始する宿命を背負っているから。それ以上にも、 それ以下にもなることはできない。だから、 最近の人生目標は「気ままに(文字通り気のままに)生きる」 にしている。考えていてもしょうがないので、 気のむく方へ生き抜けばいいんじゃない? と。でも俺の気とはやはり「オタク活動」なのだ。自分の強烈な「 オタク性」がそうさせてしまうから。そこに選択権は一切ない。 俺自身が、「オタク性向」の奴隷なのだ。

  もし、誰かに「オタクでよかった?」 と聞かれればどう答えるだろう。多趣味な人を羨むことはある。 コミュニティで楽しく振る舞い、 連夜のどんちゃん騒ぎに憧れてもいる。 俺はそれを洞窟から見ることしかできない。 口を開けば表現論か人生哲学か臨床心理。 そんな奴がパーティに加入できる可能性はあるわけないので当たり 前だが。そこにあるのは虚しさでない。俗な快楽に対する、 非常に通俗的な羨望である。洞窟は洞窟でいいもんだが、 やっぱりひなたが気にかかる。凡人くさい発想もいいとこだ。 ただ、俗な快楽を切り捨てるのもどうなんだろう?  と頭をよぎるときもある。外の世界をシャットアウトすると、 今度は洞窟内で人も文化も循環させるしか無くなる。 それはそれでグズグズになりやすいのも確かだ。 サブカルチャーの不健全さとは、 そういうところに由来しているのも否定はできないだろう( 社会全体が不健全化したのか、 サブカルチャーがメジャーシーンに出てしまったが)。 ひなたの馬鹿騒ぎだけだと冷静さを失うが、 洞窟にこもりすぎると行き詰まる。バランスだよ、バランス! というなんともつまらない結論へ到達する。

  とはいえ、詰まるところそういうことじゃなかろうか?  人間関係だって、 社会的な存在として私的な自分を隠蔽しつつ最初は接して、 仲良くなるにつれて不足なく自己表現できるようになる。 個性を隠しすぎると個人性が消滅し、 曝け出しあって密着すると極度の依存関係に発展する。 依存症について書いた「愛着障害アディクション」には、 社会的なやりとりと自己表現を状況や関係性によって押し引きする のを「健全な人間関係」だと定義している(俺はこれを「 仮面のずらし方を変えていく」と呼んでいる)。健全さとは、 健康であるとはバランスの上に成り立つのだ。 極端に走ることなく、 二極の間をどう押し引きしていくか見極めていく。 そういうデリケートな作業をして初めて実現するものであって、 めんどくさいといえば滅茶苦茶めんどくさい。 それになんとなくつまらない感じもする。 苦労をして得られるのは、 安定してはいるが慎ましくささやかな喜びである。

  だが、それこそが「続けていく」ということなのだ。 今日が終わって明日が、明日が終わってその明日が…… 一定のスケールを持って繰り返される日々というものを、 あまりに途方も無い人生というスケールを我々は過ごしていく。 例え強い快楽を捨ててでも、健全に生きて「続けていく」 ことが重要なのだと自分は判断する。極端な生き方を選び、 刹那的な強い快楽と人生を通底する本質的虚無を共にするよりも、 永続するゆるい満足感を得ることに価値があるのだと。 そう生きることで、あまりに長い一生に相対した上で「 気ままに生きよう」と俺は選び、ひた走ることを決めたのだった。

 

 

 

 


エンド。終わりを英語にするとこんなにカッコよくなる。



 

