そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

君はこのダブルラリアットをかいくぐれるか?

 

 おはよう。朝から雨だが頑張って散歩していた。小雨の日に歩くのは中々気分が良いもので、冷涼感が肌を通り抜けるのもいとおかし、である。傘をさすとソディス(ソーシャルディスタンスの個人的略称)が取れるのでそういう意味でも悪くないのかもしれない。
 傘は人との間隔を保つ。半径85センチがこの手の届く距離だから、離れないといけない訳だ。今言った冗談は巡音ルカの「ダブルラリアット」から引用しているが、しかし素晴らしい歌詞だ。心理的な距離を物理的な事実に置き換えて、孤独を巧みに表現している。この曲ほど「感性豊かな子供だったが、幼少期に家庭や友達に疎外されて人の気持ちを察することばかり上手くなってしまって踏み込んだ関係を持てない少年(あるいは少女)」を的確に言い当てているのを見たことがない(こういう子は摂食障害やパーソナリティ障害、アダルトチルドレン辺りを症状として抱えるメンヘラになりがちである。先天的にADHDもありそう)。我々はどこかで距離を置いて接しないといけない。しかし、そもそも距離を置かないことが出来るのか? 他人の気持ちなど分かりっこないのに? その理解が勘違いだとも思わず? だから、「人は所詮一人だ」という思想を持つ人は正しい。僕もこのブログで書いてきたが、それは正しい。所詮誤解や美辞麗句で人間関係は成立しているのだから、裸の自分を捉え切る「運命の人」は一生現れない。
 ここまでは過去に書いたこととあまり変わらない。今思うと、これはあくまで心理的な構造を描いたことだ。問題は「じゃあどうすればいいの?」ということになる。実生活に使える理論としなければ、全ては空振りに終わってしまう。
 少し話を脱線しよう。実用性を重視するのは、正直つまらない。そんな「庶民的な」考えは退屈である。だが、構造だけ描き出しても何も起きない。東浩紀等のメタ的な批評は見事だが、構造だけ抜き出しているから現実味に乏しい。結局、作品について論じるとは感覚的な影響を語ることじゃないかと僕は思う。作品の構造をただ語るのではなく、その構造が鑑賞者の情緒に与える要素を考えることが大切なんじゃないだろうか。学術的な論文や資料ならともかく、批評であるならなおさらだ。個人的な見立てでは、現代における哲学の価値とは正にそこだ。客観的な論理と今を生きている我々という主体を繋ぐのが哲学的思索であるべきなんじゃねえのか、と思うのだ。
 閑話休題(これを使いたくて脱線させた気がする)。人は所詮一人、この理屈は正しいとしよう。だから好き勝手生きろとか、自分を大事にしようみたいな意見はまあまあ見る。これも正しい。ただ、これは純粋で単純すぎる。好き勝手生きることを実践しても、日々の葛藤はあまり解消されないだろう。なぜか。簡単だ、「人は所詮一人」でも、「人は一人では生きられない」からだ。いくら好き勝手に生きても、それで孤独を埋め切れる人はごく僅かだ。というか、それが出来るのは「天才」だけだ。インタビューを受ける人は「天才」だらけだから言う人が少ないが、孤独に耐え続けられるということは相当例外的な才能に属する。いやー、無理だろ。僕も凡夫だから無理だ。じゃあどうすればいいかっていうと、実にシンプルだ。あなたは死ぬまで孤独である。これは変えようもない。それでも、仲のいい友達と話していて愉快な気分になったことはあるだろう。自分の悩みを汲み取ってくれて感謝したくなったこともあるだろう。この事実を大事にするってことじゃないのか? 生涯孤独なことは変えられないが、気心の知れた友人としゃべる楽しさが否定されるわけじゃない。「人との関りを楽しんでいる」という事実がなくなったりはしない。我々という主体には非常に重要な能力がある。孤独ではないと「勘違い」出来るのだ。論理が絶対でも、我々がその通りに思っているかは分からない。なぜなら、我々はいくらでも「間違える」ことが出来るから。論理的にはありえないエラーをいくらでも起こせるから。だから僕は「孤独だから孤独を受け入れろ」なんていう甘いことは言わない。「孤独だから孤独じゃないと勘違いしろ」と出張するのだ。んなこと出来るか、と切り捨てたくなるだろう。だが、友達と馬鹿な話で盛り上がることの「エモさ」は絶対的なのだ。孤独であることは事実だが、あなた自身はそれを忘れて楽しんでいることも紛れもない事実なのだ。そう考えたら、案外孤独ってのも大したことないだろう?
 オタク的早口で一気に突っ走ったが、まあこんなところじゃないだろうか。一つ補足すると、「孤独だから孤独じゃないと勘違いしろ」は少し過激すぎた。正しいっちゃ正しいんだが、ハードルが高すぎる。修行僧の方だけやればいいんじゃないでしょうか。もっと厳密かつ慎重に言うなら、「人とのつながりの中で、人間は孤独なだけじゃない」ってことだ。全てを突き詰めて客観的事実に基づくなら、確かにそうなる。だが、それ以外にも沢山の情報があり、思いがあり、伝えたいことがあるだろう。そこを忘れては駄目なのだ。本質だけを考えるのは論理の中だけでいい。主体というのは感情や勘違いや間違いといった雑多な情報を抱えた「エモい」存在なのだ。僕は哲学的な人間であるから、あくまで「人生を貫く本質的な孤独」を前提に据える。だけど、本質が僕を「エモく」させてはくれない。人間が「エモく」なるのは「エモい生き方」をしている時であり、本質に従って生きることが正解とは限らない(僕は変人だから、そういうこと考えてると勝手に興奮してるけど)。そうだ、「エモさ」に従え。長き船旅の航路は情動こそが握っている。論理は厳然として大地に根を張っているが、孤独な船旅を続けるあなたを導いたりはしない。死の瞬間まで寄り添ってくれるのは、誰でもないあなた自身のエモーションだ。

終わりである。今まで友達がいなくて、「仲のいい友達と話すときの楽しさ」の例えが分からない人は…… ええと、ええと…… ググるか、日常系アニメ「きんいろモザイク」でも見よう……(超適当)