行くべきだ。しかし待つことしか出来ない時もある

 このブログの更新頻度が上がってきているときは書くことがない時である。本当は作品に取り掛かりたいんだがなあ! とりあえず僕が立ち直るまではお付き合い頂きたい。
 しかし不思議なものだ。精神的な問題はないし、やる気がないという訳でもない。ただアイデアだけがぽっかりと失われている。そういう時は待つしかない。時間だ、時間が俺に解決をもたらす! とはいえ、待つとは焦れるものだ。かといって、起こすべきアクションもよく分からない。出来ることは、こうやって書く作業を鈍らせないようにダラダラ書き続けていくぐらいだ。太宰治の「待つ身と待たせる身、どちらが辛いか」はその通りで、動かないで解決できることよりも動いて解決できるほうが健全ではある。ある意味パニック障害的な原理だ。パニック障害の症状として、動悸が激しくなったときに「このまま動悸が収まらなかったらどうしよう」と思ってしまうことがあるらしいが、確かに似ている。パニック障害も基本的にはただ待つことしか出来ない。待つことしか出来ないと、人は「一生解決できないのでは」と思ってしまう癖があるのかもしれない。実際には時間が経てば大体の問題は解決するのだが、そこまで冷静にはなれないのだろう。ちなみに、医者から診断されたわけではないが僕もパニック障害的な症状が月一で来ていたときがある。別に病んではいなかったので原因は謎だが、なってみると厄介なものではあった。あれの本質体な問題は先述した「ただ待つしかできない事から来る不安」と、「いつ起きるか分からない恐怖」である。症状自体は生活に大きな支障はない。いつ終わり、いつ始まるのか見えないことに神経をすり減らすことが危険なのだ。症状自体が「潜在的」と言えるだろう。
 と、パニック障害はいいとしよう。もうこいつは暫く僕の元には来ていないし。しかし、やはり待つのは不安だ。頑張ることで救われる方がよっぽどいい。時間こそ何よりも人を癒す道具だが、例外の一つとして家庭環境がある。自分の生まれ育った家庭環境は、意識して改善しないと一生引っ張る。自分の受けた教育を「反省」しないといけないのだ。良かったか悪かったか判断して、自分への影響を調査して、適切な対処をしなければならない。人は意識していないと人から受けた行いをそのまま他の人にも行う。先輩からこっぴどくしごかれた後輩は、先輩になった時後輩をこっぴどくしごくのだ。幼いころの自分は、過去で僕たちを「待って」いる。その時は迎えに行かなければならない。そして、かつての自分に意味を見出してやり、必要なら「もう大丈夫」と言って抱きしめてあげるのだ。だから「反省」とは「帰郷の旅」でもある。自分の経験や体験を反芻し、自分の残像へ会いに行く。会いに行かない限り、過去が歩き出すことはない。それに現在のあなたも縛られ、同じことを無意識に繰り返す。時間は傷を治すが、傷ついた分だけ脆くなったことには気づけない。だから出かけよう。愛されていたのならもう一度噛みしめ、そうでないなら自分で不安がる幼子を愛してやろう。そうして、あなたは現在の自分自身を抱きしめられるようになるのだ。

一瞬を切り取り、永遠を広げ、狭間だけが残り

今回は前回に引き続き「書くことはないがとりあえず書くシリーズ」の一つです。それではどうぞ。

 こうして文字を打ち並べること。言葉が意味を成し、無意味と共に連なること。自らの詩性に耳を傾けること、論理を一つの書として体現すること。全て言い方を変えた一つの概念。修辞法に人生を費やし、文法に己を奉ずる。ただただ、打ち放たれる文字群。内へ、放たれる放言。不完全な唇で言語性を探し回り、無空。
 「書く」とは、なんだったろうか。どんな感情が伴う遊びであったか。あらゆる余暇を打ち捨て、文が章立つ。語句の意義、蓋然性、計測するに値する価値の定義。空漠のページに一滴。無に積み重なる理論粒。賽の河原にて一人、巨城と接続。そうやって孤独を深めるのだろうか? あるいは、永遠と深い仲になるのだろうか? 考えた上で考えず、突き詰めたうえで帯を解く。この意味内容はあなたか、あなたの欠片か、ただの文字群か。流れる音、揺蕩う水素、暑さ寒さ、事柄へと消え虚しさを知る。全てを愛せる貧しさと、拒絶して成り立つ豊かさとを。いつ終わり、いつ始まったかすら終ぞ忘れる事件ファイル。目線が重なり、情報を詰め込み、誰もが全てを忘れる。戻ることは出来ても、進むことはできず、現在の最奥で古傷に震え。
 そうだ、失うことが出来ただろうか? 自由にかじかむことは出来ただろうか? 出来れば、戻ることが出来ないか? 手に入れた黄金は幻想、錆びた真実は過去の中。今を嘆き、虹色の時代を思い描き、灰色にくすんでいく。闇夜にも行けず、がらくたは捨てられず、ただ望まぬものばかり手に入れる。失うことは出来ない…… そうして、高みから希望を見下ろす。手遅れな目線を高らかに向けて。生き方によって賞罰がつけられ、何もできず朽ちてゆく。否応なしに、分別なしに、焦げカスへと近づく。何をやっても遅すぎたのだ。
 ここにあるのは車椅子。踊るだけの意志をなくし、揺りかごで忘れられる。なにもかも思い出せる。なにもかもを輝かせる。しかしここにあるのは車椅子。足をなくした代用品。それこそが与えられるものの全容だ。安らぎを見せる薬。かつての景色そのもののハリボテ。ひもじく貪り食う。食っても食ってもひもじい。だから眠る。踊ることが出来ないから、車椅子に身を預け、青空を願う。
 空無の中で夢を見る。でも、僕は肯定できる。悲嘆の氾濫を、優しく抱き留められる。だから書かないと。希望は綴ることでしか表現できず、我々は言葉しか喋れない。それこそが永遠で、満ち足りた世界を駆け巡る安らかな眠りだ。意味が全てを変えてくれる。風はどうあれ、風向きは好き勝手にできる。速く走ることは難しいが、今すぐにでも走ってやる。信じられないほど無力だが、ためらいはしない。体は駆動し、現実を感じる。脳が作動し、物語が始まる。心はここにある。誰にも近づけない祈りを以て、頬が触れるほど近くに。